06.
「お待たせしましたわ」
「うん」
千里おばさまを見送ってからしばらくして、ようやく紫乃が戻ってきた。
静かな目をしている。
束になった前髪から水滴が顔に垂れているのも、ブラウスの胸元が濡れているのも、紫乃は気にかけていないようだった。
あたしと紫乃は薬房の小さな囲炉裏を挟んで腰を下ろした。
円筒形に切った天狗のひげの木質を、焙烙鍋にそっと置く。
今のあたしたちならば、この虹色の塊を輝く真球と成すことができるはずだ。
鍋つかみで焙烙鍋を傾け、菜箸で木質を突き、焦がさぬよう天狗のひげの木質を転がす。
紫乃と二人、代わりばんこに役割をこなす。
木質が焼けるときの微小な連続音。
薪が時折立てる破裂音。
薬房には水分の蒸発する音だけが響いていた。
「ねえ、銀子」
長い沈黙を破ったのは紫乃だった。
「あなた、中学校はどうしますの」
「島の分校。近いし、兄さまも姉さまもそうだったし。紫乃んとこの私立は中学もあるんだっけか」
「幼稚園、小学校から中学、高校、大学までありますわ」
「そのまま進学するの?」
「ええ、そのつもりです。銀子。あなたもおいでなさいな」
「あたしが?」
「御成学園はよい学校ですわよ。歴史と伝統があって、行事には真面目に取り組む一方で、勉学にも勤しむ気風があって」
「育ちのいいお坊ちゃんお嬢ちゃんばっかじゃないの? あたしはちょっとね」
「真剣に物事に取り組むにはよいところです。銀子には合っていると思いますよ」
「意外な評価ね。でも、そしたら電車通学だよね」
「江ノ電で二十分程度ですよ。もっと遠くから通ってくる生徒も大勢います。いろいろな人に出会えます。銀子は島の外に出るべきです」
「うん。分かってる。それはいいんだけど、電車かあ」
「あら、不安でしたら連れていってさしあげますわよ」
「もう電車くらい一人で乗れますっての。ま、お金次第かな。私立って高いんでしょ? うち、余裕無いんだよね」
「ともかく、相談してみなさいな。白金さまや金子さまなら分かってくださるでしょう」
「そうね。考えとくわ。そういう紫乃もさ、もっと薬のこと勉強しなよ」
「そのつもりですわ。薬のこと、島の伝承のこと、弁天楼や龍神庵のこと。知りたいことがいっぱいあります」
「何なら教えてやってもいいよ。あたしのこと『お師匠さま』って呼んだらね」
「結構です。自分でできますわ」
「あっそ。ねえ、紫乃。昨日乗った電車、覚えてる?」
「江ノ電のことですか?」
「ううん。小田急。窓からさ、いっぱい家が見えたじゃない」
「見えましたわね」
「すごいよね。あの一軒一軒に家族がいるんだよ」
「ええ。どれだけ人がいるんでしょう」
「あたしたちの薬、どこまで届くんだろうね」
「わたくしも、それが知りたいんですの」
「中学、やっぱりそっち行こうかな」
「そうしなさいな。わたくし、高校に行くとしたらもっと遠くに行きたいと思ってますの」
「あたし、まだそこまで考えらんないな。でも、旅行はしてみたい。もっと遠くまで行ってみたい」
「いろいろな人に会えますわ」
「いろいろな神さまにもお会いしてみたいな」
「そういえば、銀子。あなたの推測、当たってましたわね」
「どれのことよ」
「霊薬の『品質』を高めるのには時間がかかる、というあれですわ」
「ああ、はいはい。再試まで三日じゃ間に合わないって話ね」
「あのとき話していた、霊薬の『品質』や『深さ』。今なら何のことか分かりますわ」
「そうね。大黒さま、弁天涙の『深さ』を褒めてたよね。おじさまくらいの生き方してないと、ああいうのはつくれないんだろうね」
「ええ。知ること、ですわね」
「遠いね」
「遠いですわ。でもね、銀子。ご存知かしら。あなた、皆に思われてますのよ」
「知ってるわよ。そういうあんたこそ分かってる? 皆あんたのこと思ってるのよ」
「知ってますわ。でも、知っているのは、知っている人のことだけ」
「思えるのは己が知ることのみってね」
「より多くの人を思い、より多くの人に思われていることを知り、より多くを思う、ですわ」
手が熱くなってきたのは囲炉裏の火のせいだろうか。
いや、それだけではない。
「銀子」
「紫乃」
天狗のひげがぼんやり輝き始めている。
「一人より二人ですわね」
焙烙から溢れる光を受けて、紫乃の目許がきらきら輝いている。
「紫乃。ここまでつきあってくれてありがとう」
「急に改まって、どうしましたの」
「あんたが辛いとき、あたしは絶対そばにいるからね」
紫乃は顔を俯かせ、蓮華から滴る夕露のような呟きを漏らした。
「うん」
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