春にさよなら
lager
上
潮風が吹いていた。
遠くに入道雲。
甘く、塩辛い風が枝を揺らしている。
桜の古木――。
黒くひび割れた幹に手を這わせる。
固く、冷たい。
それでも、掌には、柔らかく、暖かな感触が伝わった気がした。
風が吹く。
枝が揺れ、花弁が散る。
俺は目を閉じて、そのさざめきの中に記憶を辿った。
「おい。それ、どうしたんだよ」
「父ちゃんの。パクッてきた」
そう言って、ハルは俺にギターを見せびらかしてきた。
「弾けんの、お前?」
「見てろって」
ぽろん。
ぽろん。
柔らかな指が弦を抑え、恐る恐るピックを動かす。
たどたどしい音の羅列。
それが徐々にまとまり、辛うじて形になる。
「猫ふんじゃった?」
「うん」
「だせえ」
「うるせえ」
始まりは大体そんなところだった。
俺はそう言ってハルを茶化したけど、ホントは羨ましかった。
黒いギターケースもかっこよかったし、桜の木によりかかってあぐらをかき、ギターを構えたそのポーズもかっこよかった。
物心ついたときには、ハルは俺のそばにいた。
母親同士が仲が良くて、同じ年に生まれた子供だったから、互いの家をよく行き来してはまとめて育てられていた。
俺たちには兄弟はいなかったけど、ハルと俺は兄弟みたいなものだった。
名前まで兄弟みたいだったけど、ではどちらが兄でどちらが弟かというと、俺たちは互いに譲らなかった。
「俺が先に生まれたんだから俺が兄貴に決まってるだろ」
「俺のほうが背が高いんだから、俺が兄貴のほうがいい」
「春が先で夏が後なんだよ」
「うるせえ、チビ」
そんなやりとりを、一体何度したことだろうか。
俺はいつだってハルの背丈のことを馬鹿にしてたけど、そうでもしなきゃ、自分がハルに勝てないことは分かってた。
ハルは頭が良くて、面白いものを見つけるのが上手くて、いつだって俺の先を生きてた。
ハルが先で、ナツが後。
俺はいつだって、ハルの後ろを歩いてた。
海を臨む公園で、ひっそりと立つ桜の古木の下で、俺たちはいつも遊んでいた。
その幹に背丈を刻んでつけ始めたのも、ハルが言い出したことだった。
「絶対抜かしてやる」
ハルはそう言って、俺を下から睨みつけた。
「無理だね」
俺はそう言って強がったけど、本当は怖かった。
身長まで抜かされてしまったら、俺はいよいよハルに勝てなくなってしまう。
けど、小学校にあがり、学年が上がっても、俺たちの身長差は縮まらなかった。
「お前、そろそろ成長止まれよ」
「知るかよ」
ハルはいつしかギターを練習しだした。
そして、どんどん上達していった。
初めは単音をぽろぽろ奏でるだけだったのが、そのうち和音を鳴らし始め、ついには弾き語りまでできるようになっていった。
真夏の果実。風になる。空も飛べるはず。
声変わりもする前の舌っ足らずな歌声が、潮風に乗って空に溶けていた。
かっこよかった。
けど、一曲引き終わった後のハルの顔は、いつもどこか不満げだった。
「お前もやってみろよ、ナツ」
「え、いいよ。俺は」
「いいから」
ある日、そう言って、ハルは俺にギターを押し付けてきた。
正直言って、ドキドキした。
俺だって、ずっと弾いてみたいと思ってたのだ。けど、俺の家にはギターなんてないし、まさか自分のお小遣いじゃ買えるわけもない。
ハルに自分から頼むのも、またハルの後を追ってるみたいで嫌だった。
俺はずっとハルが自分から貸してくれるのを待ってたのだ。
初めて持ったギターは、ずっしりと重かった。
まだわずかにハルの体温が残っていた。
緊張する左手で、ネックを握り弦を抑える。
指が痛い。
そのまま、右手の親指で弦を弾いた。
腹の底から音が響いた。
それが何の音なのかもわからない。
ただ、音が鳴った。
俺が鳴らした。
それが無性に嬉しくて、俺は抑える指を適当に変えて適当に音を鳴らし続けた。
何度やってみても、音楽にはならない。
けど、俺にとってはそれで充分だった。
そのうちに、ハルが口を出してきた。
「ナツ。薬指でここ抑えて。中指はここ。人差し指は一個離して。そう。それで全部の弦を鳴らす」
それまで適当に散らばっていた音の粒が、まとまった。
「それがCコード」
ハルは次から次へ俺の左指の位置を変え、コードを作った。その度に、音の束は色を変えて、俺の耳と腹を震わせた。
楽しい音。弾む音。斜に構えた音。切ない音。
音というのは、体の中で鳴るものなのだと、その時の俺は思った。
そんなことを繰り返しているうちに、俺はようやく、目の前のハルが悔し気に口元を引き結んでいることに気づいた。
「なんだよ」
「別に。そろそろ返せよ」
「もうちょっといいだろ」
「ダメ。返せ」
「なに怒ってんだよ」
「怒ってねえよ」
ハルはほとんどひったくるみたいにして俺の手からギターを奪うと、そそくさとケースにしまった。
そして、いつも背丈の印をつけてる桜の幹を睨みつけ、背中をつけて新たな印をつけた。
「この前やったばっかじゃんか」
「いいだろ。ほら、ちょっと伸びてる」
「お前いま適当にやったからだよ」
「ちゃんとやったって」
その後、どんな話をしたかは覚えてない。
確かなのは、その日以降、ハルが決して俺にギターを触らせてくれなくなったことだった。
小学校の卒業と同時に、親の転勤に合わせ、俺は住み慣れた街を引っ越すことになった。
俺は嫌がったけど、嫌がったってどうにもならない。
悔しくて涙を堪えて、でも堪えきれずに溢れてきて、俺は一人で桜の木の下に逃げこんだ。
ハルはいなかった。
けど、俺とハルがつけたいくつもの傷痕が、桜の幹に刻まれていた。
いつも少しだけ、俺の方が高い。
この場所で色んな遊びをしたはずだったけど、思い出すのは、ハルが聞かせてくれたギターの演奏だった。
かっこいい横顔だった。
別れの日、ハルとどんな会話をしたか、やっぱり覚えてない。
12歳の男が、別れ際にいったいどんな気の利いたセリフなんて言えるだろう。
俺たちはお互い、足りていなかった。
だけど、だからこそ、俺はその時心に決めていたことがあった。
引っ越した先、俺は親にギターをねだった。
いくらするかなんて調べてもなかったけど、きっと高いんだろうとは思った。
親の都合で幼馴染と引き離した負い目もあったのだろうが、父はあっさりと了承し、ハルのそれとは随分色味の違うアコースティックギターを買ってくれた。
本で勉強し、動画で勉強し、俺はギターの練習を続けた。
そして、あのときハルが不機嫌そうにしていた理由がなんとなく分かった。
Fコード。
初めて教本でその運指を見て、自分で試してみたとき真っ先に思ったのだ。
これはハルには難しいんじゃないのか、と。
クラスで二番目に身長の低かったハルは、掌もやはり相応に小さかった。
あいつの手じゃ、多分指が届かない。
きっとあの日、ハルは俺の手を見て、俺ならば自分ができないコードも弾きこなせることに気づいたのだ。実際には、指が届くことと上手く弾きこなせることは全く別の話だが、これはそもそもスタート地点に立てるかどうかの問題だ。
思えば、ハルがギターを始めてから、背丈の印をつけるのも以前より熱心になった気がする。
俺は知らぬうちに、ハルに負けを味わわせていたのだ。
けど、そんなこと――。
俺はハルのギターが好きだった。
ギターを弾いているハルの横顔が好きだった。
ハルの歌が好きだった。
なあ、ハル。
見てろよ。
俺も、上手くなってやるよ。
たくさん練習して、お前みたいに上手くなるよ。
その頃には、お前の背だって少しは伸びてるだろ。
だから、その時にはあの桜の木の下で、セッションでもしようぜ。
サザンでもスピッツでもなんでもいいさ。
ハルが先で、ナツが後。
でも、きっと追いついてみせるからさ。
待ってろよ、ハル。
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