後編

「これが、お兄さんが言っている“あの日の約束の続き”だ」


 店主が選んだのは、淡い水色のビー玉だった。春の空のように微かに霞がかっていて、見ていると心が穏やかになるような色だった。

 晴也はじっくりとビー玉を眺めた後で、覗き込んだ。

 小さなガラス玉には、プロポーズをする晴也とそれを受ける妻、璃々りりの姿が映っていた。

 幸せな結婚式に、沖縄での新婚旅行。翌年の結婚記念日には北海道に行って、璃々が熱望していた海鮮丼をお腹いっぱい食べた。

 その次の年は、お腹が大きくなった璃々と一緒に自宅で映画鑑賞会をした。翌年の春に女の子が生まれて、夫婦で支え合いながら娘を育てた。娘が三歳の時に息子が生まれ、長女が小学校に入学する頃には次女が生まれた。

 にぎやかながらも楽しい日々が、ビー玉の中で過ぎていく。

 子供たちはスクスクと成長し、やがて次々と家を出て行った。末っ子が大学入学を機に家を出て、再び夫婦だけの場所に戻る。

 長女が結婚し、孫が生まれ、長男も良い相手を見つけた。末っ子は国際結婚をして遠い国へと行ってしまったが、毎週のようにテレビ電話で顔を合わせていた。

 長女のところは三姉妹で、長男は二人兄弟、次女はなんと五人の子宝に恵まれた。

 晴也と莉々の還暦のさいには末っ子家族も集まり、レストランを貸し切ってお祝いをした。

 会社を退職した晴也と莉々は、旅行に行ったり家庭菜園に精を出したり、楽しそうに老後を送っていた。

 クルクルと万華鏡のように鮮やかに移り変わっていた景色が、病院の一室で止まる。

 真っ白なベッドには、薄く微笑んだまま眠る莉々の姿があった。その隣では、涙を流す晴也が孫たちに支えられながら立っている。

 晴也はビー玉から目を離すと、ギュっと握りしめた。


「あの日の約束の続きは、どうだったかい?」

「もし……もしも僕が病気をしなければ、こんな未来が待っていたんですね」

「いや、違うね。これはあくまでも、可能性の一つに過ぎない。もっともあり得そうで幸福な結末を用意しただけで、他が良いならいくらでも作ることができる」


 店主はそう言うと、パイプに再び火をつけた。

 甘ったるい香りが漂い、店主の口から白い煙が細く吐き出される。


「終わってしまった過去に“もしも”を求めたって仕方がないじゃないか。あり得ない“もしも”に囚われて、幻の未来に恋をし続けるなんて、馬鹿らしいと思わないかい?」

「そう……かもしれませんが……」

「じゃあ何でこんな店やってんのかって顔してるね」


 図星をつかれて、晴也は思わず顔に手を当てた。それを見て店主がクスクスと煙を吐き出す。細切れの煙は、天井に届く前に空気と混ざって消えてしまった。


「未来がないから、幻の未来を楽しめる。それは、死者の特権だと思うからだね」


 小さくそう呟くと、店主は目を細めて桜色のビー玉を覗き込んだ。瞼を彩る朱色のアイシャドウが、パっと花開く。


「変えようのない過去に“もしも”を重ねて未来を嘆くのは、生者のやることだ。彼らには、今も未来もあるからねえ。でも、あたしらには嘆く今も未来もない。過去がどうなったとしても、死という結末を迎えた以上、あたしらの物語は終わったんだ」


 店主の指先からビー玉が転がる。クルクルと光を反射しながら回るそれは、晴也の足元でピタリと止まった。淡くにじむその中に、一瞬だけ店主と誰かが寄り添って歩く姿が映った。


「でもねえ、別の物語だって見たいじゃないか。あの時の約束が果たされていたらどんな未来がありえたのか、見てみたいじゃあないか。……幻の未来はね、嘆くためにあるんじゃない。楽しむためにあるんだよ」


 瞬き一つの間に消えてしまった店主の幻の未来に、晴也はビー玉を拾うと彼女の手に乗せた。


「それで、他の未来を見るかい?」

「いえ、これで十分です」

「そうかい。そのビー玉はあげるよ。また見たくなった時に見ると良い。でも、あまり幻に囚われすぎてはいけないよ」

「気をつけます」


 晴也はビー玉を握りしめると、大切に胸ポケットに入れた。


「暫くはここにいると思いますので、また何か中途半端に終わった約束を思い出したら来ますね」

「おや? 誰かを待っているのかい?」

「えぇ、妻を」

「お兄さんの奥さんなら、大分若いだろう? 残酷なようだけど、いつまでも独り身でいるとは限らないんじゃないかねえ」

「そうでしょうね。彼女は聡明で優しく、飛び切り美しい人でしたから」


 ストレートに惚気られ、店主は目を丸くしてポカンと口を開いた。しかしすぐに破顔すると、晴也の背をバシバシと叩いた。


「良いね、気に入ったよお兄さん。それで、奥さんを待ってどうするつもりなんだい?」

「本当は、約束を守れなかったことを謝りたいのですが……彼女は望まないでしょう。謝罪されるよりも、感謝されるほうが好きだったので」


 たった一言でも、ありがとうが伝えられたらそれで良い。

 そう呟いて、晴也は店内に飾られたビー玉を眺めた。差し込む光を受けて、宝石のように輝くそのうちのいくつに、晴也の幻の未来が見えるのかは分からない。

 けれどその全てに、誰かの幻の未来を映す力があるのだ。


「お兄さん、一つだけ面白いことを教えてあげよう」


 去ろうとした晴也の背に、店主が声をかける。

 ニヤリと笑うその唇は、口角がキュっと吊り上がっており、綺麗な三日月の形をしていた。


「お兄さんの人生において、果たされなかった約束は三百を下らない」

「えっ……?」

「小さいころに母上と、皿洗いの約束をした覚えは? 行けたら行くと言う約束をして、行けたのに行かなかったことは? 大きな約束だけが約束じゃあないんだよ」


 小さな約束から大きな約束まで。果たせなかったあの日の約束をもしも果たしていたならば?

 無数のビー玉に、選ばれなかった未来が写し出される。

 晴也は声を上げて笑うと、手近にあった一つを取った。

 莉々がこの場所に来るまでにどれだけ時間がかかるかは分からないが、退屈することはなさそうだ。

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幻の未来と硝子玉 佐倉有栖 @Iris_diana

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