02.

 何とも周到なことに、紫乃はあたしを起こす前からもうお湯を沸かしていたし、着替えの浴衣も用意していた。

 あたしが昨日脱ぎ散らかしたしわくちゃ泥まみれの振り袖と帯を「これ、洗濯しちゃっていいのかな」と手渡すと、紫乃は悲鳴を上げた。


 面倒なことになりそうだったので、あたしはそのまま風呂場に逃げ込んだ。

 熱い湯を浴びると、体中がほぐれて目が覚めた。

 風呂は偉大だ。

 地獄に落ちた亡者だって一風呂浴びれば生き返るに決まってる。


 風呂からあがると、脱衣場にはふくふくのバスタオルとドライヤーが置いてあった。

 バスタオルの下には付箋が置いてあり、そこには『振り袖は後でお母さまにお見せすること』と震えた字で書かれていた。

 見なかったことにした。


 髪を乾かして書庫に戻ると、紫乃は床に積まれた書物をぱらぱらとめくっていた。


「お湯加減、よかったでしょう?」


「まあね。生き返ったわ。気分爽快」

 至れり尽くせりだった。

 付箋のことを除けば。


 あたしが書物の渉猟を再開すると、さりげない調子で紫乃が尋ねてきた。


「今は、何をしていますの?」


「んー? 探しもの」

 古い紙をめくる音が部屋に響く。


「それは見ればわかりますわ」


「んー」


 説明するのが難しい。

 紫乃が薬について何を知っていて何を知らないのかわからない。

 だから、するとしたら一から説明するしかないわけだが、時間に余裕はない。


 ちらりと紫乃の表情を盗み見る。

 真っ直ぐあたしへと向けた顔からは、あたしたちのことを心配する気遣いと、自分は何も知らされないのか、何も求められないのか、といった疎外感が見てとれた。


 そのくらいはいとも容易く読み取れる。

 あたしも同じことを思っているからだ。


 紫乃に聞こえないよう小さくため息を吐き、それから書棚を見渡す。

 まだまだ目を通すべき書物はごまんとある。

 紫乃にも手伝ってもらうとするか。

 するとしたら、あたしが何を考え、何を探しているのかは、一からしっかりと説明せねばなるまい。


「昨日さ、大黒さま、兄さまの朔龍湯について何て言ってたか覚えてる?」


「たしか『深さが足りない』と、そうおっしゃってましたわね」


「うん。その前に『これは紛れもなく霊薬だ』とも言ってたわ」


「それが?」


「兄さまの調薬した朔龍湯、方向性は間違ってなかったんだと思う。兄さまは、正しい調薬方に則って、正しい霊薬をつくっていた。だけどその出来が……いまいちだった」


 紫乃から反応はない。

 何も言いたくないが、何も言えない。

 認める言葉は口にしたくないが、否定の言葉は口にできない。

 つまりは同意だ。


「正直、状況はかなりまずいんだと思う」


「そうですの? 方向性が間違っていないのなら、後は質を高めるだけでしょうに」


「たった三日で?」


「……」

 紫乃が言葉を詰まらせる。


「潜在的な品質は高いけれど方向性が違っているっていうんだったらまだ救いがあったかもね。例えば、調薬方の読み取り方が間違っているとか、調薬方自体に誤りがあったとかね。もしそうだったなら、方向性を正しさえすればすぐにでも合格点に達する可能性があるでしょ。でも、問題が品質だとしたら、そうはいかないわ。大黒さまは、梅鶴おじさまの天女涙を評してこう言った。『年月を重ねるごとに腕と心とに磨きをかけている。今後も変わらず精進しろ』と」


「なるほど。お父さまは既にベテラン。それでもなお伸びしろを残している。それほどまでに、」


「そう、霊薬の品質を高めるのには時間がかかる」


「……白金さまは、三日で何をしようとしていらっしゃるのかしら」


「わからない」

 あたしは頭を振った。


「でも、もし兄さまが品質向上を図っているのだとしたら」


「……」


「兄さまの試みは、間に合わない」


 大黒さまは白金兄さまにおっしゃった。

 『時は永くそちは若い。

 五年後にまた挑めばよい』と。


 千里おばさまは言った。

 『男には意地がある。見て見ぬふりをするのが女の器量だ』と。


 大人たちは知っている。

 そして許している。

 白金兄さまが無謀な意地を張ることを。

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