下
高校卒業と同時に、俺はカナダへ行くことになった。
その前にも二回、父親の転勤に合わせて転居をしていたが、まさか海外に行くことになるとは思わなかった。
さすがに十八にもなれば無理してついていく必要もなかったのだが、単純に俺が海外の暮らしに興味があったこともあって、一緒に行くことに決めた。
そして、当然一緒にカナダへ行くことになる母親が旧友に挨拶に行くのにくっついて、俺も子供の頃に住み慣れた街へ久々に足を運んだのだ。
もう何度となく通ったはずの住宅街が、何度となく潜ったはずの家の門が、やけに小さく感じた。
ハルは不在だった。
高校の卒業旅行で遠出をしているらしい。
流石に小学校の同級生が訪ねてくるなんて理由で卒業旅行をキャンセルにはできまい。俺だってそんなことをされても挨拶に困る。
久しぶりに訪れたハルの家は、記憶の中よりもやはり小さかったが、昔と変わらない、懐かしい匂いがした。
けど、当然変わっているものもあった。
「ギター? ああ。そういえば最近やってないわねぇ」
小母さんから、そんなことを言われてしまった。
なんでも、高校から所属したテニス部にかかりっきりで、ここ数年はハルがギターに触っているところを見ていないのだという。
まあ、そんなもんか。
期待していなかったといえば嘘になるだろう。
潮風の吹く公園で。
あの日見たハルの横顔。
子供特有の高い歌声。
思い出は綺麗で、色褪せている。
そうだよな。
そんなもんだよな。
自分が思ったよりもショックを受けていないことに内心で驚く。
多分、中学生くらいの頃にハルがギターを辞めたなんて聞いたら、激昂してあいつを詰っただろう。
けど、そんなこと、俺の一方的なわがままだ。第一、俺が引っ越した後でギターを練習していたこと自体、ハルには言っていなかったのに。
俺は適当な理由をつけてハルのギターを借り、懐かしい海辺の公園へと足を運んだ。
潮風が吹いていた。
遠くに入道雲。
甘く、塩辛い風が枝を揺らしている。
桜の古木――。
黒くひび割れた幹に手を這わせる。
固く、冷たい。
それでも、掌には、柔らかく、暖かな感触が伝わった気がした。
風が吹く。
枝が揺れる。
花弁が散る。
その下に、何本もの傷痕。
俺とハルがつけた背丈の印。
最後に俺がつけた印を追い越すように、隣に傷痕が積み重なっていた。
何本も。
何本も。
ああ、そうだよな。
俺がいなくなった後のこの公園で、中学生になったハルは、きっとギターを弾いていたのだ。
少しずつ伸びていく背丈と、大きくなっていく掌。
なあ、ハル。
バレーコードを誤魔化さないで弾けるようになったのはいつからだった?
きっとこの桜は、その成長をずっと見守っていたことだろう。
ある時を境に、あいつがギターを手放すまで。
俺は桜の幹に背を向けると、ケースからギターを引っ張り出した。
昔はなかったストラップがついていた。
丁度いい。
肩にかけ、長さを調節する。
久しぶりに見る景色。
昔よりずっと遠くまで見える。
空には入道雲。
風は潮の香り。
左手でネックを抱き、右手でピックを握りしめる。
深呼吸を一つ。
頭の中に浮かんだ旋律を思い出し、昔日の思い出を音の粒にして一つ一つ弾き出す。
頭の中でだけ響くドラムの炸裂に合わせ、ネックを短く握り直し、高音をかき鳴らす。
『サマータイムレコード』
こんなアコギで弾くような曲じゃないのは分かってる。
けど、見せつけてやりたかったのだ。
Cコードも知らなかったあの日の俺に。
Fコードに指が届かなかったあの日のハルに。
なあ、こんな激ムズな曲も弾けるようになったんだぜ。
音が散らばる。
弾けて明滅する。
空に溶けていく。
俺の喉が震え、歌が迸る。
春の日も、夏の日も、俺たち、ここで遊んだよな。
背丈を刻んで。
ギターを弾いて。
フレーズが巡る度、記憶が泡となって弾ける。
歌詞の一つ一つが、なんの関係もない思い出に紐づく。
これは別れの歌じゃない。
懐古趣味の歌じゃない。
これは夏の歌だ。
そして、青い春の歌だ。
体が澄み渡っていく。
頭が白くなっていく。
歌詞を叫び終え、左手がネックを往復してメロディーを刻む。
最後の和音をピックが撫で上げ、俺は桜に背を預けた。
息が上がっていた。
俺はそのまま、ギターのピックを頭にかざし、幹に傷を入れた。
それが、隣の傷より高いか低いか、俺は見なかった。
春が先で、夏が後。
春が終われば、夏が来る。
じゃあな、ハル。
俺は行くよ。
了
春にさよなら lager @lager
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