3、立春(前編)――虫啓と桃
「次はどこへ行くんですか」
影のように背後に付き従う雀の声に覇気がない。
揺れる春の宮の垂れ布にまどわされることなく正しい道を選びながら、
「
雀は髪の毛先までしゅんとなった。
「でも、おれが失敗してしまったのに……」
「あれは啓蟄さまの責任だ。それと
首をひねる雀に何と伝えればよいものか、玄鳥至は考え考え言った。
「俺たち暦は、なぜか思うように仕事を進められない。やろうとした瞬間に邪魔が入るとか、急に眠たくなるとか、そういうことがわりと頻繁に起こるんだ。自分の任期ピッタリに下界に合図を出すなんて芸当は逆に難しいんだよ。だから皆、だいたい任期の頃にあたればいいと思ってやっている。誰かが盛大にやらかせば、グチグチ言いながらも手を貸し合う。お互いさまだからな。気楽でいいぞ」
だから気にするな。玄鳥至は慣れない微笑みをつくって見せた。
――と言っても、さすがに無視できなくなってきたな……。
ここ十年くらいだろうか、皆の注意力が散漫になったのは。数名は目に見えて調子を落としているし、菜虫が鬼の形相で捕らえた
「それで、あたしたちはいつ解放してもらえるの? 虫啓とこうしてぴっとりくっついていられるのはうれしいんだけど、これじゃキスもできないのよね。ねえ、つばき、そうして突っ立っているだけならさ、この縄ほどいてほしいんだけど」
背中あわせに縄で縛られ窮屈そうに座り込む二人に対し、玄鳥至は惜しみなく軽蔑のまなざしを送った。
「お前たちはどうかしている」
「あはっ、同化しているって? 上手いこと言うじゃない。ねえ虫啓、聞いた? あたしたち、ひとつになってるって」
「そんなこと言われたら照れるじゃないか、つばき」
「菜虫の気持ちがわかった気がする」
玄鳥至はイライラと組んだ腕を指で叩いた。
「虫啓、たるむのもいい加減にしろ。お前の虫やヘビたちが急に起こされて参っていたぞ。お前がもっと前から少しずつ調整して起床を促してやっていれば、こんなことには――」
「おれさあ、ヘビが苦手なんだ」
虫啓の表情が暗く陰った。
「突然どうした。知っているが?」
「つばきが思っている以上にだめなんだ。虫だけならいいよ、かわいいから。でもヘビまで起こせって言われるとさ、昔のあの記憶が蘇って……うっ」
「きゃあ! 虫啓、しっかりして!」
前にかがみこんだ虫啓に引っ張られ、桃がのけぞる――うれしそうである。玄鳥至はそれを冷ややかに見下ろした。
「昔のとは、
「うわああ! そうだよ! 他に何があるって言うんだ!」
昔々、そのまた昔。虫啓はもうじき来る自分の任期のため、ご機嫌伺いで蛇神と対面した。人の形をとる十二支の
いつものことながら怖じ気づきつつ、威厳ある蛇神の前に彼はぬかずいた。すると驚いたことに、蛇神から「近う寄れ」と声をかけられた。そんなことはこれまでなかったので、虫啓は内心、心を許してもらえるようになったのだと喜んだ。いそいそと近づいて理由を伺おうと顔を上げたところ、真っ赤な空洞と先の割れた舌が見え――気づけば辺りが夜になっていた。
「弟が助けに来てくれなければ、おれは今ここにはいなかっただろう」
虫啓が戻らないという報せを聞いていのいちばんに駆け付けたのは、虫啓の弟であり秋季の七十二候の一人、
どんな手を使ってか――おそらく力業だが――虫啓は助け出された。光を感じて重いまぶたを持ち上げると、笑いながらも瞳孔の開ききった弟と、そばにはとぐろを巻いてめそめそと泣く大蛇がいた。以来、虫啓はヘビにトラウマを抱き、蛇神は虫坏を忌嫌っている。
「だがあれは結局、蛇神さまのご冗談だったではないか」
「冗談! あれが!」
「話を聞いた時は、お茶目な方だと思ったぞ」
「そうだった、お前も虫を喰らうんだったな。滅びてしまえ!」
「自然界のヒエラルキーというやつだ」
「かわいそうな虫啓! あたしがいるからね」
「桃……!」
「ほんとうにどうかしていやがる」
今なら反吐でもヘドロでも吐けそうな気分で顔を背けると、啓蟄の机の陰に、すっかり意気消沈して小さくなっている姿が目に入った。そうだ、こんな馬鹿共の相手をしている場合ではない。
玄鳥至は啓蟄に断りを入れて雀を連れ出し――虫啓と桃は要望どおり縄を解いて一度引き剥がし、部屋の端と端の柱にそれぞれ固く縛り直してやった――今後の段取りを考えながら立春へと向かった。
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