第61話 尋常でない幕切れ

 翌朝、響子が目をますと鏡台の前で化粧をしている沙織に「朝起きて私がいるのでびっくりしたんじゃない」と言った。

「娘さんの彩香ちゃんがあたしにこっそりとごめんなさいって変なメールを寄越して解ったから別に驚かなかったけれどそれより良く此の部屋にはいれたものね」

 鏡の前で髪をブラッシングしながら答えた。

「主人が開けてくれたわ」

「うそ、決着つけようとしたけれどすっぽかされたのよ」

「それって直ぐ帰ったってこと?」

「それが夕べの事は良く覚えてないの、それより早く身支度したら」

「そうなの」

 と響子は素っ気なく、そうするわと言ってベッドから起き上がった。そして身なりを整えながらも、昨夜春樹から沙織は可怪おかしいと聞かされて、何処が変なのか観察した。

 沙織は尚も鏡台前に座り髪を整えていた。

「本当に昨夜は誰か来たの?」

「夕べ来たことは来たけれど誰だったか良く覚えてないのよ」

「また酔いつぶれたの」

 と云う響子に沙織は苦笑いをした。

「そんなあばずれ女と一緒にしないでよ、あなた、あたしの事は良く知ってるはずよ」

 今さら何よと響子は無視した。

「沙織、覚えてる? 主人が持ってた『磯川信之』の名刺を頼りに尋ねた日を」

「あの日は驚いた。彼でなくあなたが来たからまさに想定外。それともうひとつ、春樹が云ったお悔やみにはありがとうって言っておくわ」

「それって皮肉。まあいいわ主人を呼ぶわいいでしょう」

 返事も待たずに響子は内線を掛けて直ぐ来てとだけ告げたが、何度も繰り返したところから春樹が渋っている様子が分かった。

「来たくなさそうなのになぜ呼ぶの、今さら」

「そう今さらなの」

 響子は屹度して沙織を見据えた。

「そんな目で見ないで、あの人は玄関で帰ったのよ」

「憶えているの? じゃあ今さらどっちでも同じことよ」

 ドアを叩く音にいつまで叩くのと響子がじれったそうにどうぞの後に「入ってきてよ!」とさもかすように付け加えた。

「随分と顔色が良くないのね法廷に呼ばれた被告人みたいに」

 春樹に響子がそう言ってから、沙織との間にある席を指定したが、なぜここなのと否定する夫に、いいから座ってとかせてから沙織をまともに見据えた。

「ここへ主人を呼んだ理由わけをご存知ね」

「知らないわ !」

 見下すように冷めた目で沙織は答えた。

「知らないですって! よくもそんなしらじらしい事が言えるわね!」

 ここで心を乱しては相手のペースだと思い、響子は気持ちを静める為に間を置いた。

「まあいいわ。あなたが誘った此の旅行についての答えを出してよ」

「もう旅は今日で終わって何もなかったそれで良いでしょう、だからもう賞味期限切れなのよ」

「何言ってるの! もう話にならない。あなた帰りましょう」

 一緒に席を立とうとする春樹を見て沙織は「行ってしまうの」と慌てて立ち上がった。 

 響子の後に続こうとする春樹に「待って行ってしまうの」と云う悲しみの声に立ち止まり、さっきまで勝ち誇った顔が嘘のように引いてゆく沙織の、さっきと違った瞳を春樹はじっと見詰めた。それは輝きが失せてどこか手の届かない遠い世界を見詰める瞳だ。そしてそれは昨夜バスルームから出た時に、迎えてくれたあの沙織の瞳でもあった。

 ドアのノブに手を掛けたところで振り返った響子は、一歩も動いていない、それどころか沙織と向かい合う春樹に驚いた。

「あなた何してるの」

 春樹は尚も立ち尽くしている。

 次第に沙織の眼が潤んでゆく。

 彼女の正常だった記憶がゆがみだした。

 こうあってほしい、いやこうあるべきだと勝手に記憶を書き換え始めたのだ。

 幸福に満ちた過去の特定の記憶が呼びまされて、眼前に現れる現象が途切れ途切れに過去と現在を往来する。

 思い出したい記憶と忘れたい記憶の整理がつかなくなり、正常に戻そうとする神経が脳内で活発に活動すると別の神経が異常に高ぶり、痙攣けいれんと発作を引き起こしてゆく。そんな沙織に向かって春樹が歩き出すと響子は悲鳴に似た声を上げて「待って! 待ってよ、何処へゆくの?」と叫んだ。

 突然、沙織が近付いた春樹に飛びつくとその胸元で泣き崩れた。

 響子は次に信じられない言葉を耳にした。

「戻って来てくれたのね信之」

沙織は顔を起こして春樹を見上げると。

「何か言って」

 と掴んだ両腕を激しく動かした。

「なんで死んだみたいに黙ってるの」

 そう言ってから急に別人を見るように沙織は、一歩後ろへると両手が微かに痙攣けいれんを起こした。そして痙攣は頬に伝わり、瞳は宙に浮き、やがて痙攣の止まった頬が硬直するとその場に崩れ落ちた。


 気を失った沙織はそのまま長野市内の病院に収容された。連絡を受けて迎えに来た沙織の弟に看病を任せた。彼女は弟にも信之と言って甘えていた。

 その光景に春樹は絶対に踏み込んではならない彼女の花園だった心の聖域を、荒野に替えてしまったのかと悶々する。いや、彼女が新たに求めて、いつかそこに再び戻ることを夢見ていた花園を捨てたのだ。

 長野で診察を終えた神経外科医は、彼女を前にして単なる記憶障害に過ぎないから直ぐに回復するだろうと春樹に伝えた。側で聴いた響子は彼女の夫、信之との恋が最後だと認識すればと応えた。

 それは医者の説明を待つまでもなく昔の沙織の言動を重ねると容易に想像が付いた。

 普段は正常な彼女の記憶だが、稀に特定の記憶を呼び覚ます現象が眼前に現れると神経に異常をきたし、痙攣と発作を起こして意識が途切れ途切れになってしまう。

 確実に言えるのは半年前の夫の死が、精神的にかなり影響していることは事実で、春樹とはもう会わない方が良いと付け加えた。それでもまた会えばもう軽い発作では済まない、重い脳梗塞を併発して脳内出血で死に至らしめる。もしも、もしも仮に治っても人の分別も付けられない廃人になると告げられた。それを聴いて、春樹は「それでもあの人は信之に代わる人を見付ければまた恋をするだろう」と響子と共に病院を後にした。


                           完 

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