05.
二人を見送ってから庭に戻ると、紫乃は「少々お花を摘みに」と小走りに家の中へ入っていった。
残されたあたしは縁側に腰かけて庭の空気を吸った。
すぐに作業に戻ろうという気になれない。
足をぶらぶら振っていると、草履が片方ずつ足から滑り落ちた。
仰向けに寝転ぶと、見上げた夜空は、雲ひとつないにも関わらず、庭の草むらよりもなお暗かった。
今夜は新月だ。
新月は、言い換えれば朔月。
朔龍湯の調薬にはうってつけの日だ。
ふと夕方のことを思い出す。
紫乃に調薬を任せて薬房の片づけをしているとき、あたしは見つけてしまった。
薬種棚には、先日あたしが採取した龍涎香がまだ残っていた。
今朝、白金兄さまは『龍涎香は全部使ってしまった』と言っていた。
『だから今わたしはすることがない』と。
嘘だった。
朔龍湯を煎じるならば、朔月たる今夜にこそ調薬を行うべきである。
白金兄さまも当然承知している。
しかし、兄さまは嘘を吐いた。
何のためか。
決まっている。
あたしに薬房を使わせるためだ。
あたしに『流星丸』を調薬させるため、霊薬をつくらせるため、秘訣を得る機会を与えるためだ。
不意に、木戸の開く音がした。
跳ねるように起き上がると、庭には千里おばさまがいた。
「どうしたの? 忘れ物?」
「そんなとこだね。ちょいと話しときたいことがある。紫乃は?」
「お花摘みだって。顔でも洗ってるんじゃない?」
「そうかい」
「話って?」
「そう急かしなさんな。わたしだってどう話したもんか、迷うことだってあらあね」
「ふうん」
おばさまはあたしの隣に腰かけ、空を仰いで「静かな夜だね」と呟いた。
「なあ、銀子。お願いだから、うちの人をあんまし恨まないでやっておくれ」
「おじさまを? 別にあたし、恨んでなんかないけど」
「そうかい?」
とおばさまは小さく笑った。
「普通、あんなふうに言われたら恨みだってするだろうに」
「才能がないって? でも、事実だし。寧ろはっきり言ってもらって感謝してるわ。おじさまは秘訣を教えてくれたし。道を開いてくれたんだから」
「銀子、あんた形は小さくっても器量は立派だよ」
「そんな褒められると気持ち悪いんだけど」
おばさまは「あはは」と口を開けて笑い、一旦言葉を切った。
庭の虫の音が耳に入る。
「あの人はね」
おばさまは、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいった。
「あの人、梅鶴はね、とにかく才能に恵まれなかった。梅鶴が霊薬の秘訣を得たのは、三十を過ぎてからだった。それもね、自分で悟ったんじゃないよ。わたしが教えたんだ。さっきあの人があんたたちにそうしたようにね」
「そうなんだ。知らなかった」
「まあ、自分からは言わないし、わたしらだって言いはしないさね。……数之進がまだ九つの頃だった。あの子は『弁天涙』の調薬に成功した。まだ秘訣は得ていなかったから、一回こっきりだったけどね。兆しを見せたんだ。それがあの人を駆り立てた。いや、違うね。追い詰めたんだ。そして梅鶴はわたしに乞うたんだ。秘訣を教えてくれとね」
「……自分から」
「そうだよ。三十を超えるまで諦めなかったあの人がね、自分から言いだしたんだ。梅鶴にはね、ずっと憧れてる人があった。二つ年上の幼なじみで、天賦の才を持った霊薬師だった。銀子。あんたの母さんだ」
……母さま。
「綺麗な人だったよ。あんたみたいな黒い髪をしてた」
おばさまは、そっとあたしの髪を撫でた。
「梅鶴はね、ずっとあんたの母さんを追いかけてた。逸早く秘訣を得たあんたの母さんに追いつきたいと、梅鶴はずっと諦めなかった。矜持であり、意地だ。当主としてのね。そうするうちに二十を数え、子も生し、その子に追い越されちまったんだ」
「じゃあ、おじさまが秘訣を得るまではどうしてたの?」
先代の弁天楼、梅鶴おじさまのお父上は二十年も前に亡くなったと聞いている。
「お婆さまが弁天涙を調薬してたの?」
「違うよ。お義母さまはね、霊薬師じゃないんだ。霊薬以外の薬は調薬するけどね。霊薬だけはつくらない。だからね、ずっとわたしがやってたんだよ。弁天楼千里をなめんじゃないよ。わたしが嫁入りしたのは二十歳になってからだけどね、その前からずっとわたしが弁天涙をつくってたんだ。家を出て、内弟子になったのが十二の頃だったかね。わたしはすぐに秘訣を得た。それからずっとだ。ずっとわたしが霊薬をつくってきた」
おばさまは顔の前に手を掲げて目を細めた。
「おかげでこんなになっちまった」
「綺麗な手だと思うけど」
「ありがとね。でも、そうじゃないんだ」
と、おばさまは小さく首を振った。
「霊薬つくりは命を削る。あんたもやれば分かる。霊薬を調薬してるとね、体を巡ってたもんが手から出て行くんだ。すう、っとね。思いを注ぐってのはそういうことさ。先代の弁天楼、お義父さまは孫の顔を見られなかった。あんたの母さんは最期まで綺麗だった。天才ほど早く逝っちまう。不思議に思ったことはなかったかい? 谷川屋が店を出したのは三百年前だ。なのに今、弁天楼は二十八代目、龍神庵なんて三十三代目だ。どういうことか、銀子なら分かるだろうね?」
単純な計算だ。
今まで気づかなかった自分に嫌気がさすくらい、簡単な算数の問題だ。
代々の当主は、襲名から十年そこらで次の代に当主の座を譲っている。
「……おばさまは、病弱なんだと思ってた」
「わたしは頑丈な質だよ。風邪より重い病なんか生まれてこの方罹ったことがなかったくらいだ。今この身を蝕んでるのが、ある意味初めて出会う大病だよ」
千里おばさまは、あたしの肩を抱き寄せた。
「然しもの天才、弁天楼千里も老衰にはかなわないね」
あたしは、おばさまの着物の裾を握りしめた。
「あの人は、梅鶴はずっと背負ってるんだ。わたしの天寿と自分の矜持を秤にかけたその罪の意識を、ずっと背負ってる。ずっとだ。これまでも、これからもね。あの人は、今の当主で、あんたたちの代の親だからね。何もかもを背負っちまうんだ。白金が失格の烙印を押されたことも、泥をかぶったことも、金子が地に頭をつけようとしたことも、あんたたちに霊薬の秘訣を教えたことも、何もかもをね、梅鶴は背負ってる。全ては親心だ。だからって許せとは言えないけどね、せめて、恨まずにおいてやっとくれ」
「あたし、恨んでなんかないってば」
「……そうだったね」
身を離したおばさまは、あたしの顔を見て笑った。
ああ、そうか。
おばさまは、あたしにだけ話しているわけではなかったのだ。
もうずっと戻ってこない紫乃。
おばさまは、あたしだけではなく、紫乃にも語りかけていたのだ。
「おまえたちは聞いたことないだろうけどね、金子はいつからかこう言うようになった。『長生きしたい。せめて銀子が大人になるまでは。せめて子どもが大人になるまでは』ってね。そして金子は霊薬の調薬をやめた。子は親の背中をみて育つとはよくいったもんだ」
そうだ。
金子姉さまは霊薬の調薬をしようとしない。
せっかく才能を持っているのにと、あたしはいつも歯痒く思っていた。
姉さまが霊薬を遠ざけたのはいつからだったか。
確か、三年ほど前。
母さまが海に還った頃からだ。
「その金子が、自分から弁天涙の調薬方を教えてくれと言い出すなんてね。悲しんでいいやら、喜んでいいやら」
おばさまは口許だけで笑った。
「さて。銀子。長々と邪魔したね。ただ、わたしは無駄話をしたとは思ってないよ。これっぽちもね」
千里おばさまは縁側から立ち上がり、裾を軽く払った。
「あんたたちはもっと知らなくちゃいけない。覚えときな。思えるのは己が知ることのみだよ」
おばさまは、梅鶴おじさまの言い残していった言葉を繰り返した。
「銀子。後を任せていいかい」
あたしは、頭を掻きながら斜め後ろに目を遣った。
縁側が折れ曲がる角から、ちらりとスカートが覗いている。
「……ここ最近、いろいろあり過ぎたし、いろいろ言われて、もうなにがなんだか分かんない。この先自分がどうしたいとか、どうなりたいとかも全然分かんない」
風も無いのにスカートがはためいた。
あたしは正面へ向き直り、おばさまの顔を見据えて言い切った。
「でも、今自分たちが何を頑張るかだけは、分かってる」
千里おばさまは闇夜に浮かぶ白百合のように微笑んだ。
「あんたたちの代の親として、心の底から誇りに思うよ」
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