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 取っ組み合いの勝負では光学偽装を外されてしまったが、警察官の手からなんとか逃れることができた。まだ若そうな警察官で場慣れをしていないのがわかる風貌だった。そこかしこに張り巡らされた監視の目を掻い潜るのは慣れている。すべてのカメラに映らないというのは無理でも、カメラに映らない区画まで移動すればあとは自由に行動できる。あの若い警察官もテクノロジーに頼って追跡してきたのだろうがとうとう限界が来た。己の顔さえ検知されなければ経験の浅い警察官が追ってくることなどできない。あとはいつも通り身を隠せばいい。

 盗みに入ってドジを踏むのは久しぶりのことだった。大抵は人が寝静まったタイミングか人のいないタイミングを狙って盗みを成功させてこれた。今夜のターゲットも数週間の調査の末仕事を開始したのに、今日だけは目当ての建物に人がいた。失敗から始まったこういう日は無理をしないことが大切だ。

 顔もバレてしまったが、逃走に成功した後に整形してしまえば同一人物だとは分かりにくくなる――などと男は逃走後の算段をつけながら無数の逃走経路のひとつであるその区域にやってきた。件の警察官以外に追手の気配はない。男が今日を犯行日に選んだ理由は警察の人員が別の場所に集中するだろうという予想が立っていたからだ。賄賂や汚職が横行するこの社会において、隙だらけの警察組織の目を盗んで犯行に及ぶというのは造作もない話だった。

 もうここまで来れば自由の身だ。警察もろくにこの区画について把握していないだろうことはこの辺りの治安の悪さから推測することができた。だが、最後まで油断はしてはならない。男は地を駆ける足を絶えず動かし続ける。目的の通路までは速度を落としてはならない。

 男の装着しているスマートコンタクトは闇夜も見渡せるように熱源検知機能や赤外線システムが搭載されていたが、それも男の視覚に入っているものに限定されている。どれだけ技術が発展しても、人間の焦りは様々な問題を引き起こす。

 男は目的地を発見するとその周辺に即座に目を向け、他に人影やドローン警備がないか確認をする。特に異常も見られない。あとは一刻も早くその通路へ飛び込むだけだった。

 その瞬間だ。男の左足首の動きがその場で留められ、つんのめった。なんとか体勢を留めようと右足で踏ん張ろうとするが右足首も何かに引っ張られる感覚がした。背後から何者かが男の動きを阻害している。男はその場に倒れ込むが、体を捻り受け身を取る。同時に何者が自分を捕らえようとしているのか確認しようとする。しかしそれすらも叶わなかった。受け身を取った瞬間に視界が真っ暗になった。それと同時に生温かい固い何かで首を締め上げられる。これは人間の腕だ。男は抵抗しようともがき、首と腕の間に己の手を差し込んで気道の確保を試みる。隙間なく締め上げられてはそれも不可能だと感じ、男は腰に携帯していたタクティカルナイフに手を伸ばす。しかしその手は空を切った。あるはずの武器がない。その事実を認識した途端、さらに息苦しさが増し、脳天に血液が集中するような窮屈さが男に襲いかかる。自分の首を締め上げている人間に反撃を仕掛けようとするもののすべてが無駄だった。肘を打ち込もうと頑として揺らがないし、相手の脛を攻撃しようとしてもそもそも足は何かに縛られている感覚があって自由が効かない。その間にどんどんと意識が遠のくを感じていた。

 俺は殺されてしまうのだろうか。


 見知らぬ番号からの着信に年若い警察官は眉を顰めて一度その場で足を止めた。彼は強盗犯を追跡していたが、監視カメラやデバイス検知センサーが男の反応を検知できなくなってしまい、どちらの方向へ追跡を続ければいいかわからなくなっていたところだった。現状、彼にできることはないと思っていたため、あとは上司に判断を仰ごうかと考えていた。この着信を切ってしまって、即座に上司へ報告を行うべきというのはわかっていた。しかし、センサー等が男を検知していない以上、どうせ男の行方は誰に追うこともできない。急いでも仕方ないか――そう考えた若者は謎の番号からの通信に応答することにした。

「もしもし?」

『君の探し物は今から送る座標にある』

 たっぷりと余裕のある男の艶かしい声。同性の彼でさえも心臓がどきっと高鳴るかと思うほど美しい声だった。この状況でなければずっと耳を傾けても良いと思えるほどの音だったが、男の意味深な言葉に彼は顰めていた両眉を一層近くに寄せて、眉間のシワを深く濃く刻む。

「……悪戯電話か? それとも――」

『君、男を捕り逃しただろう? 名誉挽回といこうじゃないか』

 デバイスに表示されている通信方式は記録の残りづらい秘匿回線だった。わざわざこんな風に情報提供をしてくるとは発信者はよほど自分の立場を明らかにしたくないらしい。それに男を捕り逃したとかなんとか――深夜で目撃者も少ないのにこの男はどうしてそんなことを知っているのか?

 若い警察官は額と背筋に嫌な汗をかいているのを自覚した。何か危ない橋を渡らされている。何が起こっているかわからないが警察の内部情報が漏れているのかもしれない。

「あんた、何者だ? それにどうして俺が捕り逃したとかそんなこと……」

『僕が何者だとかは君に関係はないが……そうだな、善良な市民とでも名乗っておこうか。こちらの指示に従え。君は今から座標位置まで移動する。するとそこには追跡していた男がいた。君は男から激しい抵抗に遭い、必死の格闘の末相手を沈黙させる――この通信のことは決して口外はしないこと。勿論上司への報告は不要だ。すべて君の手柄にすればいい。わかってくれたかな?』

「それはあんたの決めることじゃ……」

『早く来ないと、あの男がまた逃げてしまうよ』

 命令じみたその言葉に反発しようとすると、男は笑いまじりにそのように告げて一方的に通信は遮断された。デバイスには座標とその数字が表す場所が地図上に示されていた。

 若者は半ば自暴自棄のような気持ちで――彼の思考には罠かもしれないという考えすら思い浮かぶこともなく――デバイスに表示された場所へ急行する。やけに暗くて監視カメラもデバイス検知センサーも設置されていない。一目で危ない場所とわかるようなところだ。なるほど、犯罪者はこういうところに逃げ込みたくなるかもしれない。薄暗い道の傍にはまばらに街灯が設置されており、その灯りを辿りながら彼は座標位置へ近づいていく。そしてある街灯の足元に何やら大きな物体が転がっているのが見えた。そこはちょうど座標位置だ。その街灯はチカチカと明滅を繰り返し、その物体の輪郭をぼやけさせる。まるでホラーゲームの演出のようで、若者の恐怖心を煽った。携帯の許された拳銃を構えながらそっと近づいていく。しかしその恐怖心はすぐにどこかへ行ってしまった。その物体の正体が分かったからだ。街灯の足元に転がっていた大きな影は情報提供の通り、彼が追跡していた強盗犯であった。

 強盗犯は口から泡を噴いて倒れていた。ホラーとは違う恐ろしさにギョッとしたものの、若い警察官はすぐに強盗犯の心肺機能を確認し、特に問題はないということがわかった。そして彼は装備品の中から手錠を取り出すと気を失ったままの強盗犯の両手にその手錠をかける。

「一体どういうことなんだ……?」

 若者は困惑を隠さない。まずは強盗犯に意識を取り戻させるために強めに肩を叩きながら呼びかけ続けた。

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