第60話 響子来る
因果応報! この言葉だけが勝手に頭の中を一人歩きしてゆく。
「あなた半年もどこへ行ってたんです、もうどこにも行かないわね」
「ああもうずっと君の傍にいる」
春樹はやっと話の辻褄を合わせた。
嘘じゃないわよねと沙織は安心して幼子のように甘えた。嘘と云えばもうひとつあなたに説明しておきたいの、でも今は言えない、どうしてって? あなたきっと怒るから。どうしても知りたいの? 彼女はまるで人間界からひとつ高められた天使のようにウフフと笑って見せた。
次に話された言葉は異次元と現実の境から聞こえて来た。
『別な人と信州へ行ってしまったの。でも何もないから心配しないでこうしてまた戻ってきてるでしょう』
遠い昔のあの決裂の一コマの時も、沙織は今と似たよう事を言っていた。そして夢とも現実ともつかぬ彼女の想い出に
『なぜ黙ってるの、怒ったの? ……。ねえ何か言って』
と春樹の胸を叩き始めると涙声で連呼し始めた。
この人は狂ってる、いつから? なぜ? どうして? だがこれは俺がいつか見た沙織の”あの別れのシーン”と重複する。だがこの現実を受け止める者は誰もいない。自分が信之を演じるしかないのか……。
心配しなくていいと抱きとめると、彼女は彼の胸の中でずっとただ泣き続けるばかりだったがそのうち静かになった。そっと彼女の顔を起こしてみると疲れたのか、穏やかな寝顔になっていた。暫く童女のような寝顔を見ながらずっと抱きかかえた。
どれぐらいだろうか部屋を激しく叩く音に身構えた。彼女をベッドに寝かすとそっとドアまで忍び寄って、ドアノブを握り締めながらそば耳を立てた。響子の声が聞こえて慌ててドアを開けた。
「どうして此処へ」と云う驚きの春樹の言葉に、響子は彼の目を鋭く捉えた。そして部屋に入ると、仄暗い部屋の中で奥の気配に目配せした。
「彩香がメールを寄越したのよちょっとお父さんが
そう言いながら響子は彩香からのメールを見せた。
『お父さんが大変引き留めに来て』
此の彩香のメールは何かちょっと
「此のメールはいつ」
「昼過ぎの二時頃かしら、着信して彩香が変だと思って飛び出してきたの。これどう云うこと、なぜ一緒にいるの?」
問いながらも響子は答えを求めていない。ただ時を惜しんで状況を掴もうとしていた。
「それよりこの人ぼくを信之だと思っている」
「誰? ああ半年前に亡くなったご主人ね」
二人は足音を忍ばせて沙織の傍に寄った。響子はライバルの寝顔をしみじみと眺めた。
「どう云うこと? 益々解らない。なぜ寝てるの。きっといい夢でも見ているのね、その信之さんとやらの。……とにかくあなたは自分の部屋に戻って、あたしが朝まで面倒みるから」
響子は以前の沙織しか知らない。見たこともない他人のようにさっきまでの相手の存在を全く無視する心の病んだ彼女を知らないのだ。
「一人で大丈夫? 彼女、人の見分けがつかないかも知れないから起きたらわめき散らして君一人じゃ対処できないかもしれない」
「言ってる意味が判らないけど、この人そんな人じゃないから」
彼女が新たな発作でも起きない限り見分けられない、だがむやみに危害を加えることはないだろう。
「でも騒ぎが大きくなればホテルの予約者には君の名前は載ってないよ
「大げさねとにかく朝起きて此の人と何もなければいいんでしょう」
押し問答の末に此処に三人居れば、話がまとまらないと考えた響子は、何かあれば部屋へ電話すると彼を追い出した。
部屋を追い出された春樹は「あんなメールを響子に送るなんて」と出ると直ぐに、
「ゴメンナサイ、でも部屋へ帰ってから沙織お姉さんには母が来るかも知れないけれどとメールで謝ったの」
「いつだッ」
「あの後で部屋へ戻って夕子とどうなっているのか心配になって、それで誤解のないように沙織お姉さんにメールを送った。それでお父さんは部屋へ行ったの?」
それじゃあ俺が風呂へ入ってる時に見たのか、それともバーで呑んでる時かどっちにせよしゃあない娘だ。
「嗚呼、でも誤解のないように部屋で話していただけだ」
「信じていいのね」
「バッカだなあー、決まってるだろう」
春樹は響子が公言はしないと判りきって言い切った。
「ほんとに?」
「だからお母さんが今来てるから」
「エッ」
ちょっと夕子と何か話しているようだったが、無視して良く聞こえるように声を張り上げた。
「だからもう心配しないで寝ていろッ」
判ったと彩香は心なしか気落ちしていたが、春樹はそれ以上に落ち込んでいた。
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