警告
増田朋美
警告
まだまだ花冷えというか、季節外れの寒い日が続いている今日このごろだった。それでも、花が咲いて、新緑というのにふさわしい季節になってきているのであるが、それでも、朝晩は寒く、まだ上着が要る日が続いている。
その日、自信が主宰しているアマチュアオーケストラの練習をし終えた広上麟太郎は、オーケストラのメンバーが用立ててくれたタクシーに乗るのをやめて歩いて自宅に帰ることにした。なんだか、オーケストラの人たちが用立ててくれたタクシーに乗ろうという気持ちがわかなかったのである。何故かというと、演奏する曲を巡って、オーケストラのメンバーと、派手な喧嘩をしてきたばかりだったからである。
全く、オーケストラの人たちも、困ったものだ。人数が足りないから、ベートーベンの交響曲なんてやれるわけが無いのに、メンバーさんときたら、テレビドラマでやっていたのと同じ曲をやりたいといいたい放題。そうするには金管楽器をもっと増やさなければならないと、麟太郎が言っても、耳を貸そうとはしない。せいぜい、今のオーケストラの人数では、ベートーベンの交響曲をやるのは不可能であるし、やれてもモーツァルトの交響曲で精一杯だと麟太郎が言っても、それでもベートーベンの交響曲といいはるので、麟太郎は、困ってしまったのであった。とりあえず、次の練習までに、新しい曲を用意してくると言って練習はお開きになったのであるが、返事だって、どうせできないとしか言うことは無い。それをどうやって、伝えればいいのかなと考えながら、麟太郎は、道路を歩いたのであった。
「よう!広上さん!今日は、アマチュアバンドの練習か?」
と、横断歩道で信号を待っていると、杉ちゃんの声がした。
「ああ、今日は、そんなところだ。」
麟太郎は、同じように道路で信号が変わるのを待っている杉ちゃんを見て、そういうことを言った。
「その顔を見ると、あんまり嬉しそうな顔じゃないな。なにかトラブルでもあったか。」
杉ちゃんにそう言われて麟太郎は、
「まあそんなところだよ。」
と言った。
「そうか。配役とか曲のことでなにかトラブルがあったか。それとも、ソリスト不在とか、そういうことだろうか?」
杉ちゃんがまた言った。
「そういうことだ。全く、30人程度しかいない室内オーケストラで、ベートーベンの交響曲なんていう大曲をやりたいと言うのが、間違いなんだよ。」
麟太郎は、嫌そうに言った。
「なるほどねえ。確かにベートーベンは大人数が必要だもんな。僕はうちにテレビがないから、よくわからないんだけど、何でもアマチュアオーケストラのことを放映しているテレビドラマがヒットして、今アマチュアオーケストラがたくさん行われているそうじゃないか。まあ、そのブームがいつまで続くかだけど。まあそれで、音楽を知らないやつが、ベートーベンの大曲をやりたいって盛んに言い出しちまったのか。でも、できないことがあるよなあ。」
杉ちゃんに言われて麟太郎は、
「正しくそうだよ。」
と、大きなため息を着いた。その間に、信号機は、赤と青に何度も変わった。
「今度の練習、つまり来週の土曜日までに、返事を返して来なければならない。どうせ、ベートーベンの交響曲なんてできるような人数がいるオーケストラじゃないって言うしかできないのに、その言い方を変えなくちゃいけないな。困ったな。」
麟太郎が、そう言うと、
「とりあえず、道路を渡ろう。」
杉ちゃんは車椅子を動かして、横断歩道を移動し始めた。麟太郎も、それに着いていった。
「ああ、そういえば俺は、ここで信号を待っていたんだった。すっかり忘れていた。」
と、麟太郎は、頭をかじりながら、横断歩道を渡った。しばらく歩くと、T字路にたどり着いた。杉ちゃんが、
「僕は製鉄所で水穂さんの世話があるので、こっちに行くよ。」
と左に曲がろうとすると、麟太郎の家は右方向にあるが、なんだかここで別れてしまう気にはならなかった。それなら俺も杉ちゃんと一緒に、製鉄所へ行こうかなと言いかけたその時、誰かがとても美しい声で、歌を歌っているのが聞こえてきた。
「Miserere、Miserere、、、。」
「あれれ、ズッケロのミゼレーレだ。」
麟太郎はすぐに分かった。有名なクラシックの歌手と一緒にズッケロという人が歌っている映像が、動画サイトにたくさん投稿されているので、すぐわかる歌である。
「随分いい声だな。」
と、杉ちゃんも言う。麟太郎は、その歌が聞こえてくる方へいってみた。杉ちゃんもそのとおりにした。すると、歩道がなくなって、昔ながらの道路に変わった。周りの風景も、商業施設ばかりだった大通りから離れて、田んぼばかりの風景に来た。道路のはしの方に、桜の木が植えてあった。歌声はその木の下から聞こえてくるのであった。誰が歌っているんだろうと思ったら、12歳から13歳位の少年が、木の下に立って歌っているのであった。
歌が終わると、麟太郎も杉ちゃんも拍手をした。
「おお!素晴らしい歌声だ。よく通るいい声だよ。」
麟太郎は少年に声をかける。少年はちょっと顔がひきつった。
「ああ、怖がらなくてもいいんだよ。俺は、アマチュアオーケストラの指揮をやっている、広上麟太郎だ。お前の名前を教えてくれよ。すごくいい声だ。」
麟太郎がそう言うと、
「はい。金谷晃と申します。」
と少年は答えた。まだ変声期が来ていないのだろう。女性と変わらないくらい高い声である。
「金谷晃くんね。音楽の知識はあるの?」
麟太郎が聞くと、
「ピアノは小学生まで習っていて、才能が無いのでやめてしまったんですけど、でも、音楽は好きです。」
と、金谷くんは答える。
「そうか、それでは、ちょっと俺のところまで来てもらおうか。決して悪いようにはしないから、一緒に来てくれ。ああ、誘拐でもないし、宗教への勧誘でもなんでも無いよ。大丈夫だから、一緒に来てくれよ。」
麟太郎は、金谷くんを無理やり歩かせて、杉ちゃんと一緒に、彼を製鉄所へ連れて行った。製鉄所へはちょっと距離があったが、麟太郎はそんな事は気にしなかった。
そのかんに、製鉄所では。
いつもどおり、水穂さんが布団の上に座っていて、また咳き込んでいた。側には今西由紀子がついていて、水穂さんの様子を見ているのであるが、それと同時に玄関に設置されている時計が、2時を鳴らした。
「杉ちゃん遅いわねえ。二時には戻ってくると言っていたのに。」
由紀子はそういったのであるが、水穂さんは返事をしなかった。代わりに咳で返事をした。
「大丈夫?水穂さん苦しい?」
由紀子は、優しく言葉をかけて、水穂さんの背中を擦ったり、叩いたりした。それと同時に、
「水穂いるか!ちょっとお前に頼みがあって、お願いに来た。優秀なカウンターテノールを連れてきたから、ちょっと、一曲弾いてみてくれ。曲はズッケロのミゼレーレだ。よろしく頼む!」
という声がして、麟太郎がどんどん入ってきた。それと同時に上がり框のない玄関を、杉ちゃんも入ってきた。由紀子は、麟太郎が入ってきて、非常に困ると思った。
「よろしく頼むよ。咳き込んで要る暇は無いぜ。すぐに弾いてやってくれ。よろしく頼むよ!」
麟太郎に言われて、水穂さんは咳をしながらピアノの前に座った。
「ズッケロさんのミゼレーレでよろしいんですね。」
水穂さんはそう言って、イントロを弾き始めた。
「ほら、歌ってみてくれ。さっきの朗々とした歌声を聞かせてやってくれよ。」
と、麟太郎が促すと、杉ちゃんが歌い始めたので、少年金谷晃くんは、歌い始めた。歌が進むと、杉ちゃんが即興でハモリを作り、見事な二重奏曲になった。確かに晃くんはよく響く声をしており、朗々とした歌声ができる人である。なんだか、ズッケロと一緒に歌っていたクラシックの歌手も顔負けである。
二人が歌い終わって、水穂さんが演奏を終えると、麟太郎は手を叩いて拍手をした。
「いやあ素晴らしいぞ!金谷晃くんと言ったっけね。お家は何処なの?」
麟太郎がそうきくと、
「はい。吉原北中です。住んでいるところは、富士市の須戸というところに住んでいます。」
と、晃くんは答えた。
「そうか。で、お父さんお母さんは何をやっている人?なにか音楽に関心がある人なの?」
麟太郎が改めて聞くと、
「いや。特に音楽をやっている人ばかりではありません。ただのクリーニング屋です。特に合唱やっているとか、そういうことは、まずありません。」
と、彼は答える。
「はあ、それなら正しく天才だな。」
と、杉ちゃんが言った。
「おう、それがふさわしい。それなら俺からお願いがあるんだけどな。今度俺がやっているアマチュアオーケストラで、一緒に歌って貰えないだろうかな?曲は何でもいいよ。カッチーニとかそういうものでもいいし、あるいは、タイムセイなんとかみたいな、ポップに近いものでもいいよ。なんでもいいから、俺たちのオーケストラでソリストとして歌ってくれ。」
麟太郎は、音楽家らしく周りの風景を無視して、言いたいことを言った。
「歌うなんて、できませんよ。僕は、音楽の先生に、男性らしくない声を出すなと言われて、周りの生徒さんに笑われたばかりなんですよ。」
晃くんがそういうことを言った。
「はあそんなことを理解しない教師なんて馬鹿だなあ。別に男性が女性の声を歌うのは珍しいことじゃないよ。そういうのは、カウンターテノールと言ってだな、ちゃんと訓練すれば素晴らしい歌声になるんだ。更に高い声が得られるのであれば、ソプラニスタとして、ソプラノの音域を歌うことも可能だぞ。俺はちゃんと名前を知らないけれど、岡本だっけ、そういう人がいるじゃないか。それとおんなじだと思えばいいんだ。」
麟太郎がそう言うと、
「でも、男のくせに女の声を真似るなって、音楽の先生が言ってました。男は、男らしくしなければだめだって。だから僕、歌うのは自信が無いんです。」
晃くんは答える。
「それは音楽の教師が間違えたんだよ。その教師は、おそらくとても古い考えをお持ちのようだね。もし、その教師が、男は男らしくと言ってきたんだったら、男でも女性の声を出す職業はちゃんとあるんだと言って対抗すればいいんだ。歴史的にも、カストラートといって、男性でありながら女性の音域を歌う歌手が存在するんだよ。有名なアリアだって、昔は、ソプラノじゃなくて、カストラートが歌っていたことはなんぼでもある。だから、声が女っぽいとかそういう事は、何も恥に思わなくていいんだよ。」
麟太郎は熱弁を振るって説明した。でも、晃くんは小さくなったままだった。
「もっと自信を持っていいんだぜ。将来は、音楽学校にいってな。それで思いっきり歌を極めて、それで大歌手になって、オペラの舞台に引っ張りだこになるだろう。もし、オーケストラの共演したくなったらいつでもおいで。俺たちはいつでも大歓迎だから!」
「広上さん、そんな夢みたいなこと言わないであげてくれませんか。」
水穂さんが細い声で麟太郎に言った。
「そんな事、偉い人が平気でいうから、若い人が混乱するんです。彼に、音楽学校に行けなんて、まずはじめにできるわけないじゃありませんか。もし、彼が音楽学校に行くと宣言したら、学校の教師も黙ってはいないでしょう。余計に彼は学校の先生に叱られて、クラスの晒し者になってしまいますよ。それを、将来のために耐えろというのですか?それはちょっと酷と言うものでは無いでしょうか?」
「でもさ、将来声楽家として、絶対ブレイクできるから、今は辛くても、将来に向かって、頑張っていけばいいんじゃないのか?それに水穂、お前がなんで若い人にそういうことを言うんだよ。お前は、若いピアニストにレッスンをして、若い人を励ましていく立場だろ。そんなやつが、そういうことを言うなんて、お前は自分のことを何だと思ってるんだ?」
麟太郎は水穂さんに言った。
「それにお前はピアニストだ。ピアニストは夢を与える商売でもあるじゃないか。そんなお前がなんでそういうことを言うんだよ。お前の立場なら、若い人に夢を持って頑張れというべきじゃないのか?」
「いえ、違います。」
水穂さんは、きっぱりと言った。
「大事なのは、夢を持つことじゃありません。自立することです。自分の力で、自分の食う糧を持っていくこと。これより大事な事はありません。誰かが守ってくれるわけでも無いのだし、それよりも、自分で自分が行きていくための道具を持たなくちゃ。夢を持つのとそれはぜんぜん違うんです。それが得られないと、誰かに頼って生きていくしかない。そうなったときの、白い目で見られることの辛さ。こんな辛いことは無いですよ。だから、それが得られるように教育を受けて、普通に生活していかなければ行けないんです。そのためには、環境を否定して、将来のことを夢見るのでは行けないのです。それよりも、この環境でどうやって自分が生きていくのかを考えないと。そのためには、夢を持つというのはいけないことなんです。それよりも、どうやって自分の生きていく糧を得られるようにしていくかのほうが大事なんですよ。」
「そうだけど、そのために、若いやつは教育を受けるんじゃないか。そして、将来、すごいオーケストラとか、そういう人たちと共演して、オペラで主役を射止めて、そうすればなんぼでも、生きる糧は得られるじゃないか。きっと、馬鹿にしているクラスメイトとか、音楽教師も、音楽学校に行って、それで見返してやれるさ。そのためには、一生懸命訓練して、こいつを、優秀なカウンターテノールにしてあげなくちゃ。そうしてやるのが俺たちの仕事だろ。俺たちは、そういうことをして、若いやつを援助していくのも立派な使命じゃないか。水穂、お前はそう思わないのか。今は、誰でも大学は行ける世の中なんだから、せっかくのチャンス、それをさせるべきだろうが。」
麟太郎が、水穂さんに言った。
「いえ、そんな事はありません。はっきりとできないと伝えることも使命です。変なふうに、自分のやることを与えてしまうから行けないんです。そうやって頑張れと促しても、周りの環境は変えることはできない。もし、彼が声楽を続けていくとなれば、必然的に、クラスの人から、孤立して、学校の思い出は悲しいことしか残らない。音楽学校に進学できたとしても、上級階級の人達ばかりで、話も着いていくこともできず、若いときに悲しい思いをすることになる。それでは行けないんです。他の人と、他の人と、違ういき方ができるのは、家庭環境が余裕があって、その生き方をちゃんと保証することができて、そして逃げる方法も知っている上級階級の人にしかできませんよ。それができないと、彼の行き着く先は、病院とかそういうところしか残らない。だったら今のうちに切り離したほうがいい。そうされるべきです。そのほうが、確実に彼は幸せになれる。知らぬが仏とは、まさにこのことです。」
「それはきっと、水穂さんだから警告できるんだろうね。まあ、でもねえ、きっとこいつは、歌を歌うんじゃないかな。広上さんの言うように、歌手としてデビューはできなくてもさ。アマチュアの合唱とかそういうのは、いっぱいあるんだし。どっかで、そうしないと、人間、ガス抜き出来なくなって、ストレスが溜まっておかしくなるのもまた事実だぜ。」
と、杉ちゃんが水穂さんをなだめるように言った。確かに、水穂さんの言うことも間違いではなかった。
「いえ、中途半端は、かえって皆を傷つけます。本人も、家族も、それから将来も。若い人にそういうものをさせないほうが絶対いいです。それを無理してやろうとすると、」
水穂さんは、そういいかけたが、もう疲れてしまったらしく、また咳き込んでしまった。すぐに側にいた由紀子が、水穂さんの口元を拭いた。その口元を拭いた紙が、赤く染まったため、晃くんはびっくりした様子であったが、
「わかりました。ありがとうございます。僕も、将来を考えてみます。」
と、水穂さんに言った。水穂さんは、咳き込みながら黙ってうなずいた。由紀子は、水穂さんに水のみを渡して、それを飲むように言った。水穂さんがそれを飲むと、
「あの、皆さん、もうお帰りいただけませんか。水穂さん、これ以上、疲れさせたくありませんから。」
と由紀子は水穂さんをかばうように言った。麟太郎は、
「あーあ。こうなってしまうのか。お前もな、今だったら治る可能性は十分にあるんだし、早く医者に見てもらえ。お前を必要とするやつはいっぱいいるんだぞ。」
と、負け惜しみのようなことを言って、よいしょと立ち上がった。杉ちゃんが、玄関まで見送るよと、麟太郎と一緒に玄関へ出ていった。晃くんも、
「ごめんなさい、宿題があるので、もう帰りますね。さっき、言ってくれたこと絶対に忘れません。ありがとうございました。」
と、水穂さんに頭を下げて、玄関に向かって歩いていった。水穂さんは、もう布団に横になってしまっていたが、晃くんに向かって、そっと手を振ってくれた。外では、全く、優秀なソリストは確保できなかったし、どうしたらいいんだろうと麟太郎が愚痴を言っている声が聞こえてきそうだったが、
「水穂さんすごくかっこよかった。私は、そういうことができる水穂さんがすきよ。」
と、由紀子は、小さな声で水穂さんに言った。返事は帰ってこなかった。水穂さんはすでに眠ってしまっているのだった。多分、薬が回ってしまったのだろう。でも、由紀子は、ああして晃くんに言ってくれた水穂さんを、そっと愛しく思うのだった。
予想通り、晃くんは帰ってしまって、麟太郎はそれをぽかんと眺めているしかできなかった。なんだか大人の負けだと麟太郎は大きなため息を着いた。そして、また、オーケストラの人たちをどうやって説得しようか、杉ちゃんと一緒に無駄話を始めた。
外は肌寒く、まだまだ春と言うのは遠かった。今年は花冷えというか、寒い期間がちょっと長いような気がした。
警告 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます