第6話 かがみの孤城

 始業時間の何時間も前に学校に行くのは、単に同級生に会いたくないからだ。

 朝練に来る連中を避けると、一人の教室を一時間ほど漫喫できる。


 何の寂しさもない。


 この時間が好きだ。春の風も、夏の雨も、秋の音も、冬の静寂も、全てが愛おしい時間だ。一人でなければ味わえないのだから。

 テスト勉強も「一夜漬け」じゃない。「その場漬け」なので鮮度が高い。もっとも、記憶力だけはいい方なので、困ったこともない。


 正直に告白しよう。

 僕には友達がいない。友人と言える存在がない。

 同年代同級生が当たり前と思っているあの「ノリ」が肌に合わないだけだ。

 あの教室で作られる「いじり」がアレルギー的に嫌いなのだ。


 必然、僕は居場所を、探した。それが朝の教室であり、ネットのWeb小説だ。学校から逃げるという選択肢はなかった。


 出来れば勉強に逃げ込みたかったが、まあ、そこは……個人の才能だ。あっという間に数学の難問を解く奴がゴロゴロいる世界なのだ。


 その優秀な彼らが「いじり」の空気を作っていく。

 いや、優秀さは関係ないか。どこの学校でもある話だろう。

 だが僕にとっては、それで笑うことが、心が汚れるように感じた。


 誰かをイジることで、笑いを取るのは、卑怯だ。

 そこには本人の笑いがない。安全な場所から人が苦しむのを見るだけの、下卑た笑いだ。創造性が欠如している。無能がやることだ。先天的にセンスの無い人間がやることであり、それしか出来ないのであれば、一生笑いに近づかない方が良い。


 そういう冷ややかな視点で物事を見ることは「ノリが悪い」と表現される。

 結構。それがどうした。

 好きでもないことにノレるほどお調子者になりたくもない。


 ……一方で、同情もする。

 彼らもまた、誰かにイジられてきた被害者だ。


 学歴社会という名のヒエラルキーに圧し込まれ、どんなに頑張っても上に上がれない者は、教師から半笑いの「センスなし」の罵倒を受ける。

 教師はそうやって多くの生徒の心を殺し、給料をもらう。教師という安全な場所から、生徒が苦しむのを見るだけの下卑た職業だ。


ぇのは、てめぇの教師センスだよっ!」


 ……言えるわけがない。

 耐えるしかない。どんなに孤立していても、群れから離れる恐怖が勝る。


 そんな諦めの空気が醸した「狭くて小さな教室のノリ」は、そうしないと生きていけない彼らのため息で出来ている。湿って淀んだ空気だ。


 そう言えば昔、出来の悪い生徒のことを『腐ったミカン』と呼んだそうだ。腐ったミカンがあると、他のミカンも腐り始めるという意味で使っていたらしい。


 本当にそうか?

 毎年現れていたのは『腐ったミカン』ではなく『ミカンを腐らせる原因』では? 

ずっと、残っているもの。校則? いや、教師だ。何も変えられない教師こそ、原因ではないのか?


 ……だが、その教師もきっと文科省あたりから「大丈夫なのか?」と疑いをかけられる存在だろう。……いや、そもそも、その文科省すらもどこぞの親から「ちゃんとやってるのか?」とクレームを言われている……。


 軋轢の連鎖だ。小さなクレームが大きく伝わり、小さな不安が大きく動き、人を雁字搦めにしていく。連鎖だ。全てはつながっている。


 だから、この空気は変えられない。


 僕は、その空気に汚される前の教室に一人で佇む。孤独であっても、一人の教室を楽しむのだ。


 ◇


 シーナ先生に再会したのは、随分と時間が経過した後だった。


「時間が空きましたね」

「お待たせしました。寂しかったですか?」

「はい。とても」


 素直に答えてみたが、シーナ先生は、少し微笑むだけだ。


「今日、お持ちしたのは、有名な本です」

「お。それはさすがに僕も、知っています。本屋大賞で圧勝だそうで」

「内容はご存知ですか?」

「未読ですが、全く知らないわけではありません。だいたいのテーマやストーリーくらいは」


 本のタイトルは『かがみの孤城』だ。

 シーナ先生は、その本を僕に渡した。

 タイトルの文字は、箔押し文字。凹んだ文字で、色は金属感のあるものが使われる。この色は銀……いや、ホログラムか。それが金属感以上に、異世界への迷い込むよう、いざなうように見える。


 しかも、その文字が、まるで鏡のように割れている。

 見る者に、不安や破滅、儚げな脆さをも予感させる造りだ。


 中央には楕円オーバルの大きな鏡。そこに少女と狼の仮面の少女。その部屋の壁紙は深いオリーブ、いや、モスグリーンのような色合い。


 その鏡から、こちらを見つめる狼の少女のインパクトは大きい。


「この狼の仮面を被った少女というのが、いいですよね」

「見た目のインパクトがあるキャラです。オオカミさまです。ゴシックな服というべきでしょうか。赤いドレスに、リアルなオオカミの仮面。こういうアンバランスな装画は、気になって、つい手に取ってしまいます」


 その赤いドレスは、暗い緑の壁紙の部屋に映えた。赤と緑は反対色だ。


 そこでようやく気付いたが、この本は色で言うのなら、緑というべきではないか。緑のことを青と表現することもあるが。青信号なんかは、緑色なのに「青」と言われるし、緑の野菜を「青物」とも言う。


 だが、それはシーナ先生の求める青ではない気がする。

 それにもう一つ疑問がある。よくわからない構図なのだ。


「このオオカミちゃんは、鏡に映らない、つまり、鏡の中の世界の住人ってことは……あれ? でも、この鏡の向こうは教室ですよね? こちら側が孤城なのですか?」


 表紙絵の中央に描かれた鏡には女学生が映っている。実像と鏡像の二つが描かれているので、鏡に映っていると言える。しかし、もう一人のオオカミちゃんは、鏡の中からこちらを覗いている絵だ。実像しか見えていないとすると、向こう側が鏡の世界なのか。


「オオカミさまは、鏡の世界側の住人です。教室は……現実側ですね。表紙のこの緑の部屋が、孤城側です」


 ……ん? 今、なんか矛盾した説明ではなかったろうか? 教室側にオオカミがいるぞ?

 

「装丁は岡本歌織さん。装画は禅之助さんです。この装画はあくまでも物語を包括して畳むように作られた世界観だと思います。より読後に眺めると引き立った感じがしました。こればかりは、読んだ人にだけある味かもしれませんね」

「糸の栞が、銀色なのも、この本の世界観ですね」

「糸の栞。スピンのことですね」


 そうそう、スピンだ。

 ハードカバーの本はよくこのスピンがついてくる。装丁のお仕事には、このスピンも含まれるのだろう。この本に付けられたスピンは、よく見かける焦げ茶ではなく、鏡をイメージさせる銀糸を使うあたりが、この装丁師のセンスだろう。


 開くと、オオカミちゃんの絵が見返しにセピア色で描かれていた。セピアは過去を彷彿とさせる色合いだ。これは過去の出来事なのか、オオカミちゃんは過去に関係するのか。


 更にその見返しの紙をめくると、そこには、タイトルの書かれたページが……。おお、これは、面白い。


「いいですよね。これ」


 シーナ先生が覗き込むように、うっとりと、そのページを眺めた。


「そこは『扉』ともいいます。小説に入る入口。特別なページです」


 そのタイトルは、ざらりとした紙質の向こうに、透けて読めるようになっていた。

 つまり、実体はそのページの裏側に印刷されている。それが薄い紙越しに読めるようになっている。


 そのページをめくり、その裏側をみると、文字が反転して印刷されていた。その紙面は鏡のような光沢感のある紙質だ。

 ちなみに、このような反転した文字のことを「鏡文字」という。

 見事としか言い様がない。


「わかります。唸ってしまいますよね」


 知らずのうちに、僕の唸り声が漏れたらしい。シーナ先生は我がごとのように喜んでいた。


「カバーをめくってもよろしいですか?」

「いえ。今日はいけません」

「え?」


 てっきり、カバーの裏側を見せてもらえるものだと思っていた僕は、戸惑った。

 レゾンデートルの時のように、中身が見れるのだと思っていたからだ。


「とても重要なものが隠されているので、読んだ後にしてください」


 絶対に許さないという眼差しだった。

 もともと、自分の本ではない。これ以上めくろうとするのは不躾ぶしつけだろう。シーナ先生の忠告に従うことにした。自分で買ったら、めくらせてもらおう。


 最後に、一番最後の見返しを見たが、違和感。最初の見返し側にあったイラストが、ここにはなかった。


「なにか気になることでも?」

「はい。最初の見返しには、オオカミちゃんの絵があったのですが」

「……ああ。なるほど。ふふ。私も言われて気が付きました。これは何もないことが、かえって正解なのです」


 ほう。ということは、これも物語の世界観に関係しているのか。


「いけません。もう時間です。ではまた」


 慌ててシーナ先生は、本をカバンにしまう。


「次は、少し毛色の違うものを」


 そう言い残して、そそくさと電車を降りてしまった。


 孤城。それは孤立してしまった城を指す言葉だ。社会に心を閉ざそうとしている、今の僕でもある。

 いまだにシーナ先生に「連絡先を交換しよう」と言い出せない僕のことだ。



☆☆今回の装画はこちら

かがみの孤城

https://onl.tw/JAr27p3

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