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「君……今の話し方はもしかして……」

「勿論、祥ちゃんの真似やけど」

「――そんな話し方かな?」

「えー? 結構似てると思うけどなあ」

 不満げな東雲の顔を見てくすくすと笑う千葉は橋の欄干に両肘をついて事の結末を見守っていた。千葉の視線の先には今し方通信をしていた若い警察官の姿があり、強盗犯が転がっている場所に通じる路地へちょうど入ろうとしているところだった。

 千葉は強盗犯が意識を失っている街灯に綿奈部から譲り受けた粘着式の小型カメラを仕掛けていた。意識を取り戻して逃げられたとしても即座に東雲と千葉が対応できるように橋の上で待機していた。カメラの映像には警察官が強盗犯に近づいている様子が映し出されており、万が一の逃亡というシチュエーションも杞憂に終わりそうだった。

 東雲も千葉と同じように欄干に身を預け、警察官が入っていった路地へ目を向ける。

「まさかこんな風に僕の休日を捥ぎ取ることになるとはね」

「目撃者を出さんかったら祥ちゃんが警察署に行く必要もなくなるやろ?」

「それは――」

 事のあらましとしてはこうだ。まずは自分たちの正体が相手にバレないように犯人の身柄を確保し、その後秘匿回線にて警察官を誘導する――東雲のナノマシンデバイスによって出現した鎖で犯人の足止めを行い、千葉がどこからともなく取り出した黒い布で強盗の視界を奪うとそのまま首を絞めにかかる。武器と自由を奪いそのまま意識を失わせ、被疑者追跡中の警察官へ通信を行った。若い警察官への通信はあくまで善意の通報である上、念入りに仕組まれた回線によって千葉の身元を辿ることは叶わないため、あまり問題にされづらいだろうという判断だった。

 千葉の言葉に完全同意することはできなかったが、千葉の提案に乗ったのは紛れもなく東雲自身であった。そもそも千葉が提案していなければ到底受け入れ難いような力づくで無茶な作戦であったし、もし失敗していれば署内での立場が少しだけ危うくなっていたかもしれない。

 東雲は同意も否定もしないまま、ジャケットから電子煙管のケースを取り出し、カートリッジを煙管の先に着いている火皿へ嵌めると吸い口を唇で挟み込んだ。昼過ぎに自宅で過ごして以来の喫煙だった。バーでも結局、千葉と共に接客をしたり、カクテルを楽しんだりするのに終始し、タバコを味わうことはできていなかった。鼻を通り抜ける華やかな香りと口内と肺に充満する煙の甘みは、どれだけ小さな山場であれ、労働の後という条件が加わるだけで味わいが別のもののように感じる。

 若い警察官が無事に強盗犯を助け起こし、強盗犯も大人しく従っている様子が小型カメラに映し出されていた。強盗犯にとってみれば目の前の警察官が己を捕えたのか、それとも別の人物が昏倒させてきたのか判断がつかないはずで、無駄に抵抗をすれば次は命の危機に陥るかもしれない――そんな考えに至っていても不思議はなかった。

 煙をゆっくりと吸いながら、ホロ映像を遮断する。これ以上監視をする必要性を感じられなかったためだ。東雲は煙の香りに集中するため、黒く揺蕩う川の水面を眺めようとした。しかし、隣で男がワタワタと慌てているのを感じ取り、視線だけをそちらへ向けた。千葉はありとあらゆるポケットをひっくり返し、何かを探している。

「千葉くん、どうしたんだい」

「いやあ……タバコ、持ってきたと思ったんやけど」

「ああ――君、出発直前に吸っていたから、カウンターに置き忘れてきたんじゃないかな」

「うっわ、絶対それやわ」

 千葉は目に見えてガックリと肩を落とし、不貞腐れた表情で欄干に凭れ掛かった。

 生温いような、川の上にいるために冷たいような、そういう風が橋の上を流れており、ふたりの頬を撫でる。暗く静かな夜、心地よい風だけが命を感じさせるような時間帯。そんな空気感で吸いこむ煙は特別なものだ。どんな仕事や心配事にも追われず、僕たちだけしかいない世界でただこの時間を味わっていく――それを享受できない千葉を少しだけ哀れに思った。

「君」

 東雲はそよぐ風の中へ煙をゆっくり吐き出すと、煙管を持っている手をそのまま隣の男へ差し向けた。闇夜にも光を放っているのではないかと思えるほど麗しい容貌の男が、項垂れている男へただひたすらにその視線を向けていた。愛おしいという感情すら感じられるほどの穏やかな目つきだ。

 呼びかけられた千葉も頭を上げると欄干に頬杖をついて東雲を無表情に見つめ返す。男の無表情は普段よりもさらに千葉の男性らしさを感じさせる。彫りの深い端正な顔立ちにギラついた光を放つ美しい瞳。煙管と東雲の目へ交互に視線を動かすと、やがて破顔し、いつもの調子で口を開く。

「……祥ちゃん、俺と間接キスしたいん?」

「君が望むなら」

「口説いてる……?」

「まさか……君も吸いたいだろうと思って。今夜は格別に美味しいよ」

 東雲の言葉に千葉は小さく頷き、差し出された煙管を慎重に受け取った。煙管を橋の照明に輝かせながら、吸い口を柔らかく咥え込むと目を軽く伏せてそっと煙を吸い込む。作ったような笑顔ではない、自ずと花開くような微笑みで千葉は頬を緩ませて東雲と同じようにそよ風の中へ煙をゆっくりと吐き出した。長い睫毛を瞬かせ、千葉は煙の行末を見つめていた。

「……君は本当になんでも美味しそうに味わうね」

「なんでもってことはない……祥ちゃんの言う通り、『今夜は格別に』美味いんやと思う」

「それはよかった」

「たまには間接キスもしてみるもんやな」

 満たされた表情で煙管の吸い口を何度も唇へ運ぶ千葉。大人の男の顔に浮かぶ、娯楽を無邪気に楽しむ微笑み。それを見た東雲の心は既に十分に満たされていたはずなのに、再びさらなる充実感で満ちていく。

「今日はえらい忙しかったけど、終わりよければなんとやら、やな」

「何を言ってるんだい、千葉くん。夜はまだまだこれからさ……付き合ってくれるんだろう?」

「――大酒食らいにいざ挑戦、やな」

 カートリッジの残量がゼロになり煙管が振動する。千葉は煙管を返して手の甲で優しくポンッと叩くと、カートリッジを橋の下へ捨てた。ポケットから取り出したハンカチで吸い口を拭うと丁寧な手つきで東雲へ煙管を返却する。千葉の顔を見れば、生意気な少年の顔つきでニヤリと笑顔を作っているのがわかった。

 ――ゲームしよう、勝負しよう。

 千葉の目がそんな風に語りかけてきて、東雲の形の良い唇から耐えきれないといった様子で笑いが漏れ出した。

「ふふっ……千葉くん、本当に僕に挑むつもりなのかい?」

「今日は勝てるかもしれんやん」

「付き合ってくれるのは嬉しいけど、お酒は勝負するものじゃなくて楽しむものだよ」

「わかってるって――でも最後まで付き合うつもりやから、覚悟しといてや」

「良い心意気だね」

 東雲は煙管をケースの中へ片付けると千葉の肩を叩く。視線だけで合図をしあい、ふたりは同じ方向へ向かって歩き出す。

 川のせせらぎと風の吹く音だけに満たされている、静かで真っ暗で広大な世界を、同じ香りを漂わせた男とふたりだけで分け合う時間。それは現実にあるのに自己が常世に溶け込むような感覚で、たまに遠くから届く車の走行音のみがこの世界と自分の意識を繫ぎ留めている――東雲がそう考えてしまうほど、千葉と過ごすこの時間は甘やかで現実離れをした平和に満ちたものだった。


<完>

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非番と充足 AZUMA Tomo @tomo_azuma

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