天上のゴールを仰ぎ見て

 この場には天上から吹き抜けてくる風の音と、六機のリンドブルムが時折発する金属音しか聞こえない。けれども、結末を見届けようとする人々の熱狂は、ルチアの耳へ確かに届いている。


 (あの時と同じ感覚、いいえ。あの時よりもずっと酷い感覚)


 本来ならば、時間の限りを尽くして大詰めを行わなければ無かったミーティング。だけどルチアはその責任を放棄し、自身の勝利を確定させるための想定に時間を費やした。


 リーダーとしてありえない行動だ。彼女の行ったことを言い換えるならば、チームとしての勝利をあきらめ、切り捨てたのだから。


 だが、そうでもしなければ勝てなかった。叢雲むらくも学園という相手は、それほどまでの強敵だった。ソフィー達にリソースを吐いている余裕は無い。自身の全能力を持ってぶつからなければ敗北する。二レース目を終えてルチアは確信したのだ。


 (……ほんとうに。今、力が無いのが恨めしい。今、力があることが憎らしい。私は私の望むチームで、勝ち負けを重ねていければそれで良かったのに)


 あの日から、一人だけ才能に恵まれた事が悲しかった。なのに、チームを牽引していくほどには才能に恵まれなかった事が悔しかった。そのせいで自分はチームを蔑ろにし、策とも言えない単騎駆けにて勝負を決めようとしている。


 チームとは信頼で成り立つもの。これで勝った所で何になる。ルチアという選手は、追い詰められればチームゲームを捨てると内外に再認識されるだけでは無いか。


 (だけど、私にはこれしか方法が無い……!)


 悲しい。あまりにも悲しい。


 それでもルチアは捨てられない。空虚な勝利にすがるしかない。


 敗北の果てにあるのは自分の移籍。続くチームの空中分解。それを避けるためには、自分には勝利しかないのだ。


 (みんな、ソフィー、ごめんなさい。こんなにも情けないリーダーでごめんなさい)


 ミーティングから戻って以降、レースに関する話題以外は何も受け付けられなかった。ディオルが完璧な修繕を成功させたと言っても、本心をひた隠しにした震え声で、ありがとうと言うのがせいいっぱいだった。


 みんなが自分の事を気にかけている事は知っている。今もソフィーが覚悟とあきらめを繰り返しながら、何度も会話をしようとしているのは分かっている。


 だけどルチアは、その全てを纏う空気で振り払った。


 今の状態で温かい言葉をかけられれば、独善の勝利の覚悟が鈍ってしまう。チームの勝利へと心が傾いてしまう。


 それではダメだ。それではチームを守れない。心を冷徹さで凍らし、その上で拒絶という岩で覆う。ここまでしてようやく、ルチアは自身のためだけのレースにのぞめる。


 チームを守りたいのに、チームゲームは捨て去った。その大いなる矛盾は遠からぬ内に、自身をさいなむ棘へと変わるだろう。


 (私の居場所はここにしかないの! 平穏も、信頼も、この先の未来も全部捨てる! だから、このレースだけは勝たせて!)


 聞き慣れた機械音声が、スタート位置に付くよう指示出しを始める。


 天高くそびえる直角の岩壁。今のルチアに見えていたのは、頂上に存在するゴールラインのみであった。



「あ~……。あ~……、この、ったくよぉ~……」


 直美にとって、メンタルの不調は様々なマイナス要素を連鎖させる。


 頭痛、胃痛、吐き気、目の渇き、熱っぽさ、筋肉の硬直、酷い時には視界の暗転など、嫌になるほどバリエーションに富んでいる。加えて、これらは併発が当たり前。組み合わせによっては病状の悪化もあって、まさに泣きっ面にハチだ。


 (だけど、頼まれたんなら仕方ねぇ。そもそもこうなった原因の八割方が私のせいなんだから、文句を言うのもお門違いだっての)


 数々の試合を経験してきた直美が、今更僅差の最終レース如きでこんな状態になるはずが無い。


 彼女がこうなった原因は、レース前に夜見よみから伝えられた一言にあった。


闇堂あんどう先輩。まことに申し訳ないのですが、最終的なルチアちゃんの説得は先輩にお願いしたいんです」


 ロサンゼルスヘイローズの内情は聞かされていた。夜見を主導にして、彼女達の問題解決に動くことも聞かされていた。しかし、蓋を開けてみれば、メカニックは操が、ランナーの一人は夜見が。加えてコーチは影山が動き、サポーターともう一人のランナーは勝手に解決してしまっていた。


 これでは説得に動こうとも、相手がいない。ルチアの説得はレース後ということもあり、直美は無意識で自分の役割は無いものだと思い込んでいた。


 そんな状態で突如舞い込んだルチアの説得依頼。寝耳に水以前に、どうして自分が選ばれたのかも理解が出来ない。夜見が普段から冗談を言わないのは知っていた。だが、当時の直美は軽いパニックを起こしていたため言わざるを得なかった。


 その話は冗談かと。


 そんな返答に対して、夜見は懇切丁寧に説明をくれた。直美に逃げ場が無いのだと悟らせる、完璧で究極な説得であった。話を聞かされた時点で、直美には受諾の選択肢しか残されていなかったのだ。


 そうして依頼を受諾してしまった直美は、今なお続くメンタル的な胃痛に苦しめられている。こんなことならレース後に伝えてくれと何度も思ったが、そうなったらなったで、レース後にはこの比で無い凄まじい胃痛に襲われたことだろう。


 夜見は直美の事を考えて、覚悟の時間をくれたのだ。


 (いや、色んな意味で信頼してくれんのは嬉しんだけどよぉ……)


 レース前に伝えてくれたのは、メンタルの不調がパフォーマンスに影響しないと判断してだろう。大仕事を任されたのは、自分の人柄を信頼しての事だろう。


 それは嬉しい。いまだ微妙に距離を感じる夜見が、実はそこまでの信頼を寄せてくれたのだと思うと本当に嬉しい。だが、それとこれとは別なのだ。


 直美は苦痛に快楽を感じるような、おめでたい性格はしていない。夜見に悪意が無い分、下手に文句を言うのも難しい。結果的に、苦痛によって長引いた時間を、自己のメンタルの弱さを嫌悪する時間にしか出来なかったのだ。


「直美先輩、さっきからお腹を押さえてますけど大丈夫ですか? 一度スタートの延長要請をしましょうか?」


 ずっと腹部を押さえている直美に気が付いたのか、兎羽とわが声をかけてくる。


「……いや、いい。この痛みはメンタル的な問題だ。根本が解決しない限り、どんだけ延長したって変わんねぇ」


「……なるほど。直美先輩、大丈夫です! 私達は勝てます! 絶対に勝ってみせます! だから直美先輩は私達を信じて、安全第一にコースを走ってください!」


「えっ、いや」


「それじゃあ操先輩との最終確認がありますので!」


 自分から声をかけたと言うのに、兎羽は風のように去って行ってしまった。おまけにあの調子では、自身の不調が勝敗を心配しての物だと勘違いされていることだろう。


「……そりゃ、あいつには任せらんないもんな」


 ブロッサムカップの頃とは見違えた縦移動を見ながら、直美はポツリと感想を漏らす。


 説得というのは、時に強引な手を用いる方が上手くいく事もある。夜見の予想するレース後のルチアを考えれば、兎羽による説得は有効打になり得る可能性が高かった。


 しかし、兎羽の言葉に論理が無い。おまけに思い込んだら曲げない頑固さも持ち合わせている。


 そんな彼女に説得を任せたりしたら、不仲の原因を教えたりしたら、とんでもない論理の飛躍に繋がってしまう可能性がある。


 的外れの論理と的外れの認識。そんなもので説得されようものなら、返答は言葉どころか拳が飛んできてもおかしくは無い。この作戦から兎羽を外した夜見は、英断だったと言える。


「ありがとよ。おかげで覚悟が決まった」


 手のかかる後輩だ。場合によっては苛立ちが生まれる時もある。だが彼女の行動力によって、自分が救われたことは事実だ。


 可愛い後輩の未来を明るい物に変えてやる。自分と同じ道を歩もうとしている、を止めてやる。そう考えれば、不思議と緊張やプレッシャーは無くなった。


「なっさけねぇ部長だからこそ、こういう時に一肌脱いでやらねぇとな!」


 聞き慣れた機械音声が、スタート位置に付くよう指示出しを始める。


 直美を苛んでいた胃痛は、いつの間にか消え去っていた。

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