#1:【病は突然、不条理に】

01「事の起こり」

 学校帰りの空には分厚い雲が立ち込め、ときどき思い出したように雨粒が落ちてくる。普段なら、こんな天気の日は余計な寄り道はせず、まっすぐ家を目指すところだ。以前までなら、そうしていた。だけど今の俺には、欠かさず通うべき場所がある。


 六陸むつおか厚生病院。地元では名の知れた総合病院のひとつだ。


 広い駐車場を睨む、ガラス張りの正面玄関。その二重の自動扉を越えれば、目に入ってくるのは冴えない顔色の外来患者に、車椅子で運ばれてくる管まみれの入院患者、etc《エトセトラ》……。


 見ているだけで、全身がダルくなってくる。ここはあらゆる患者が集まる、不健康のるつぼだ。


 だけどこんなものはまだまだ序の口。リノリウムの廊下を進み、異能外来の専門病棟まで行くと、様子はもっと酷くなる。泣き止まない翼の生えた幼児。顔中に妙な痣が浮かんだ男。全身鱗まみれで痙攣している女。


――皆、異能病を患った者たちだ。


 MuV‐103――通称「ミュータント・ウイルス」。その新種のウイルスが発見されたのは、今から二十年と少し前、「恐怖の大王が降ってくる」と言われた世紀末のことだった。こいつは、頭痛、発熱、倦怠感などの初期症状に紛れて、脳に直接干渉する作用を持っていた。大脳新皮質を中心とした複数の領域でシナプスを勝手につなぎ合わせ、複雑怪奇な回路を作り出すのだ。それはさながら魔法陣のように現実世界に干渉し、異能という超常の現象を引き起こす。


 ウイルスは瞬く間に世界に広がり、異能病は猛威を振るった。


 異能を授かる、と聞けばちょっとそそられるかもしれない。実際、この病気にかかりたがる奴は、大勢いる。でも病気は病気だ。その症状はたいていの場合、人間にとって害となる。制御できない超常の力が、宿主自身を傷つけてしまうのだ。【発火症状】の患者が大火傷を負ったり、【読心症状】の患者が精神を病んだり……。例を挙げ連ねたらキリがない。


 便利なだけじゃない異能の、危険な負の側面。それがことさら強く表れた症状を、有害症状と呼ぶ。


 ここ六陸厚生病院は、そんな有害症状と戦うための異能病専門外来を構えた、国内有数の認定治療施設だ。県内にとどまらず、全国から異能病患者が集まってくる。誰しもが死ぬまでに一度は異能病になると言われるこの新時代、ここはいつ来ても酷い有様だ。


 まあ、かくいう俺の見た目も、酷いものだ。片手に杖を携えて右足を引きずり、あちこちに包帯、右目には眼帯。口元に当てたハンカチは、咳き込むたびに出る血を抑えるためのものだ。


 人生の絶頂期を控えた若者としては貧弱すぎる体躯と、色のない顔つきは、まさしく地獄の亡者そのもの。いやいや、我がことながら本当に気が滅入るね。ダルい、ダルい。


 だけど勘違いは止してほしい。今日の俺は患者じゃない。あくまでも見舞い客だ。


 目的の病室は異能病棟の三階、その最奥。俺は扉の前で身だしなみを整え、なるべく明るい声を装った。


「ばあちゃん、入るぞ」


 室内にたった一つしかない寝台には、土気色の顔をしたばあちゃんが横たわっていた。


「いつまで寝てんだよ。さっさと起きろよ」


 ばあちゃんは死んでるみたいに眠ってる。ピクリともしない。俺は笑顔の仮面を早々に脱ぎ捨てた。



 二か月前。あの日もいつも通りに、怒鳴り声から始まった。


 カーテンの隙間から清々しい青空を見上げ、ベッドでまどろむ俺を叩き起こすのは、残念ながら幼馴染の女の子でもなければ、可愛い愛犬でもなくて、酸いも甘いも知り尽くした後期高齢者のばあちゃんだ。


「いつまでグズグズしてんだい。さっさと起きな!」

「んー、あと五十分」

「バカタレ、朝飯が冷めちまうよ!」


 布団を引っぺがされて、カーテン全開。抵抗は無意味だ。なにせ相手が悪い。後期高齢者などと言ったけど、その実態は熱核融合する恒星が人の形をとったような、鉄人ババアだ。「若かりし頃は山で熊と組手していた」とか、「火災現場から十人を担いで救出した」……なんて話がまことしやかに語られるバケモノの類なのだ。


 仕方がないので、観念してベッドを出る。そして、しょぼつく目をこすりながら、階下の居間に連行される。


 これが日常。ここ数年、毎日のように繰り返されてきた、一日の始まりだ。


 その日の朝も、途中までは同じだった。


 顔を洗ってちゃぶ台に着いた俺は、漬物をかじりながらキッチンを流し見る。ばあちゃんは、真っ黒なカレンダーを睨んでぶつぶつと呟いている。


「さて今日の予定は……治希の学年末懇親会の幹事と相談、セパタクロー町内大会の助っ人として練習に参加、お隣さんから逃げた猫の捜索。ああ、近所のクソガキに踏み荒らされた花壇の手入れもしないとだったね……それから」


 やれやれ。少しサボったって誰も文句は言わないのに。このバイタリティはどこから来るんだ。もしかして、マジで核融合炉を内蔵してるのか?


「あ、そうだ治希」


 振り向いたばあちゃんの老眼鏡がギラっと輝く。嫌な予感がして、とっさに身構えた。


「あんた、先月に病院でもらってきた薬、そろそろ切れるんじゃないのかい?」

「大丈夫だよ。結構飲み忘れてるから、かなり残ってる」

「なにが大丈夫だい、バカタレ!」

「うおおお!」


 キッチンから缶が飛んできた。ギリギリでその剛速球を回避する。危うく顔面が現代アートになるところだった。


「人に向かって物を投げちゃ駄目だろ! 子供の時、習わなかったのかよ!」

「バカタレ、もらった薬はちゃんと飲みな! 残すと、もったいないお化けが出るって、習わなかったのかい!」

「俺を何歳児だと思ってんだよ……」

「あたしにとっちゃ、いつまでも赤ん坊みたいなもんだよ、小童こわっぱ!」

「ぐ……」

「社会人になるまでは、あたしがあんたの保護者なんだ。あんまり心配させんじゃないよ! しわが増えちまう」


 今更しわの一本や二本増えたって変わらないだろうに。


「今更しわがちょいと増えても変わりゃしない……、なんて思ってんじゃないだろうね」


 俺は大慌てで首を振った。話を変えないと殺される。


「ばあちゃんこそ、身体は大丈夫なのかよ。熱出したの、ついこのあいだのことだぞ」

「あたしが世話しないと、あんたは自分の世話をしないだろうに!」

「いや、そんなことは……」

「あたしを休ませたけりゃ、とっとと自立して婿にでも行っちまいな!」


 逆襲は失敗だ。俺はおとなしく食事の続きに逃げ……むせた。


「うげぇっ!」


 口につけた味噌汁の椀を、反射的に遠ざける。恐ろしく塩辛かったのだ。高血圧はさほど気にしてないけど、それでも舌が受け付けないレベルだ。料理上手なばあちゃんにしては珍しい。


「ばあちゃん。この味噌汁、味付けが――」


 その時、重い物が落ちるような音が聞こえてきた。キッチンから人影が消えている。


「ばあちゃん?」


 返事がない。キッチンの陰にしゃがみこんでいるのか? あるいは――


 箸を置いて立ち上がる。まさかな。落としたおたまでも拾っているだけだろう。あの鉄人みたいなばあちゃんに限って、まさか……


 今にして思えば、それはあまりにバカげた思い込みだった。だって人の身体は精密機械。些細なことであっさり壊れる。誰だって同じ。例外なんてない。子供でも知ってる簡単な真理だ。


 だけど積もり重なる日常に埋もれて、俺はそんな当たり前を見失っていた。


 キッチンの床に倒れ伏すばあちゃんの姿は、俺の平和ボケした頭を完全に打ちのめした。情けないことに、俺が放心状態から再起動して119番をダイヤルするまで、一分以上かかった。



 これが二月の出来事。


 四月も半ばになったというのに、ばあちゃんは昏睡状態に落ちたまま、未だに目を覚まさない。毎日欠かさず見舞いに来ているが、この二か月、変化と言えば頬がこけて、しわが増えたことくらいだ。


 ばあちゃんが倒れた原因は異能病だった。なんらかの有害症状が、ばあちゃんを覚めない眠りに沈めている。それがどんな症状かは分からないけど、とにかく魂が抜けだしたみたいに、身体の反応がないのだ。


 医者から下された診断は、異能病の悪性度グレード4。それは「有害症状によって心身に深刻なダメージを受けている」ことを意味している。0から4まで五段階ある評価の中で、最も悪い。


「……」


 花瓶の花を挿し替えながら、ばあちゃんの顔に目を落とす。


 のんびり昼寝しているみたいに、穏やかだ。だけどその身体は、少しずつ少しずつ、着実に弱っている。はじめの内は必要なかった人工呼吸器を使いだしたのは、先週のことだ。このままいけば、じきに生命活動の維持もままならなくなるだろう。


 決して杞憂なんかではない。異能病の有害症状で死に至る人の数は、国内だけでも毎年数千人に及ぶのだ。ばあちゃんがその中の一人にならない保証なんて、どこにもない。


 だけどここで問題となるのは、この難病の明確な治療法が確立していないってことだ。発見から二十年が経った今でも、打てる手は対症療法のみ。ダメージを極力抑えて、異能症状をコントロールするための訓練リハビリを教えることしかできない。


 治癒するかどうかは、異能病次第。発症から数日で消失することもあるし、一生かけて付き合わなくてはならないこともある。長年付き合った異能がある日、突然に回復することもなくはない。もちろん治るどころか、逆に重症化が進行したり、異能の性質がまるっきり別物に変化することもある。


 ハッキリ言って、現代医学はこの病気に対して、完全に手をこまねいている状態だ。だから結局のところ、回復を祈って、待つ。それしかないのだ。


 世間からの評価が高い、ここ――六陸厚生病院の異能専門外来であっても、それは変わらない。


 それでも。俺には一つの勝算があった。たとえ医者が白旗をあげようとも、俺ならばあちゃんを回復させられるかもしれない。

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