葉桜と初夏の間で
坂原 光
葉桜と初夏の間で
「いってらっしゃい」
高校一年になった娘が、玄関で私を送り出してくれる。私は振り返って彼女を見た。彼女は高校の制服を着て、片手にパンを持っている。
私より遅く家を出る彼女は、いつも私を見送ってくれる。改めて見ると、娘は随分と、妻に似てきた気がする。幸い、私と似ているところは、そんなにない。少なくとも、妻に似た切れ長の目と、まっすぐに伸びた鼻の稜線からは、私の面影を伺うことは出来ない。
「ああ、いってきます」
私は革靴を履いて家を出る。玄関を閉めて、振り返って自分の家を見た。私が今までの人生で残してきたものと言えば、この家と、そして娘だけだ。あとは何にもない。どれだけ探しても、それ以外には、何もない。本当の話だ。
私は五年前に妻を亡くした。私と妻が三十一歳、娘が十一歳の時だ。私と妻とは、同じ大学で出会った。入学して三日目くらいだったと思う。大教室でたまたま隣の席に座った時に、私は彼女から辞書を借りた。
必要になるかもしれないと思って用意していたが、そういう大事なものをいつも忘れる私の癖は、その時にも遺憾なく発揮され、持ってくるのをすっかり忘れたのだ。
「良かったら、どうぞ」
私は鞄を探るのやめて、彼女を見た。大教室の窓から、四月の光が入っていたことを覚えている。
「ありがとう。でも、いいの?」
彼女は、ぎこちなく笑った。
「私、いつも二冊もっているんです」
大学に入学したばかりで、私にはまだ友人がいなかった。彼女も同じだったらしく、私たちは急速に仲良くなった。そして、桜が散り、枝先が葉桜になるころ、私は彼女と寝た。
大学生活では、わりと良くある話だ。
私たちが大学二年の時に、彼女の妊娠が発覚した。それも葉桜のころだった。彼女は大学を退学することになった。お互いの両親が揉めたのは言うまでもない。彼女の父親からは、何度も殴られそうになった。
私に出来ることと言えば、ただ彼女の両親の前で、頭を下げることだけだった。そんなことを何度も繰り返したのち、ようやく私と彼女は夫婦になった。暫くして、子供が生まれた。女の子で、咲良(さくら)という名前を付けた。考えたのは妻だ。
出会ったのが桜の季節だったから、と言うのがその理由だが、もし男の子が生まれていたらなんと名前を付けたのだろう?
思えば、妻はいつも私を先回りしていたような気がする。最初に会った時から、最後まで。
私たちの子供が生まれると、お互いの両親は態度を一変させた。人とは、いつも現金なものなのだ。おかげで、妻が亡くなるまでは両親との関係も良好だった。
私と妻が二十一歳の時に生まれた娘は、妻は娘が十一歳の時までしか知らないし、娘も妻が三十一歳の時までしか知らない。お互いに大切なものを失くした経験の家庭環境ということもあり、私と娘の関係は良好だ。
しかし、それが本当に良好なのかどうかは、分からない。もしかしたら、お互いがお互いに良い顔をしているのかもしれない。娘が本当は何をどう考えているのかなんてことは、私には分からない。
もちろん、娘にも私の考えていることは分からないと思う。さらに言えば、私が本当に、妻を愛していたのか、ということも。
私は、いつものように電車に乗る。そして会社に向かう。電車の窓から見える桜は、いつの間にか花を落とし、鮮やかな緑の葉が目立つようになった。それは、妻と初めて寝た季節、そして娘が妻に宿った季節だった。
私はある自動車会社で働いていたのだが、少し前に出向と言う名の転籍で子会社の方に行かされることになった。そう遠くないうちに、ここの社員になることは間違いない。
私は会社の名前がどうであるとか、職場がどこにあるのかなんてことは全く興味がない。だからどこで働いても同じだ。そういう態度が見て取れたから、私がここにいるのだと思う。娘が独立するまでの数年間、私と娘が暮らしていけるだけの給料があれば、何処で何をしようと不満は無い。
そして、何処だろうとまったく構わないと思っていた、そこで、私は彼女に出会った。
「はじめまして、山下あおいと申します」
出会ったと言っても、彼女と初めて会ったのはいつだったのか覚えていない。私がここに移動してきた時だったかもしれないし、あるいは彼女が中途入社で入ってきた時かもしれない。ただ、桜の季節だったことだけは覚えている。
「出来るだけ早く戦力になりたいと思います。宜しくお願いします」
彼女が頭を下げるのを見て、私に、少しだけ光が射した気がした。
「宜しくお願いします」
私は、そんなことは気のせいだと思ったので、あくまで普通に返事をした。そして、別のフロアに行く彼女の後姿を見送った。
夕方、会社を出たら、川沿いの道には沢山の薄桃色の花びらが落ちていた。流れる川にも、桜の花が流れていた。暫く川の流れを見ていたけれど、流れの行き先は、ビルに挟まれて見えなくなった。
私は、結婚をすればもう恋愛をしなくて良いものだと考えていた。妻が亡くなったとしても、一度固めた感情は壊すことは出来ない。というより、出来なかった。少なくとも、彼女と会うまでは。
私が事務所でパソコンに向かっている時、気が付くと彼女の後ろ姿を見ていることがある。もしかしたら、それは彼女ではなく、その向こうにある窓の外を見ているのかもしれない。
何を見ているのかすら、分からなくなった私は、自分は何も見ていないんだと思おうとした。気が付けば、そんなことが日を追うごとに多くなっていった。だけど、それを自覚するわけにはいかなかった。
私は、自分の感情について出来るだけ考えない様に日々を過ごしていた。私には、もう誰かを好きになる資格は無い。私には、感情を出す資格はない。ただただ、娘の父親であればいい。そんなことを考えていた。
あるいは、それは私にとっての最後の抵抗だったのかもしれない。
「鈴本さん」
五月のある日、私が会社を出たところで、彼女に声を掛けられた。私は、だいたいいつも早く帰る。だから、基本的に、誰かと一緒になることは少ない。
「山下さん。お疲れ様です」
私の隣に来た、彼女にそう答える。
「お疲れ様です。……鈴本さん、いつも早く帰りますよね」
「ああ……うちは娘と二人だから。妻が亡くなってね」
「そうだったんですね、すみません」
「いや、いいよ。もう五年前だからね。ところでさ、『いつも早いって』言うってことは、私は社内ではあんまり良い噂になっているわけではないのかな?」
私の問いに、彼女は少し表情を曇らせた。まるで、これから来るであろう春の終わりを連想させる雨のような表情だった。
「……ちょっと、時間ありますか?ここでは、ちょっと」
「私は大丈夫だけれど」
「会社の近くじゃないほうがいいですよね」
「そうですね」
私と彼女は、電車に二駅だけ乗って降りた。そして学生向けのファミリーレストランに入った。そこに入ろうと言ったのは彼女だったが、私はどこだろうと同じだと思っていたので特に意見はしなかった。
「ここなら会社の人、まず来ませんよ。みんな大体駅前の飲み屋に行くんです」
そういって笑った彼女の顔には、なんだか見覚えがあったような気がする。それが何時、何処で見たのかを思い出したのは、彼女と別れて一人で電車に乗った後だった。
「ただいま」
私はいつもより遅い時間に家に着いた。遅いと言っても、一時間かそれくらいだ。彼女が気を使ってくれたらしい。
「……お帰りなさい。遅かったね」
娘は、心成しか機嫌が悪かった。無理もない。いつも版で押したように同じ時間に帰ってくる人間が、遅い時間になったのだ。
「悪かったね。ちょっと仕事でね」
「……本当に?」
「うん」
確かに仕事の話だったから、そこには嘘は無い。ただし、百パーセント本当かと問われると、言い切る自信は無い。
「今度は、連絡してね」
「うん、悪かった」
私は、言いながら妻の仏壇に目を向けた。飾ってある写真では、妻が微笑んでいた。それは、誰に向けた言葉だったのだろう? 分からない。娘か、妻か、あるいは、自分か。それとも、彼女なのか。……私は、彼女の笑顔に、誰かの面影を見たのだ。
私と彼女は、時々、例のレストランで食事をするようになった。もちろん、きちんと娘には連絡を入れて。
「この会社って、変ですよ」
「そうかな?」
「はい。だって……」
私と彼女は、だいたい会社の話をする。彼女も、会社と言う閉じられた環境が分かった上で、本音を出せる人を欲しがっていたんだと思う。私から、何かを話すことは少なかった。彼女の、会社で使う声色と少し違う声を聞いているだけで、私は心が落ち着いた。
「鈴本さんは、再婚とか考えないんですか」
六月のある時、彼女は帰りにそう言った。その日は、食事の予定はなく、駅までの短い時間だった。
「誰かを好きになるってことが、よく分からないんだ」
私は、嘘をついた。多分、嘘だったんだと思う。その時になっても、私は本当に彼女が好きなのかどうか分からなかったから。
「私のことは、どう思いますか?」
彼女が、どういう答えを期待しているのか分からない。
「好きだよ」
それを聞いた彼女は、仕事用の声で答えた。
「好きって、感情、分かっているじゃないですか」
私は黙った。それが、恋愛感情としての好きなのか、同僚としての好きなのかは分からない。
黙ったまま歩いて、駅に着いた。
「……次の日曜日、何処かに行こうか」
私は、彼女を誘った。彼女は、一瞬、驚いた顔をしたけれど、すぐに頷いてくれた。
「良いですよ。私の連絡先は……」
私は、自分の言ったことが信じられなかった。言ってしまったことは、どうしようもない。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「お父さんさ、最近何か思いつめていない?」
「……いや、そんなことは無いよ」
「そう?」
「うん。何か変か?」
「少しね。もしかしたら、何かあったのかもと思ってた。会社で」
「子会社に転籍することになった」
「それは知っているし、それにそのこと別に気にしてないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、人間関係かな?」
「……それは当たっているかもしれないな」
日曜日のことを、どう娘に切り出そうか考えていた時に、娘は私に鋭いことを言った。私は、いつものように平静を保っているつもりだった。
「私もね、実は付き合っている人いるの」
「そうなのか」
「うん、びっくりした?」
「そりゃあびっくりするよ。それが多分親だろう。でも、考えてみれば僕だって昔、同じことをしてきたからね」
「でも、私はお父さんにとって娘でしょう?」
「そりゃそうだ。でも、ショックと言うのは少し違うな」
「じゃあ、何?」
「人生は色々あるから、何事も経験だ。僕が君に対して言えるのは、その程度のことだと思う」
娘は笑った。
「変なの。……私、日曜日出かけるから」
「僕もちょっと用事があるんだよ」
「夕飯は?」
「いらないと思う。もし食べなくても、何か買ってくるよ」
「分かった」
娘の嬉しそうだけれど、少し戸惑っているような表情を見て、自分のしたことが本当に正しいのかどうか分からなくなった。私は、どうすれば良いのだろうか。
日曜日。私と彼女は、会社の最寄駅で待ち合わせをすることになった。『日曜日に会社に近づく人はいないから』というのがその理由だ。確かにその通りだろう。
「おはようございます。早いですね」
彼女は、会社で見る時より若く見えた。きっと女性、は曜日によって見た目を変える不思議な力があるに違いない。
「いや、今来たところだから」
「どこに行きましょうか? 何にも決めていませんよね」
「何かを決めても、夕方には変わることが多いから」
彼女は笑った。梅雨の開けたばかりの七月の空のような爽やかな笑顔だった。
「確かに、会社では日常茶飯事ですね」
その笑顔を見て、私も笑った。
その日、私と彼女は、映画を見た。私はかなりの映画狂いだと自負していたが、彼女も私に負けず劣らずの映画狂いだった。映画を見た後、例によっていつものファミリーレストランで食事をしながら話をした。
「こんなに話の合う人って、鈴本さんが初めてです」
「私もだよ。正直な話、私より映画を見ている人がいるとは思わなかった」
「奥さんはどうだったんですか?」
「妻は全く見なかったね。だからいつも妻が寝た後に一人で見ていた」
「娘さんは?」
「娘は映画よりも本が好きみたいだね」
日曜日ということもあり、店は若者で混んでいたが、彼女も――年齢を聞いたことは無いけれど、おそらく二十後半だろう――うまくそこに馴染んでいるような気がした。彼女の力で、私も違和感が無くなっていた。
彼女が、腕時計を見た。
「そろそろ、帰りましょうか」
「うん」
店を出て、駅までの道の途中で、歩きながら彼女が言った。
「鈴本さん、私と付き合ってくれませんか?」
私は彼女の顔を見た。
「少しだけ、考えてもいいかな」
「私のこと、嫌いです?」
「いや、そんなことは決してない」
この間とは違って、恋愛感情として好きだ、と言いたかった。しかし、私の中の何かがそれを押さえていた。私は自分が情けなくなった。何を言えばいいのか分からなかったから、黙ったまま駅まで歩いた。
彼女の方の電車が、先に来た。私は、彼女の顔を黙ったままずっと見ていた。
「また、明日」
彼女が言った。
「うん、明日」
私も、それだけ言った。答えを出せなかったことで、彼女が少なからず傷ついていたことが、その表情から分かった。ぱっと見では分からない、しかし光を当てれば見える車の傷のように。
自宅の最寄駅から、歩いている途中に娘と会った。
「お父さん」
「おお」
「早かったね」
「うん、そうかな?」
その時になって、またもや彼女が気を使ってくれたことに気が付いた。
「どうだった? デートは」
「デート?」
「うん」
「……僕に恋人がいたら、嫌か?」
「ううん……でも、お母さんは少し悲しむかもね」
「……だよな」
「でも、お父さんの人生だから」
娘からそんなことを言われて、私は少しだけ涙が出てきた。花粉の所為にして誤魔化した。
「うまく行きそうなの?」
「明日ちゃんと返事をするよ」
「そうしてね。多分、待っていると思うよ」
「そうだな……」
私は、久し振りに娘と隣同士で帰った。
当たり前だけれど、彼女はもう大人に近付いている。
葉桜の季節が終わる。そして、夏が来る。これから先のことは自分で決めなければならない。それがどんな選択であれ。
葉桜と初夏の間で 坂原 光 @Sakahara_Koh
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