20「鍋」

 睡眠と覚醒の境界を漂うような仮眠をとっていた。我に返って時計を見ると、小一時間ほど過ぎていた。俺は口元の血を拭ってから、慌てて居間に降りていった。


 キッチンからは、慣れない包丁の音が聞こえてくる。見ればキッチンの入り口に立った足衛あしえが、不安そうにおろおろしていた。どうやらこの短時間で、体調は随分と持ち直したようだ。だけど、この挙動不審はどうしたことだ?


「足衛?」


 声をかけると、救世主が来たと言わんばかりの表情が返ってきた。


「あ! せ、先輩! どうもこうもありません……!」


 俺は促されるまま、キッチンの中を覗き込んで、眉をしかめた。


「うぇへへ~、見て見て、超高速みじん切り~!」

「そのような調理はレシピに確認できない。ただちに中止を要請する」


 エプロン姿の二十並草はたなみくさ崎刃崎きばざきが、並んで包丁を握っていた。崎刃崎は身長を補うため、椅子に乗っている。その髪の色は蒼。【冷凍現象誘発症状】でおなじみの『三番目』だ。


 彼女は、自由すぎる二十並草に耐え兼ねたのか、いきなり包丁を突きつけた。


「もういい。ここから先はボクが一人で作業する。これ以上の邪魔をするなら、敵性体とみなして排除する!」

「ええ~、邪魔なんてしてないよ~」


 邪魔してるらしい。二十並草はごねたものの、結局キッチンから退去させられてきた。


「あ、ハルくん、もう大丈夫なの?」

「別に。ちょっと休んでただけだ。それよりこれはなんだ」

「あれれ~、見て分からないの~? 夕食の準備だよ! 僕が始めたんだ」


 力強いサムズアップにイラっとしながら、確認する。


「二十並草。おまえ、料理できたっけか?」


 時間通りに調理するのが難しくて、苦手だとか言う話を、以前聞いたことがある。


「ううん。できないよ」

「つまり……おもしろ半分か」

「まあね!」


 呆れて小言を送りつけてやろうかと思っていたら、足衛の悲鳴に遮られた。彼女の視線は崎刃崎の手元に釘付けだ。


「ああ、待ってください、崎刃崎さん。えっと、何番目の崎刃崎さんです?」

「『三番目』、だ。はっ!」


 崎刃崎が包丁を振るう。思わず心配になるような「ごりっ」という音に、再び足衛の悲鳴が響き渡った。


「猫の手! 左手は猫の手です!」

「……? ボクの左手は人間の手だ」

「指先をちゃんと曲げてって意味で……あーっ、デンジャァア!」


 大根の先端が回転しながら飛んできて、思いっきり顔面に直撃した。今晩はもしかしたら、血まみれの料理を食わされることになるかもしれないな。


 さすがの崎刃崎も手を止める。彼女は感情の読めない表情で包丁の切っ先を眺めた。


「どうやらボクは崎刃崎の中でも特に手先が不器用らしい。新発見だな。ふんっ!」

「あああ! 危ない! もう見てられない!」


   ●


 すったもんだの末、最終的に足衛が包丁を握ることになった。二十並草や崎刃崎と違って、彼女の手際は鮮やかだった。慣れた手つきで、素早く作業を進めていく。


 二十並草は、ちゃぶ台の上に皿を並べながらへらへら笑った。


「いやぁ、最初からメイちゃんに任せとけば楽できたなぁ~」


 その無責任な発言を聞きつけた足衛が、キッチンから吼えた。


「はた迷惑先輩はもう二度とキッチンに入らないでください! いいですね!」

「ええ~」

「それより、そっちの準備はできましたか! こっちはもういつでも持っていけますよ」


 思ったよりも出来上がるのが早い。


「二十並草先輩に買ってきてもらった食材を、片っ端からぶちこんだだけですからね。大したものじゃありませんよ。……何故か冷蔵庫に入っていた国産黒毛和牛は怖くて使えませんでしたし」


 足衛は謙遜するけど、複雑な手順を難しそうだと感じさせることもなく、淡々とこなしていくその姿は、元気なころのばあちゃんを思い起こさせた。


 足衛のすぐ隣で見守っていた『三番目』も、彼女の仕事ぶりを賞賛する。


「足衛氏は優れた腕の持ち主だ。大胆なようで繊細、無造作なようで効率的。是非ボクのお嫁さんになってほしい」

「げほっ、ぶえっほ!」


 ちょうど鍋を運ぼうとしていた足衛がむせて、危うく全部をひっくり返しそうになった。


「ちょっと、そういう不意打ちはやめてください」

「……? 申し訳な――うっ、頭が!」


 突然、崎刃崎の様子がおかしくなった。身体中にノイズが走り、モザイクがかかるように髪が紅くなっていく。数秒経つ頃には、彼女は「自分、一片の憂いも持ちあわせてませ~ん!」というバカ面で、大笑いしていた。

「かっかっか、メシじゃ~、メシじゃ~!」


 この髪の色、この言動。【一過性巨大化症状】の『四番目』だ。


 それにしても今の変化の仕方は、どう考えても異常な現象だった。やっぱりこいつはただの多重人格者じゃない。先ほど思いついた「多重人間仮説」が、だいぶ信憑性を増してきた気がする。


 俺の真剣な考察を他所に、『四番目』は手をこすり合わせて、ちゃぶ台に腰を下ろした。


「鍋じゃ、鍋じゃ~!」


 彼女の興奮に共感できなくて、俺はちょっと首を傾げた。


「もう冬も終わったこの季節に鍋か……」

「バッカじゃのう、オヌシ。うまい物はいつどこで食べてもうまい! 知らんのか」

「今度サウナで食べてきたらどうだ。きっと意見が変わると思うぞ」


 すると二十並草が敵に回った。


「完全栄養食、鍋のありがたみが分からないなんて、ハルくんは人生の半分を損してるね」

「おまえらの人生、五十パーセントが鍋なの?」


 紅い『四番目』の崎刃崎と、二十並草は互いに肩を組み、ご機嫌だ。


「オヌシは話の分かる奴じゃな。そこのうるさい奴とは違う!」

「でしょ~。今後ともご贔屓に~。あ、飴ちゃんいる?」

「いる!」


 二十並草と気が合う時点で、この『四番目』からは面倒臭い気配を感じる。ちょっと苦手なタイプかもしれない。


 配膳の準備をしながら、足衛がたずねる。


「表に出てない時、他の人格の方々はどうしているのですか?」

「頭の中じゃ。寝てるやつもおれば、ゴチャゴチャ騒いでるやつもおる」


 足衛は首を傾げて考え込む。


「頭の中に他の人がいるって、どういう感覚なんでしょうか。いわゆる天使の自分と悪魔の自分……、みたいな。あんな感じ?」

「うーむ、違うと思うぞい。オヌシが言うそういうやつは、横から口を挟んでくるだけで、直接行動権を奪ってきたりはせんじゃろう? その点、我らはいつでもハンドルの奪い合いじゃ」


 奪い合い、か。俺は眉をひそめて、たずねた。


「……ってことは、おまえ。さっき、無理矢理『三番目』を押しのけて表に出てきたのか?」

「そりゃあもう! だってほら、鍋じゃぞ? 他の連中には譲れぬわ! あー、ハラペコ、ハラペコ。さあ、早くふたを開けて……う――うぐっ」


 両手の箸を無邪気に振りまわしていた『四番目』の表情が、突然に曇る。


 彼女は頭を抱えて苦しみだした。


「ま、待て。今はワラワの時間じゃ。オヌシはひっこんで……あっ、やじゃ、やめ――!」


 ひとしきり悶えた後、また髪が蒼色に戻った。また『三番目』だ。


「働かざる者、食うべからず。『四番目』ごときに、このお鍋は譲らない」

「……おまえら、いつもそんな感じなのか?」

「食事時は特に主導権争いが激化する」


 そう言うと彼女は箸と器を構え、前のめりになった。


「無駄話はここまで。今、一番大事なのは目の前に鍋があるということ。ただそれだけ!」


 足衛が鍋のふたを開けた。どこか懐かしい匂いが湯気と共に爆発して、あふれ出す。崎刃崎が飛びついた。


「いざ! ここから先は、早い者勝ちということで、あしからず!」

「あ、早い者勝ちルールは駄目です! それをやると……」


 足衛の制止は少し遅かった。踊り狂う超高速の箸が、鍋の上を完全に制圧してしまう。


「いやぁ、早い者勝ちなら、僕の独擅場だよねえ!」

「バ、バカな!」

「ほら、もう~! 二十並草先輩は肉ばかり取らず、ちゃんと野菜もとってください!」

「へへ~、やだね~」


 こうなるから早い者勝ちはダメなのだ。


「ノーカンだ! 無効! 無効! 早い者勝ちではなく、平和な分配を求む!」


 これまでずっと冷静な無表情を貫いてきた『三番目』も、これには大慌てだ。半泣き気味になりながら、必死に声を荒げた。

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