つばめきたる
月島金魚
【宴】
0、宴――これがすべてのはじまり
はじまりはいつだって騒がしいものである。
新正月、元旦。
巨体の亥神は折れた
皆あまりのことに声もない。すぐにまた廊下から慌ただしい足音がして、ぽっかり空いた鴨居の下に、新たに四名が姿を見せた。暦たちの上司、四季である。
「亥神さま! こら、そろいもそろって何をぼんやりしておる。早うお助けせんか!」
秋に一喝され、皆ようやく我に返った。昨夜から身にまとって福福していた酒の酔いは瞬時に冷め、力自慢や筋肉馬鹿が協力して亥神を起こし、すばやい者は新年初日から運のない犠牲者を救護する。残りの者は目も当てられぬほど散らばった酒や食べ物、襖や長机の残骸をのろのろ片した。
乱れた着物から毛むくじゃらの足を投げ出し、顔を真っ赤にして肩を上下させる亥神に、
「どうぞ、お水です」
「ああ、すまない……。ほんとうに、すまない」
亥神は足同様毛深い手の甲で額の汗をぬぐい、ぐびりと一息に飲み干すと、深いため息で尻が床にめり込みそうなほど肩を落とした。
「やってしまった……。だからやりたくなかったのだ」
強面に似合わぬつぶらな瞳が今にも泣きそうだ。小山のような体躯を縮こまらせると、なにやら哀れを誘う様になる。
「亥神さま」
春が
「戻りましょう。他の十二支の皆さまもきっと驚いておられましょう」
「驚くよりも呆れておるわい」
愚図る亥神に、今度は夏が元気づけようと前に出る。
「先ほどの芸、亥神さまらしくて、わたしは好ましく思いましたよ。小細工をいっさい使わないまっすぐなところがあなたさまの良さなのです。あ、旧年の
亥神はきゅううとますます身を縮め、うり坊のように鼻を鳴らした。
なるほど、と皆が胸中で合点した。どうやら亥神は、本年の干支が年始の宴で披露する悪しき風習、一発芸で大失態を演じたらしい。
「緊張なさるのはわかりますが、お酒の力を借りたのはいただけなかったと私は思います」
ひんやりとした冬の物言いに、亥神は再度うなだれた。
「わしが失敗してしまって、なんと縁起の悪いことか。そう思わんか」
「思いません。亥神さまは熱心にお仕事に励まれるお方です。どの十二支神さまよりも堅くこの一年をお守りくださるでしょう――お酒さえお口になさらなければ」
「冬よ、最後の一言は余計であったぞ……」
四季に伴われ、亥神はしょぼしょぼと部屋から出て行った。十二支の宴で彼がどんな芸を披露したかについては、黙っていても誰かが仕入れてくるだろう。きっと明日には暦中の噂になっている。
嵐が去った座敷は惨憺たる有様だった。亥神も自分で言っていたが、大荒れの一年を予見するようだ。
「やれやれ……」
「兄さん、亥神さまは何の芸をしたんだろうね?」
「そういうことはあまり自分から話題にするものじゃないぞ、つばさ。後でお咎めを受けても知らないからな」
「大丈夫だよ。あの巨体に現れているように、とても器の大きなお方だもの」
つばさは着物の袖も上げず、雑に畳を掃いている。玄鳥至は弟から箒を取り上げると、かわりに大きな陶器の破片を押しつけてやった。
「周りに気を遣うお方だからご自身で笑い話になさるだろうが、俺はそういうのは好きじゃない」
「兄さんのカタブツ」
つばさはつまらなそうに口を尖らせて、飛ぶように去っていった。
玄鳥至が塵すら見逃すまいと畳の目に沿って箒の先を動かし始めると、すぐ近くからくすくす笑い声がした。
「つばき、顔が怖いわよ」
「
お気に入りらしい淡黄色の羽衣で口もとを覆い、
「兄弟だというのに、あなたたちは全然違うわね。お堅い玄鳥至に、冗談好きな玄鳥去。……やだ、また怖い顔してる」
玄鳥至が片手を頬にあてると、菜虫は可笑しがって本格的に笑い始めた。
「そんなに笑わなくても……」
「だってあなた、その仕草、女の子みたいよ。かわいらしい」
ひとしきり笑って浮かぶ涙を拭ってから、菜虫はようやく羽衣を下ろした。
「笑いはいいことだが、今は不謹慎じゃないのかな。君の同僚が二人ともはねられたようだが、そっちはいいのか」
「ああ……」
菜虫はけろりとして、
「そのくらいのほうが、今年は頑張ろうって気になってくれるでしょ。別に大したことじゃないわ」
そこへやってきたのは
「菜虫、そうも言っていられないようだぞ。あいつらの意識が戻らないんだ」
見れば広間の端に人だかりができている。行って覗いてみれば、被害に遭った者たちが横一列に横たえられていた。
顔ぶれは次のとおりである。(新暦表記)
蟄虫啓戸【すごもりむしとをひらく】(三月五日~十日頃)
桃始笑【ももはじめてさく】(三月十一日~十五日頃)
雀始巣【すずめはじめてすくう】(三月二十一~二十五日頃)
梅子黄【うめのみきばむ】(六月十六日~二十日頃)
温風至【あつかぜいたる】(七月七日~十一日頃)
大雨時行【たいうときどきふる】(八月二日~六日頃)
雷乃収声【かみなりすなわちこえをおさむ】(九月二十三~二十七日頃)
「
啓蟄の沈痛なささやきに、玄鳥至もわずかに首肯した。畳に散らばる髪と同じ茶色い睫毛は、膨れた涙袋に被さったまま動かない。
あらかた掃除を終えた者たちも集まり始めた。
「まだ目覚めない? そんな馬鹿な」
「春季と夏季の被害が甚大だな」
「冬季は皆無事か。席が離れていたのが幸いしたね」
「水に関わる者が二人……」
「亥神さまは水を司るお方。水害の年になるということか」
ざわざわ、ざわざわ。皆の不安がさざ波のように押し寄せてくる。その中に一人わあわあと泣く者がいた。
「弟よ! おれを庇って……。すまない、すまない……」
派手に泣く
「あまり泣くな、
「でも目覚めないんだ。何度呼びかけても、
目を充血させ、雷のような声でおいおい泣く発につられ、一人、また一人とめそめそする者が現れ始めた。見れば菜虫も横たわる同僚二人のそばで鼻をすすっている。それはあっという間に部屋中に伝染して、涙と鼻水のにおいまでするようだった。いやはや、まいった。
誰かまとめる者はいないものかと顔を上げると、ちょうど秋と春が戻ってきた。
「静まれ、静まらんか! いったい何事だ」
秋は皆が道を空けるのも待たず、ぐいぐい身を押し込んで前に出た。その後ろを春が急ぐ様子もなくついてくる。
秋は横たわる者たちを一瞥するなり、「ううむ」顔中のしわを深めて春を振り向く。
「あなたのところがまずいことになるやもしれん」
「まあ、ほんとうですか?」
春は間延びした調子で、「あらあ、大変」と桃色の唇に指をそえた。
「夏季もひどいな。私のところはなんとかなりそうだが……」
「そうですね。亥神さまが落ち込んでしまわれないとよいのですけれど」
「春さま、秋さま」
膝で進み、発は涙ながらに二人の足もとに手をついた。
「弟はこのまま目を覚まさないのでしょうか」
春は梅の芳香と共に腰をかがめ、発と目線の高さを合わせた。
「まさか。亥神さまの神気にあてられて気を失っただけですよ。そのうち気がつきます。ただ……」
口ごもった部分を秋が引き継ぐ。
「すでに予想した者もおろうが、これを見る限り、今年は水の災いが起こりそうだ。この者たちが自分の任期までに目を覚ませばよいが、そうならなかった場合、皆で穴を埋め合わさねばならん。新年早々この事態だ。今年は例年以上に気を引き締めよ。わかったな」
よい返事どころか「ええー……」という、なんともやる気のない声がそこら中からじめじめ湧いた。
「仕方なかろう! わしとて元日からこんなに走り回りたくはなかったわ!」
「酒だ、酒をくれ!」唾を飛ばし足音高く、秋は皆の輪から離れていった。
基本的に神々とは陽気でのんびりしているものである。よって暦の面々も、個性や程度の差こそあれ、総じてのんき者の集まりである。そんなだから酒という言葉が呼び水になって、皆ぞろぞろと宴に戻り始めた。
当然ながら玄鳥至もそこに乗じようとしたが、白梅が花開くような声に呼び止められた。
「つばき、あなたにお話があります」
「はい、春さま。なんでしょう」
いやな予感はしたが、相手は自分の所属部署の長である。仕方なくその場にとどまった。
「わたくし、妙な胸騒ぎを覚えているのです」
「はあ、どのような」
「あなたの日頃の仕事ぶりを見込んで頼みがあります」
「自分には向いていないと思います」
春は微笑して片手を頬にあて、小首をかしげた。菜虫曰く女の子の仕草である。なるほど、おなごにはこれがかわいいらしい。自分には歯が痛いようにしか見えない。
おっとりと、しかし有無を言わさぬ調子で春は言う。
「今年一年、皆をよく見ていてください。一人一人に話しかけ、些細なことでも逐一わたくしに報告を。あなたは人の話をよく聞くし、まとめるのも上手いでしょう。適任だと思うのだけれど、どうかしら」
「菜虫がいるではありませんか。皆に人気があるし、彼女のほうが向いていますよ」
春は痛ましげに伏せた睫毛を震わせた。
「菜虫は仲間がこんなことになって泣いていたのですよ。可哀想ではありませんか」
「おっと、そうきたか」
その菜虫は今や他の女たちところころ笑い合っている。春さま、どうか後ろを御覧ください。
「内密に行ってもらいたいのです。わたくしの杞憂であることに越したことはないのですから。いいえ、そうであってほしいと心から願うわ……」
どこか憂いを帯びた様子に玄鳥至も眉をひそめた。
「何をそんなに危惧していらっしゃるのか――」
さっと周囲を目で確認し、声を落とす。
「お教えいただけますか。よろしければ、後日」
「遠慮なく聞きにいらっしゃい。
清明とは二十四節気の一人で、玄鳥至の直属の上司である。その名のとおり
木漏れ日滴る若葉のよく似合う笑みを苦々しく思い浮かべていると、春は「頼みましたよ」と、風に乗る桜花の如く立ち去った。速い。もう部屋の反対側にいる。
「……今年はいつも以上に大変なことになりそうだ」
場はもうすでに飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。トンチキ、トンチキ、トンチキチキ。箸で食器を鳴らして踊る。行儀の悪さは猫も杓子も気にしちゃいない。いつの間にやら四季がそろって上座に座り、手拍子で音頭をとっている。
すっかり忘れ去られた気の毒な被害者たちに毛布の一枚でもかけてやるかとそちらを見れば、もう誰かがやっていたので、玄鳥至は口もとに笑みを浮かべてその場に背を向け、皆に交ざった。
脳天気な神々の宴。このまぬけな光景は、いかなる珍事が起ころうとも永劫変わらぬ。――はずだった。
その年の春、春分の初候を担う暦・
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