第7話 あの夏が飽和する。
「黒岩さん。前に、私に『いつも一人ですか?』とお尋ねになったのを覚えていますか?」
久しぶりにシーナ先生に会えた。
最後に『かがみの孤城』の装丁を紹介してもらってから、幾日が経ったのか。李白なら白髪三千丈と言い出すくらいの時間が過ぎ去った気がする。
あれほど、一人の教室には慣れていたのに、彼女のいない電車だけは妙に居心地が悪かった。
今まで何をしていたのか、彼女に聞きたかったが、シーナ先生は、開口一番、全く関係のない話を始めた。
「はい。あの頃、シーナ先生が、一人で登校しているのかなと」
「私は一人ではありません。正確には、以前は一人ではなかったのです」
そういうと、深くため息をついた。
口調こそ変わらないものの、そこには以前の元気は全くなかった。
「私には、中学からの親友がいました。いつも彼女と、一緒でした。私は図書委員で、彼女はブラス部で、性格も違いましたが、気が合っていたと思います」
シーナ先生は、小さな声で
もしかしたら、その友人には覚えがあるかもしれない。
春先、いや夏ごろまで僕が見たことのあった、あの早い時間に来る女子高生たちは、シーナ先生とその友人だったのか。
「彼女も本が好きで、よく本の貸し借りをしていました。そして私の装丁の熱意を、あなたのように可笑しく聞いてくれました」
「その子は、もう同じ電車に乗らないのですか?」
シーナ先生は何かをぐっと堪えるように、手にしたその本に力が入っていた。
喧嘩でもしたのかなと軽く考えていた。
本のタイトルは『あの夏が飽和する。』。
確か、ボカロPの方が書いた小説だ。ネットで噂は聞いたことがある。
これもシーナ先生の好きな青い表紙ではなかった。真逆の薄い黄色味の本だ。
「乗れなくなったのです。学校に行けなくなったというべきでしょうか。クラスの雰囲気に馴染めなかったのです。それに」
どこにでもいるクラスの雰囲気に馴染めない人間の一人。僕と同じだ。
「……密かに楽しんでいた隠し事を明るみにされ……」
ドキリとした。
「実は、ネットで歌い手として活動をしたのです。中学の頃から、既にそこそこのファンがいる存在でした。私も彼女の歌声が好きでした。しかし、それを学校にバラされてしまい、その後、投稿先がウチの学校の生徒の書き込みで荒れてしまって、彼女は……」
頭の中が真っ白になった。その友人の感じたことを追体験したように、得体の知れぬ恐怖が僕の中を侵食していく。
シーナ先生の沈黙の後、僕は声を振り絞った。
「自分がその境遇なら……全てを捨てるかもしれません。恐らく、そこも閉鎖し、全部削除します。そして……そのまま心を病むと思います。もう二度と誰にも逢えない気がします」
その言葉に、はっとシーナ先生は顔をあげ、僕の顔を見つめた。それで察した。
「ご友人は、そうなったんですね」
静かに、コクリと、先生は頷いた。
「学校は、不安定になった彼女を追い込むように、『心の病気で休むのであれば病院に行ってください』と言い出し……」
「証拠として診断書を出せと? ……適応障害ですか」
惨い事をする。
病院に行くように言われた時、多くの生徒の親は世間体を気にして、無理矢理学校に行かせる。その結果、完全に心を壊してしまい、退学の道を取ることもある。
病院を勧めるのは、善意で言っているわけではない。学校に落ち度がないことを証明したいだけだ。適応障害とは『社会に適応できない個人の心の病』だ。
それは常に『社会側が正しく運用されている』という前提だ。そして、社会側は相手を『病人』として都合よく扱うことができる。
「よくご存じですね」
一年の時に僕がそうなりかけたからだ。適応障害のまま、僕はネットに逃げ場を見つけ、彼女はネットの逃げ場から追い出された。その違いだ。
待つのは、ネットに残る半身の死だ。今まで培ったモノが音を立てて崩れる
「黒岩さんにお見せした本の大半は、実は彼女と私が読みあっていた本です」
「それもですか?」
言われて、再び、本に目を落とした。
そして頷くと、その本を僕に渡した。
「そうですね。これと、あと一冊で、今年二人で読みあった本は最後になります」
「……寂しいですね」
「はい」
慰める言葉も見つからない。
カンザキイオリというボカロPが書いたその小説、『あの夏が飽和する。』は、同じタイトルの歌がある。その歌を知っている人にとっては、格別な思いになる内容だという。
才能のある人というのはいるのだ。音楽と小説を融合となると、なかなかできる人はいない。このような人が新しい娯楽の時代を切り拓く。
ネットで歌い手だったというシーナ先生の友人は、当然聞いたことのある歌だろう。どういう思いでその本を読んだのか、気になるところだ。
その表紙はたまご色を基調としているが、エイジング加工のように、少し古びたような、ノスタルジーを感じさせる表装だ。装画はなく、そこにタイトルである『あの夏が飽和する。』という文字が、二行で書かれている。
シンプルにしつつタイトルと作者に使った文字は、ひっかき傷のように、かすれた感じを作っている。その文字色は、赤や青のトーンになっており、どこか遠い思い出にある夏の夜を感じさせる色。
ふと過去を振り返りたくなるような装丁だった。タイトルのせいかもしれない。
「私が、もっと彼女の話を聞いてあげるべきだったのか、それとも沢田に、抗議して学校に改善を求めるべきだったのか……。今でも悔いています」
隣で絞り出すように、シーナ先生は言う。
その沢田というのが、友人の活動を学校にバラしてしまった生徒だろうか。
シーナ先生は、聞いている僕が、別の高校に通う学生ということも忘れている。沢田が誰かは知らないが、少なくともシーナ先生を悲しませている原因人物だろう。
こういう時はそっとしておくのがいいだろうか。
「結局、学校に適応障害の診断書を出したにも関わらず、クラスの雰囲気はほとんど改善されなかったようです。むしろ、今度は腫物に触るように扱われ……」
地獄だ。
診断書は、恐らく、学校の言い訳として提出させただけだ。学校は何一つ変わる気はない。教科書に載っていないことは何も知らない人たちだ。診断書で彼女の処遇を変えることはないだろう。
「それでもいつか、この電車に乗るのではないか。また朝から、二人で、本の話ができるのではないかと。この車両に乗り続けましたが」
深いため息が続いた。彼女は現れなかった。
シーナ先生も無理に来させたくないだろうし、その友人も無理には行けないだろう。心の傷とは、そういうものだ。
「新学期が始まれば、クラスも変わるでしょう。そうなれば、また元気を取り戻せるかもしれませんよ。未来が変われば、心も変わるかもしれません」
ゆっくりと顔をあげたシーナ先生は、どこか不安気な、それでいてその言葉に希望を見出そうとする、弱々し気な表情で目を潤ませていた。
ちょうど、そこで電車が止まり、ふと窓の外を見ると、そこはもう彼女が降りる駅だった。シーナ先生も気付いたようだ。
「いけない。行かないと」
シーナ先生は慌てて席を立ち、涙声で「降ります」と人を掻き分け、閉まりかける扉をすり抜けるように、駅に降りた。
走り出した電車の窓越しに、彼女が顔をぬぐいながら去っていくのが見えた。
──仮面を与えてごらん。そうすれば、その人が、どんな人なのか、よくわかる。
オスカー・ワイルドの言葉だ。
きっと、その友人にとって、歌い手の自分が仮面の自分だったろう。
それが本当の自分。そして安息の場だったに違いない。
それを奪われたショックは大きい。
気付くと、僕の手には『あの夏が飽和する。』が残された。……返しそびれた。
装丁師は吉村英仁さんという方だった。
先生に次はいつ会えることか。
僕もあの安息の場から離れなくてはならない。
次にシーナ先生に会う時、僕はもう受験生のはずだ。
ネットでの活動をしている時間も減る。
今日は二年生の最後の登校日だった。
☆☆今回の表紙はこちら
あの夏が飽和する。
https://onl.tw/CfuLiDf
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