桜組曲

増田朋美

桜組曲

もう春というのに、寒い日が続いていた。まだ、厚手の上着をしまってしまうにはちょっと早すぎるようだ。それでも昼間は20度近くまで上がるときもあるから、皆厚手の上着を持ち歩いて、なんだか荷物が一つ増えたなとか、そんなぐちを漏らしながら、街を歩いて要るのだった。

その日、杉ちゃんがご飯の材料を買うため、ショッピングモールで買い物をしているときのこと。杉ちゃんは、アジフライを袋詰しようとしたが、袋は売りだなの上の方にあって、車椅子の杉ちゃんには手が届かなかった。そこで杉ちゃんは、近くを通りかかった人に、

「おい!お前さん。ちょっとそこにあるビニール袋を一枚取っておくれよ。」

と、頼むのであるが、みんな嫌そうな顔をして、ちょっと急いでいるのでとか言って、通り過ぎてしまうのであった。中にはそれは店員にたのめと助言をしているような顔していう人も居る。杉ちゃんはそれは全く嫌だなあと思ったが、大体の客は、他人と関わりたくないのか、そうしてしまうのだった。

「あーあ、困ったなあ。これでは、アジフライを買えないじゃないか。まさか、そのまま手で持っていけなんて言うんじゃないだろうね。」

杉ちゃんは困った顔でそう言うと、

「杉ちゃん来てたの?ここで会うなんて、珍しいじゃない。いつもここで買い物するの?」

と、一人の着物姿の女性が、彼に声をかけてきた。誰かと思ったら、植松聡美さんだった。

「ああ、聡美さん。お前さんこそ、このショッピングモールでは、全然見かけなかったけど、よく来ているんかな?」

と、杉ちゃんはそう答えた。

「ええ、あたしたちは、一緒に来たのは初めてなの。ほら、あたしたち、車の運転できないでしょ。今日は富士駅からバスで。」

と聡美さんは答える。それと同時に、右腕だけでショッピングカートを押した、植松淳が姿を現した。

「よう!片腕のお前さんは、確かフック船長だったな。今日は、夫婦揃ってお買い物か。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「フック船長はやめてください。あんな悪役と一緒にしてほしくないです。いくら片腕だからって、そんなあだ名はつけないでもらえませんか。」

植松淳さんこと、フックさんは答えた。

「いやあ、片腕のキャラクターと言えば、フック船長で間違いないでしょう。みんなお前さんのことをそう言ってるよ。もうそれは、定着しきってるんじゃないかな。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。フックはそうですかと苦笑いを浮かべた。

「それではお前さんたちにお願いがある。そこにあるビニール袋を取ってくれ。でないと素手でアジフライを掴まなければならない。」

杉ちゃんがそう言うと、

「わかりました。誰か、お手伝い役をつければいいのに。今は誰かを頼むことは、昔に比べたら随分楽になっていますよ。」

フックは、そう言いながらも、ビニール袋を一枚取ってくれた。杉ちゃんはそれを受け取って、アジフライを三枚中に入れた。

「ああ良かったあ。助かったよ。なんかお前さんたちにお礼したいんだけど、できることは無いかな?」

杉ちゃんはいつでも喋るセリフを言った。

「ああ、結構ですよ。そんな人助けしてお礼を言われるなんて、僕達は、そんな身分の高い人間じゃないんですから。」

フックは、形式的にそう言うが、

「それなら、お茶でもごちそうになりましょうかね。確かショッピングモールにカフェがあったでしょ。そこでお茶して行きましょう。」

と、聡美さんが言ったため、杉ちゃんたちはそうすることにした。とりあえず、聡美さんたちは現金で、杉ちゃんはICカードを使ってお金を払って食品売り場を出て、ショッピングモールの端にある、カフェに入った。

「それで今日は買い出しか?それとも別の用事があったの?」

杉ちゃんがお茶を飲みながらそう言うと、

「いやあ、買い出しというわけでは無いのですけどね。今日は、家の主人が書いた曲を演奏してくれる演奏家を探しに来たのよ。」

聡美さんがにこやかに言った。

「はあ、なんだ、交響曲でも書いたのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「交響曲では無いんですけどね。ピアノ・ソロの組曲です。タイトルは、桜という組曲で、四曲の小品から成り立つ曲です。」

と、フックは説明した。そして、持っていた風呂敷包みを解いた。確かに手書きの五線譜で、組曲桜と書いてある。

「今どき手書きで五線譜を書くのも珍しいわよね。今はパソコンで書くのが当たり前だと言われてしまったわ。」

聡美さんは、ちょっと恥ずかしそうに言った。

「まあ、それはそうなんだが、随分音が少ないな。第一曲の調性はヘ長調で、第二曲は変ロ長調、第三曲はト短調、そして終曲はヘ長調か。随分ありきたりな調性だな。なんかメンデルスゾーンの幻想ソナタに似ているような気がする。」

杉ちゃんは譜面を眺めながらそういうことを言った。

「そうですか。ありがとうございます。僕はリストのような超絶技巧なるものがあまりすきではなくて。今流行の無調音楽とか、そういうものもすきではありません。ピアニストは、超絶技巧を見せびらかすような存在だけでは無いと思うんですよ。だから、無調で超絶技巧を披露するような作品は、作りたくないんですね。時代おくれかもしれないけど、そのほうが、描写音楽として良いのではないかと思うんです。ホロディンの中央アジアの高原にてとかが、その良い例だと思うんですよ。」

フックは、そう説明するように言った。

「ははあ、なるほど。それでこの曲を演奏してもらうピアニストを探してたの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はいそうです。この人、ご覧の通りだから、曲を発表するだけでも、誰かに演奏してもらわないとだめなんですよ。だからやってくれそうなピアニストの先生を虱潰しに当たったんですけど。」

と、聡美さんが答える。

「それで、誰かいい演奏家が見つかったか?」

杉ちゃんがそうきくと、

「それが、見つかりませんでした。片腕の人が書いた曲なんて、絶対ダメだって、断られてしまうんです。それに、さっきもいったとおり、この人の書く曲は、この人が変なこだわりを持つせいで、ホント地味すぎる曲ばかりですから、演奏家の人は面白くないんですよ。それで、けんもほろろに断られてしまいましたよ。もう諦めようと思って、買い物して帰ろうかと言ってたところだったんです。」

聡美さんは、苦笑いして答えた。

「はあ、なるほどねえ。それなら、水穂さんに僕が頼んであげようか?」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「いや。無理ですよ。片腕の僕が書いた曲を、右城先生みたいな大演奏家に頼んだりしたら、右城先生の面目丸つぶれですよ。それに、あの方は、ゴドフスキーの名人でしょ。そんな人が、こんな曲弾いたら、笑われるに決まってるじゃないですか。」

フックは、申し訳無さそうに言うが、

「そんなの、頼んでみなきゃ、わからないじゃないか。一応今から、製鉄所に行ってさ、水穂さんに頼んで見たらどうだろう?もし断られたらまた別の演奏家を頼めばいい話だし、一応、頼んでみたら?」

杉ちゃんは平気な顔で言った。

「別の演奏家って、このあたりのピアニストの先生には今さっき頼んできたばかりです。その時も片腕の男が書いた曲なんて弾けるわけがないなんて言われてしまいました。それに右城先生、お体も良くないのでは?」

フックは残念そうにそう言うが、

「いいえ、あたしは頼んでもいいと思うわ。ぜひ、お願いしてみましょうよ。このままだと、発表会で何も発表できなくなっちゃうわよ。」

「そうそう。それに、水穂さんだって、自分が必要だと思ってくれれば、ご飯を食べてくれるようになるかもしれないしなあ。」

聡美さんと杉ちゃんが相次いでそういったため、三人は製鉄所に向かうことになった。製鉄所へは、杉ちゃんが用意したタクシーで行った。製鉄所と言っても鉄を作る場所ではなくて、居場所の無い人たちに勉強や仕事をするための部屋を貸し出す施設であり、水穂さんは、そこで間借りをしているのである。

「おーい水穂さん!いい話を持ってきたぞ。ちょっと起きてくれるか?」

杉ちゃんは上がり框の無い玄関を通り過ぎて、四畳半に入った。フックと聡美さんも、よろしくおねがいしますと言って、四畳半に入った。水穂さんは、四畳半で横になっていたが、三人が来訪するのがわかると、咳をしながら布団に起きてくれた。

「こいつがな、発表会でこの曲を披露したいんだって。それで、見ての通りこいつは片腕で左腕がない。そういうわけで、誰か演奏してくれるピアニストが必要だ。それでお前さんにぜひ弾いてほしいんだが、お願いできないかな?」

杉ちゃんから楽譜を受け取って、水穂さんは、ピアノの前に座った。そして、所見でもあるのに関わらず曲を弾き始めた。所見で平気で弾きこなしてしまう水穂さんに、やっぱりゴドフスキーを弾くくらいの人は違うねえと杉ちゃんは言ったが、聡美さんがそれを止めた。確かに、メンデルスゾーンの幻想ソナタと何処か似ている。

「ああわかりました。とても素敵な曲ですね。」

第一曲を弾き終えた水穂さんは、そう彼を褒めた。

「和声感とか、すごく地味な作品ではありますが、それが逆に美しいのかもしれません。モーツァルトの作品が、和声的に複雑なところは無いけれど美しいのと同じだと思います。」

「ありがとうございます。右城先生。どっちにしろ、僕には弾くことができないのですから、そう褒めてくださって嬉しいです。」

フックがそういうと、水穂さんは、

「本当に弾くことができないんでしょうか?」

と、優しく言った。は?という顔をするフックに、

「ちょっとこちらに来ていただいて、第2楽章の主題を弾いてみてくれますか?右腕はあるのですから、それくらいできますよね?」

水穂さんがそう言うと、彼はちょっと恥ずかしそうな顔をして、水穂さんの隣にたった。そして、第二曲の右手部分を弾き始めた。水穂さんは、静かに左手のアルベルティバスを弾き始めた。うるさい伴奏系と言われるアルベルティバス。でも、演奏技術がある水穂さんは、アルベルティバスを使って、旋律を響かせることも心得ている。二人のいきはぴったりだ。第2楽章はとても美しい曲だった。

「それなら、水穂さんと一緒に発表会でやるというのは、無理な話かなあ。」

と杉ちゃんが思わず、そう言ってしまうほど、曲は美しかった。

ところが、第2楽章が終わって、終わりの音を弾き終わったのと同時に、水穂さんが激しく咳き込んでしまった。フックはすぐに水穂さんの背中を叩いてやったのであるが、水穂さんの口元から赤い液体が噴出して、楽譜を汚してしまった。杉ちゃんが、

「馬鹿!何をする!」

と言っても効果なく、第三楽章の初めのページが真っ赤に汚れてしまった。水穂さんは、ピアノのいすから落ちて、座り込んで更に咳き込んでしまうのである。

「大丈夫ですか?病院に行ったほうが。」

フックはそう言うが、杉ちゃんが、

「ああ、無理無理。どうせ、こんなやつを見てくれる病院なんて無いよ。行けたとしてもこんなお荷物さんとかいって、放置されちまうのが落ちだ。だったら連れて行かないほうがいい。」

というので、それはできなかった。

「でも、お医者さんに見てもらわないと、かなり深刻な状態だと思います。」

フックがそう言うと、聡美さんが、

「深刻なのはこっちじゃない。楽譜はまるで使えないわよ。」

と、残念そうにピアノの上の楽譜を見ていった。

「そんな事言ってられません。曲なんて、また書き直せばいいんです。それより今は水穂さんをなんとかして上げることを考えないと。」

フックがそう言うと、杉ちゃんがとりあえず薬を飲ませようと言って、水のみを水穂さんに渡したが、水穂さんは咳き込んでしまって、水のみを落としてわってしまった。これでことの緊急性を知った聡美さんが、

「私、お医者さんに電話します。杉ちゃん電話番号を教えて下さい。」

というと、杉ちゃんはとっさに記憶していた、柳沢裕美先生の番号を言った。聡美さんは、急いでスマートフォンを出して、その番号を回した。

「もしもし!柳沢先生ですか?至急診察に来てほしい患者さんが居るのですが、、、。」

聡美さんは二言三言交わして電話を切り、

「すぐに来てくれるそうです。」

と、だけ言った。聡美さんにしてみたら、夫が苦労して制作した楽譜を、演奏してくれる人は見つからなかったし、それに水穂さんに楽譜を台無しにされてしまって、非常に悔しいと思うのであるが、フックはそのような気持ちなど何もないようだった。とりあえず咳き込んでいる水穂さんの背中を撫でてやるなどして、柳沢先生の来るのを待った。ものの五分くらいの長さであったが、非常に長い時間のように感じられた。

「こんにちは。柳沢ですが、水穂さんどうしたんでしょう?」

玄関先で柳沢先生の声がした。杉ちゃんが、

「ああ、よろしく頼む!こっちだ!」

とでかい声でそういった。こんな時上がり框が無い玄関は便利だった。柳沢先生は、すぐに入ってきてくれた。そして、四畳半にやってきて、まだ咳き込んでいる水穂さんを眺めて、とりあえずこちらをどうぞと重箱を開いて、別の水のみと、懐紙に包まれた粉薬を出した。片腕で作業ができないフックに代わって聡美さんは、水のみに水を入れた。それに柳沢先生は、粉薬を入れて溶かし、水穂さんに渡した。今度は咳き込みながらでもあったが、水のみを落とすことなく水穂さんは中身を飲んでくれた。その飲む音が、聡美さんにはものすごい大きな音に感じられた。薬は水薬であったから、すぐに効くようになっているらしく、水穂さんは、咳き込むのをやめてくれた。薬には、眠気を催す成分もあったのか、水穂さんはフラフラと倒れ込んだ。それを、フックが右腕だけで受け止めた。でも彼にできるのはそれだけで、聡美さんが手伝わなければならなかった。二人は、水穂さんの体をそっと動かして、布団に寝かせてあげて、掛ふとんをかけてあげた。

聡美さんは、ピアノの上にある楽譜を見た。第1楽章と第2楽章は無事だったが、第三楽章が、水穂さんが吐いた血液でえらく汚れてしまっており、音符もほとんど見えなくなってしまっていた。聡美さんは、ちょっとそこで怒りが湧いてきて、

「あーあ、うちの人が、一生懸命作った曲なのに。いくら偉大な先生であっても、これじゃあ、本番で使い物にならないわ。弁償してくれるはずよね?」

と思わず言ってしまったほどだ。

「いえいえ、僕が書いた曲ですもの、何にも価値はありません。それに曲なんて先程もいったけど、また何回も書き直せます。大丈夫です。弁償なんて、そんなことを求めるわけには行きません。僕は大したことないんです。文字通り片腕ですから。」

フックは、謙虚にそういうことを言うが、

「でも本番は、一週間後なのよ!それまでに書けると思う?」

と聡美さんは言ってしまう。

「まあ確かに、曲を書くというのは非常に難しい作業だからねえ。モーツァルトだって、短時間で曲を書いたわけじゃないと思うし。」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうですね。確かに一週間では曲を書き終えることはできないかもしれませんね。でも、それは仕方ないことですよ。そもそも僕みたいな片腕が、作曲をするなんて、間違いだったかもしれない。今まで行ってきた演奏家の先生に全部断られたのがその合図だったかもしれない。だから、もう諦めたほうがいいのかな、作曲なんて。」

フックは、当然ように言った。

「でもあなたは、この曲のために一生懸命書いていたのに、、、。」

聡美さんは、小さな声でそうつぶやく。

「偉い人だからといって、悪いことも許されるわけじゃないわ。」

「ええ、そうかも知れませんが、諦めます。僕は、たしかに片腕ですし、音楽家になるなんて無理な話なんだ。きっとそういうことだと思います。片腕の人間が、音楽をするなんて、そんな事確かに前例が無いですし。だから、これで諦められます。本当に良かった。」

フックは、杉ちゃんたちに向かってそういう事を言った。しばらくしいんとした長い時間がたった。聞こえてくるのは、水穂さんが薬で眠っている音である。聡美さんも、やっぱり彼には無理だったのかなと考え直そうとし始めたその時、柳沢先生が、ピアノの上においてある第1楽章と第2楽章を興味深そうに眺めて、

「これはとても美しい曲ですな。ぜひ、コンサルテーションのときに使いたいものです。この曲の作者は誰ですか?」

といい出した。

「コンサルテーションって何?」

と、杉ちゃんが言うと、

「医学的には、精神疾患がある患者さんにピアノを演奏させて、精神の安定を試みたり、あるいは指の機能を回復させるために、ピアノを弾かせたりするセラピーのことですよ。」

と柳沢先生が説明した。

「ぜひ、この一楽章と二楽章、コンサルテーションで使わせてもらえませんか?楽譜のコピーで結構です。この楽譜を譲っていただきたい。お願いできませんか?この曲の作者は誰でしょう?」

「ええ、、、僕ですが。」

フックは、右腕で自分を指さした。柳沢先生は、片腕の人がそういっても、態度一つかえないで、

「では一楽章と二楽章で、5000円ずつでどうでしょう?」

と、彼に一万円札を手渡した。フックはありがとうございますと言って、右腕だけでそれを受け取った。

「おう、交渉成立みたいだねえ!こうなったら善は急げだぜ。この近くにコンビニあるから、急いでコピーさせてもらってこいや。ほら早く。」

杉ちゃんに言われて、聡美さんは正座から立ち上がって、ピアノの上にある一楽章と二楽章を取って、製鉄所の上がり框の無い玄関を出た。今度こそ汚してしまわないように慎重に出た。聡美さんが、コンビニに向かって道路を歩いていると、道路脇に桜が咲いているのが見えた。まるで、二人の成功を祝うかのように、桜は華やかに咲いていた。聡美さんは思わず桜の前で止まってしまうかなと思ったが、すぐに頭を楽譜のコピーに切り替えて、あるき出した。


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桜組曲 増田朋美 @masubuchi4996

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