第9話

 朝、家の玄関を出て、愕然とした。


『車軸を流す』とは、このことか。

 とんでもない土砂降りだ。天気予報で明日は雨とは言っていたが、家の前が川になるほどとは想定外だった。レインコート程度では無理だ。


 これはマズい。遅刻する。

 昨日、別れ際にシーナ先生にお願いされたのだ。


『すみません。黒岩さんも、明日、私たちの駅まで来ていただけませんか? 私たちの駅は黒岩さんの乗る、四つ向こうの駅です』


 その駅は、僕の家からは自転車で三十分もすれば行ける。

 それで早起きしたのに。

 この豪雨の中、四つ向こうの駅まで、自転車は無理だ。


 しかし、シーナ先生に遅刻を連絡する方法はない。

 いや、後悔している場合ではない。

 出来なかったことを嘆く時間ではなく、出来ることを考える時間だ。


 今日の遅刻は許されない。

 僕はあの駅に、あの時間までに行かなくてはならないのだ。


『ご存知の通り、この路線で最も寂れた駅です』


 昨日の会話が思い起こされる。

 不便極まりない駅だ。ボロ駅と陰口を叩かれるほど、古い。ホームも極端に狭く、危険な駅。乗客もあまり多くない。


 この雨の中、直接、その駅に行くのは諦めた。いつもの駅経由で、逆行して、四つ先のボロ駅に向かう方法ならどうか。


 考えている時間も惜しい。どのみち、それしか方法がない。僕はビニール袋に入れた本をカバンに詰めると自転車に飛び乗った。



  ◇



 息を切らした、びしょ濡れの男子高校生が、自分で言うのもなんだが、鬼の形相で地下鉄に乗っている光景は、周辺の客を一歩引かせる。

 レインコートを畳もうにも、もう、袖も裾もずぶ濡れだ。途中、レインコートのフードが風にあおられ、髪もびしょ濡れだ。

 朝、早すぎる時間帯で良かった。通勤通学の人は、まだ少ない。

 さすがに誰も僕の周辺には近づかない。

 滴る雨水で僕の足元には水たまりができていた。


 自転車を漕いで豪雨に打たれている最中に、僕にもようやく、シーナ先生が気付いたことに気付けた。


『あの夏が飽和する。』

『匿名』

『アリス殺し』

『クララ殺し』

『かがみの孤城』

『レゾンデートルの祈り』

『レゾンデートルの誓い』

『この星で君と生きるための幾億の理由』


 シーナ先生に彼女が紹介したのは、この順番だったらしい。


 そもそも適応障害の人間は注意力が散漫になる。

 心を病んでからシーナ先生に薦めた本を、ケイさん自身は読んでいない可能性は高い。適応障害の人間が、長編を一冊読むのは、至難だ。読めても途中、最悪、出だししか読めていない可能性は高い。

 

 最初の本の時、彼女はまだ病んでいない。

 次の『匿名』の時には、アカウントをばらされた直後。

 その後『アリス殺し』の頃は、もうそのアカウントを削除して投稿をやめている。

 次の『かがみの孤城』の頃は、学校を休みがちになっている。シーナ先生と書店などで『レゾンデートルの祈り』を見たのもこの辺りだろう。

 適応障害の診断書を出した後、『レゾンデートル』を薦め、最後に『この星で君と生きるための幾億の理由』は遺書から始まる物語。

 それを最後に、直接、二人は会っていないらしい。


 どれも命や社会の生きにくさの本だ。

 特に、そのあらすじ、商業用のあらすじには結末は出てこなくて、登場人物の境遇だけが伝えられている本だ。

 そして、その装画はどれも、どこか晴れない、死や孤独や暗い終わりを予感させる。


『あの子は、この本を全く読んでいない?』


 シーナ先生は、その装画やあらすじといった表面的なメッセージから感じ取ったのだろう。物語の鍵を受け取っていないと、一段階深い解釈ができないはずだ。装画の表面的なメッセージだけを受け取っている。


 つまり、既に、ケイさんの心は折れていた。

 シーナ先生は、そう推理したのだ。


 ◇


 あと一駅。次の駅が待ち合わせの駅だ。

 電車の扉が閉まるのがじれったい。空気の抜ける音と共に、ようやく扉が閉まる。


 大丈夫だ。

 間に合うはずだ。


 髪を濡らした不審な男子高校生の姿が、扉のガラス窓に映っている。顔色も悪い。雨で体が冷えているせいか、青みがかっている。

 それより足がガクガクし始めている。不安なのか体力的問題なのか。


 既に心が折れているケイさんが、シーナ先生を駅に呼び出した。

 その理由わけは、何種類も考えられる。


 誰かと一緒でないと恐怖に負けてしまう。

 せめて朝の時間は親友と一緒に登校したい。

 立ち直った元気な姿を見せたい。


 そんなポジティブな理由も考えられなくもない。

 だが、そんな予感が全くしない。

 もっとネガティブな理由ではないのか?


 例えば、今日が姿を見せる最後になる……とか。

 お別れを告げに来た……とか。

  

 考えるな。考えるな。逢えばわかる。

 こんなびしょ濡れの男子高校生が突然現れたら驚くかもしれないけど、君は一人じゃない。我慢できないかもしれないけど、道は一つじゃない。


 そうじゃなかったのなら、慌てて駆け付けた男子高校生を、ただ笑えばいい。

 そんなイジリなら、むしろ歓迎だ。


 たくさんの道に正解があるように見えるけど、道の向こうに正解があるんじゃない。選択した未来をよりよくすることだけが、正解だ。


 崩れたものを、もう一度作り直すには、思っているよりも力がいる。

 心が弱っている時は、おススメしない。何も考えずに、日々をやり過ごすことも、生きるのには大事だ。


 目的の駅の光が車内に差し込んだ瞬間、けたたましい心臓を掴むような列車の警笛が聞こえた。


 向こう側のホームからだ。

 軽くドップラー効果を効かせながら、警笛は遠ざかる。

 それは、シーナ先生たちがいる側のホームに入った電車だ。


 嘘だろ……。次の電車じゃないのか。今の電車なのか?


 いや、考えるな。今は考えるな。


 悪い予感を振り払い、こちらの電車の扉が開くや、僕は飛び出した。

 狭いホームの中、人を掻き分け、階段を上る。


「通してください! 通してください!」


 びしょ濡れの男子高校生が大声を出しながら、階段を駆け上がっていく様に、大人たちは何事かとそれを避けた。


 向こう側のホームへ続く階段を降りる足が震え始める。

 疲れなのか、恐怖なのか、もうわからない。


 もう少しだけ。あの先に、シーナ先生がいる。……いるはずだ。

 それに、この電車じゃない。もう一本後の電車のはずだ。

 電車の時刻と時計を見て、頭が混乱した。


 間に合ったはずなのに……。


 そのホーム。シーナ先生がいるはずの反対側の狭いホーム。その先頭車両に大人たちが群がっていた。


 その人だかりに向かって、僕は走った。


 しかし、シーナ先生の姿はホームにはなかった。ケイとおぼしき女性もいない。

 その代わり、見覚えのある本が数冊散らばっていた。

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