第十章 万象丹
01.
まだ青さよりも黒さが勝るくらいの朝早く、あたしたちは白金兄さまに『流星丸』を託した。
「銀子、紫乃。できたのかい」
寝室から出てきた兄さまは、甚平姿でいつも通り雲が融けたような笑みを浮かべていた。
ずっと寝ていたのか、まんじりともしなかったのか、昨晩梅鶴おじさまたちが訪ねてきていたことを知っているのか、知らずにいるのか、まるで分からなかった。
「はい。『流星丸』、ありったけです」
あたしと紫乃は、朝までかけてあるだけの天狗のひげ全てを調薬した。
『万象丹』の調薬でどれだけ入り用になるか分からない。
念には念を入れる必要がある。
あたしの差しだした木箱を、白金兄さまが覗き込む。
星々は、地上のくすんだ木箱の内にあってすらなお眩い。
夜空よりばら撒けばさぞ美しかろう。
兄さまは目を細め「よく頑張ったね」とあたしたちの頭を撫でた。
「名代としての御役目は果たしました。龍神庵の一切をお返しします」
「任された。三十三世龍神庵、一世一代の大勝負だ」
兄さまは空っぽの神棚を拝んだ。
そこにあるべき蒲の穂鉾は今大黒さまの御手にある。
兄さまの拍手は、いつもより澄んだ音がした。
あたしと紫乃は龍神庵を出て中津宮へと向かった。
『万象丹』の調薬をするときには呼んでくれと、慈風坊さまから言いつけられていたからだ。
空には雲ひとつなく、参道には人かげひとつない。
涼やかな参道に満ちた酸素が、重い脳みそと固まった筋肉に染み渡る。
中津宮に着く手前で、金子姉さまと数之進に行き会った。
「親父殿から聞いた」
と数之進は頭をかいた。
「まあ、その、なんだ。おまえたちはすごいな」
「お褒めに与り光栄ですわ」
紫乃はにっこり笑って会釈を返した。
「おまえにはかなわん」
数之進はため息を吐いて紫乃の頭をぽんぽんと叩いた。
「金子さまは、その……」
「俺がついているのだ。もちろんできたさ」
数之進は薬瓶を紫乃の顔の前で振った。
その中には弁天涙が入っているはずだ。
さすがは金子姉さま。
姉さまもまた、白金兄さまと並ぶだけの天賦の才を受け『夢見の金子』と称される霊薬師である。
その姉さまは、いつものようにあたしを抱きすくめたりはしなかった。
「銀ちゃん、本当はお出かけ禁止だったのになあ。昨日は言いそびれちゃった」
「ごめんなさい」
代わりに、あたしの頬にそっと手を当てた。
「ううん。言いたかっただけなの。銀ちゃんはもう自分で決められるもんね。もう大丈夫だよね」
その浮かべる笑顔はいつもと同じ形に見えたが、それでも何かが違った。
そこだけ現実から浮いているような、茫漠と光を帯びているような、そんないつもの笑顔とは違う。
あたしに触れるその手も、浮かべる笑みも、地に着けた足の上にあった。
「じゃあ、先に行ってるね」
そう言い残し、金子姉さまと数之進は参道を龍神庵へと進んでいった。
いつものように抱きすくめてほしかった。
いつものようにぼんやりと笑ってほしかった。
いつものように数之進と猿芝居を繰り広げてほしかった。
姉さまは夢見る少女を止めてしまったのか。
それか。
もしかしたら、変わってしまったのはあたしの方なのかもしれなかった。
中津宮に着いてみると、慈風坊さまと飯綱さまは向拝の下で階段に腰をお掛けになっていた。
こちらに気づかれた慈風坊さまは、賽銭箱を馬跳びで越え、あたしたちの方へと早足でいらっしゃった。
「やあ、待っていたよ。実はね、昨日あの後になっていいことを思い出したんだ。お師匠の話はよく聞いておくものだね。準備のためあっちへこっちへ飛び回っていたら、あっという間にもう朝だ。『万象丹』の準備はできてるんだろう? さあ、早く行こうじゃないか!」
静謐な境内に慈風坊さまのご機嫌なお声が響きわたる。
神社の厳かな空気を御自ら吹き飛ばしになる神さまに促され、あたしたちは龍神庵へと向かった。
道中「『いいこと』とは何でしょう。準備とは?」とお尋ねすると、慈風坊さまは「ひ・み・つ」と裏声で指をお振りになった。
慈風坊さまと飯綱さまとを薬房にご案内申し上げたところで、いよいよ気力と体力の限界が目に見えた。
目蓋に漬物石をぶら下げたあたしたちは、お互いの頬を抓りながら寝室まで行き、お互いの頭を引っ叩きながら布団を出した。
そこから先は記憶がない。
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