近すぎて忘れていた存在

「約束だ。この部室、お前らにくれてやるよ」


 ダイブからの帰還早々、直美なおみによって告げられたのは、部室の譲渡だった。


「えっと…… それは嬉しんですけど、本当にいいんですか? 私達は部室を分けてくれるだけでも十分なんですよ?」


 困惑したように兎羽とわが聞き返す。だが、そんな彼女の言葉にも、直美は鷹揚に頷くのみだ。


「それでいい。お前に負けたことで踏ん切りがついた。みさお


「無茶しすぎ」


 直美に呼ばれた操は一言苦言を呈すと、濡れタオルを手渡した。彼女はそれを受け取ると迷いなく己のまぶたに乗せ、だらりと上を向く。


「あの、何を……」


「眼精疲労、それの最悪版だ。元々私の目は、フルラウンドを戦える目じゃなくなってんだよ」


「あっ、身体を壊したって……。でも、さっきの戦いは……」


「アドレナリンの力だろうよ。そんだけ楽しめた。 ……いや、楽しめなくなっていたの間違いだろうな。病んで足掻いて、そのまま腐っていくだけだった私をボコボコに負かしてくれた。最高の引退日だよ」


 そう言う直美の口元には、初対面の時にはあった険しさが無くなっているように見えた。


 徐々に下降していく自身の実力。それでも勝ててしまう故の未練。兎羽に会うまでの直美は、前にも後ろにも進めなくなっていた。まさに彼女の言うような腐っていくだけの日々だった。


 だが、そんな日々は終わりを告げた。圧倒的な才能と驕らなかったからこその実力。そんな未来ある後輩に直美は叩き潰された。やっと真正面から負けることが出来たのだ。


「負けたってのにいつまでも過去の栄光にしがみ付いて、居場所を確保するなんてみっともなさすぎるだろ? だからもう一度言う。この部室貰ってくれないか?」


 濡れタオルを一時的に取り払った直美の目は、真っすぐに兎羽を射貫いた。そして兎羽も、これ以上の謙遜は毒にしかならないと悟った。


「分かりました。闇堂先輩。この部室、ありがたく使わせてもらいます!」


「あぁ。さっさと影先に、部室を確保してきたって自慢しに行ってきな」


「はい! けど、本当にスペースを分けてもらうだけで良かったんですからね?」


「分かってるっての。お前は部室が欲しかった。学園側は私達を潰したかった。そういうことだろ?」


「えっ?」


「はっ?」


 そこから始まったお互いの身の上話。その結果分かったのは、直美がとんでもない勘違いをしていたということ。


 勝手に勝負の話を大きくした上、賭けの受け皿にわざわざ部室を乗っけてしまった直美は笑った。それはそれは大笑いした。わたわたと慌て始める後輩達を職員室に追っ払った後も、彼女の笑い声は止むことは無かった。



「ふっくく! あっはっはっは! ……あー、くだらねぇ! まったくもって馬鹿なことをしたもんだ!」


 また二人きりになった部室の中。ようやく落ち着いたのか、直美が満足気な顔で愚痴を漏らした。


「ほんと馬鹿。救いようのない馬鹿。馬鹿の一等賞」


「……いや、私から言い出したことだけど、流石に言いすぎだろ」


「それだけ心当たりがあったってこと。罪悪感に押し潰されてたらわけない」


「……うるせぇ。分かってたんだよ」


 操の正論を、直美は渋々肯定するしかなかった。


 元を辿れば、彼女は部活一筋の熱血少女だ。そんな人間がいくら荒んでいたとはいえ、他人を踏みにじって快感を得られる訳が無い。


 むしろその心には、罪悪感がじゅくじゅくと膿のように広がっていたはずである。そんな状態だったからこそ、彼女は勘違いをしてしまったのだ。今の自分を、学校が許すはずは無いと。


「首輪を付けるくらいならほっぽり出す。悪評なんて数年が限度。退学した人間の名前なんて残らない」


「……」


「結局、直美はまだ調子に乗っていた。学校に名前を覚えられているはずだと驕っていた。そんなんだから、部室も乗っ取られた。似合わないヤンキースタイルなんて止めるべきだった」


「このっ! あん時は本当にっ、本当にショックだったんだ! もう何もかもが終わりに見えた! だからっ、だからっ!」


 直美が濡れタオルを吹っ飛ばして、対面に座った操の胸倉を掴む。身長差ゆえに、操の足は少しだけ宙へ浮く。しかし、そんなことをされても、彼女は目を逸らさない。ただ真っすぐに直美を見つめる。


「そんなことは分かってる。ずっと隣にいたんだから」


「なら! なんで今更正論ぶっ放して私を攻めやがるんだよ! 負けた私にはもう価値が……いや、なんだよその顔」


 胸倉を掴む腕にさらに力を入れようとした時、直美は目の前の操が心底呆れたような顔をしていることに気が付いた。怒鳴り声をぶつけられながら、胸倉を掴まれているとは思えない表情だった。


「猪突猛進は悪いことばかりじゃない。けど、それで一度失敗したんだから、いい加減失敗から学ぶべき。というか、学べ」


「だっ、だから、何が言いてぇんだ」


 操の瞳に剣呑さが生まれ、とうとう直美は彼女を離した。直美はようやく気が付いた。目の前の相棒が、自分以上に怒っていることを。


「勝手に賭けを始めて、勝手に部室を明け渡した。勝手に苦しんで、勝手に限界を見定めた。どうして一回たりとも相談してくれなかった? 直美にとって、私は壁掛け時計程度のインテリアだった?」


「あっ……」


 そうだ。直美はずっと一人で判断していた。病に絶望したあの時も、突然後輩が訪問してきたこの時も。


 そうしたのはなぜか。それは隣にいる操が、いつも直美の判断を尊重してくれたからだ。強く当たり散らし、自分の行動で同じように評判を下げ、まともなメカニック作業も出来なくなっても、それでも隣にいてくれたからだ。


 だから、いつの間にか自分一人で判断するのが当たり前になっていた。どんな判断をしようとも操は認めてくれるのだからと。


 そんなことがあるわけがない。彼女は人間なのだから。アイアンボクサーやリンドブルムとは違う、他人に操られるだけの機体とは違う、一人の意思を持った人間なのだから。


「直美にとってこの部室は、時には縋り付いて、時には目を背けたくなる負の遺産。でも私にとっては、直美と一緒に歩んだかけがえのない場所だった。それを相談なく安売りされたら、流石の私も怒る」


「いや、それは…… その」


 直美より一回り以上小さく、滅多に感情を表に出さない操の怒り。その圧力は、普段を知っている直美だからこそ余計に強く、激しく感じる。


 慣れ親しんだ親友の前だというのに、上手く言葉が出てこなかった。というよりも今この時は、上下関係が完全に逆転していた。


「言い訳無用。今回の件はむしろ、良い機会だった。そろそろ腐っていた時期の清算を始めるべき」


「はっ? 何を言って……」


「今から迷惑をかけた人間、全員に謝りに行く」


「なんで!?」


「そうしないと私達の悪評のせいで、二人の評価にまで角が立つ。するにあたって、心を入れ替えたと思われるのが肝心」


「お、お前……」


 直美もようやく、操が言いたいことが分かった。


 直美が安売りしてしまったこの部室。今更返して欲しいなんて言うのは、あまりにも大人げが無いし、何より情けない。そこで操は考えた。部室そのものは無くならないのだ。そのまま新たに出来る憑機ひょうき部に転部してしまえばいいのだと。


 こうしてしまえば部室そのものは今まで通り利用出来るし、夜見がメカニックでは無いのだとすれば、操の腕そのものも求められるだろう。


 だが、こんな悪質なロンダリングのような行為を実行すれば、今までの悪評をそのまま二人に押し付けてしまうことになる。だから操は提案しているのだ。今から迷惑をかけた人間全てに謝りに行くぞと。


「い、いや、謝りに行くのは百歩譲って分かる! けど、私がいた所で何の戦力にもならねぇだろ!」


 だが、ここで待ったをかけたのは直美。彼女自身が言っているように、今の彼女は病によって長時間のダイブが出来ない身だ。そんな自分が入部したところで、お荷物になるのは分かっていた。


 おまけに自分が転部しないだけで、悪評の大半は無くなる。だから操だけで転部しろと直美は言いたかった。


「今までは直美の体調を優先してリハビリをしてた。けど、今日の横暴で吹っ切れた。明日からはもっと積極的にリハビリをしていく」


「だ、だからって!」


「それに、私は直美と一緒が良い。直美が試合に出ている姿をもう一度見たい。駄目?」


「あっ……」


 そうだ。そうだった。操は自分の才能を信じて、今まで付いてきてくれたのだった。


 ずっと、ずっと、傍にいてくれたのだった。


 そんな彼女が滅多にないワガママを言ったのだ。応えてやるのが友情だ。


「……わぁったよ。今まで散々世話になったんだ。残りの一年くらい、お前のために恥を掻いてやるよ」


「ん。それでいい。それじゃあまずは、最初の恥を掻きに行く」


「……吐き気がしてきた」


「どうせ気のせい。ここまでやって、入部を断られた時の方が特大の恥を掻くのだから、覚悟するべき」


「……悪い。マジでトイレに行かせてくれ」


「弱弱メンタルすぎる」


 急いで部室を飛び出した直美に、操は特大の溜息を吐いた。この程度で精神に負荷がかかるのだ。荒んでいたとはいえ、やはり彼女に悪役は似合わなかったのだと。


 同時にふと疑問を抱いた。


 (そもそもあの兎羽って後輩、どうしてウチの高校を受けたのだろう。あれだけリンドブルムが大好きで、直美を打ち負かす実力もあるなら、どこかしらの推薦も取れたはずなのに)


「操~…… 悪いけど目薬も取ってきてくれ~……」


「はぁ~…… 雑魚雑魚メンタルすぎる」


 直美のバッグを適当に漁り、目薬を手に彼女を追いかける。


 操の疑問は、いつの間にか霧散していた。

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