第四章 味醂

01.

「……子、銀子!」


 近くて遠い、霧のカーテン一枚を隔てた向こうから、聞き慣れた呼び声がする。


「銀子! 仕方ありませんわね」


 霧が濃くなり、結露した水滴が水かさを増していき、口と鼻が沈んで……。


「んあっ!」

 息苦しさに跳ね起きると、あたしの顔から五、六個の洗濯ばさみが弾け飛んだ。

 すぐ脇には紫乃がいて「おはようございます」と笑顔を浮かべている。


「この喧嘩買った!」


 洗濯ばさみを武器とする際には、つけるときより取るときのほうが痛いという鉄則を忘れてはならない。

 あたしは紫乃のほっぺたに洗濯ばさみをつけては弾き飛ばし、つけては弾き飛ばしと攻勢にでた。


 紫乃は負けじと洗濯ばさみをあたしの鼻の穴に突っこんできた。

 しかし、それは洗濯ばさみの本分ではない。

 紫乃には美学がない。

 寝起きといえどもそんな相手にこのあたしが負ける由がない。


 戦闘時間はおよそ五分。

 ほっぺたを真っ赤にした紫乃が涙目で休戦協定を提案してきたので、あたしは無条件で応じることにした。

 もう十分に目は覚めた。

 これ以上はさすがに時間の無駄だ。


 時計を見ると、時刻は九時。

 明け方までは記憶があるが、いつのまにやら寝入ってしまっていたらしい。


 昨日の大黒審判の後、あたしは龍神庵の書庫で一人書物を紐解き続けていた。

 調べ物で徹夜するのも初めてなら、床で雑魚寝するのも初めてだ。

 関節はずしんと重いし、骨はじくじく染みるように痛いし、筋肉はぴきりと張っている。


 書庫の広さはおそよ八畳。

 壁一面に書棚がびっしりと並んでいるが、今その中身は半分くらい床の上に積まれている。

 昨晩からこちら、書かれているとしたらこれかとくさいものから順繰りにぱらぱらと急ぎめくってきたが、未だに当たりをつかめずにいる。


「で、どうしたのよ。わざわざ龍神庵に来るなんて」

 紫乃に問いかけながら、腰と肩をぐるぐると回してほぐす。


「どうしたはこちらの台詞ですわ。音沙汰なしでは皆心配するに決まっているでしょう」

 ほっぺたをさすりながら、紫乃は不機嫌な声で答えた。


「ごめん」


 正面から素直に謝ると、紫乃は目を丸くし、それから顔を逸らした。


「……白金さまはいかがしていらっしゃいますの?」


「わかんない。昨夜から薬房にこもりっきりなんじゃないかな。あたしもずっと書庫にいたから、確かなことは言えないけど」


「そうですの」

 紫乃は書庫の壁を見つめている。


 その壁の向こうには土間があり、そのまた向こうに薬房がある。

 ここからでは視線も思いも届かない。


「昨日、紫乃がいなくなった後、おばさまが言ってたよ。『男には意地がある。見て見ぬふりをするのが女の器量だ』ってさ」


「お母さまらしいですわ」

 紫乃は小さく笑った。


 それから肩にかかった髪をかきあげ、あたしのほうへと向き直ると、胸の前でぱちんと手を打った。


「さ! ともかく、ひとっ風呂浴びていらっしゃい! あなた、酷い顔してますわよ!」

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