第26話 突然の話。

 仕事がスムーズに流れ始めて数日が経ち、製本も納期に余裕を持って送れるようになった。

 部署内はずっと微妙な空気が流れたままだ。

 森村副部長や浅川さんたちはいつもと変わらないけれど、千堂副部長と門脇さんが常時不機嫌そうな表情を浮かべている。

 先だって間野部長たちが昇進した際に、浅川さんも主任になっていたからじゃあないかと、湊さんは言っていた。


 それにしても、今まであちこちの職場を移ってきたけれど、だいたいのところで初日には不穏な雰囲気が掴めていた。

 なのにこの職場では、こんなふうに巻き込まれそうになる直前まで、まるで気づけなかったのがおかしい。

 出している色と表の態度に温度差があるな、とは思っていたけれど、ほとんどの人が安定した穏やかな色に視えていたのに。

 サッとフロア内に視線を巡らせても……。


(あれ……?)


 フロア奥の人たちの色がほとんど視えない。青とか赤とかの系統はわかるけれど、薄くて掴めない。入り口のほうへ視線を移す。

 隣の部署まではわかるけれど、入り口に近い部署の人たちは奥の人たち同様でほとんど視えない。


(え……なにこれ? 急に視えなくなった?)


 いつからこんな視えかただったんだろう?

 ほかの部署を気にしたことがなかったから、全然気づかなかった。

 うちの部署の人たちにしても、今の色なら具合が悪くなってもおかしくないのに。

 ふと、前に突然、視えなくなったことを思い出した。あのときは家の最寄り駅に着いたとたん、いつも通りに視えるようになったけど……。


 今回のは、全く視えないのとは違う。薄っすらと視えてはいる。

 思わず振り返って安本さんの頭上を視た。仕事が落ち着いてきたからか魔王はいなくて、クリアな空色をしている。

 不意に安本さんがオレのほうを振り返り、目が合うと怪訝そうな表情を浮かべた。


「どうかしました?」

「……いえ、なんでもないです」


 モニターに向き直り図面の修正を始めても、不安しか湧いてこない。なにか嫌なことが起こりそうな気がしてしょうがない。


「おつかれさま~」


 間野部長がフロアに入ってきた。その後ろに若い女の子がついてきている。

 そのままオレたちの部署の前で足を止めた。


「もう知っている人もいると思うんだけど、安本さんが今月いっぱいで退職されます」


(――えっ?)


 安本さんは立ち上がると、部署の人たちに向かって頭を下げた。


「こちらの楠瀬さんが、業務の引継ぎで明日から出勤しますので、よろしくお願いします」

楠瀬尚子くすのせなおこです。よろしくお願いします」


 全員が頭を下げてあいさつをしている。なにがなんだかわからないまま、オレはただ安本さんをみていた。


「それじゃあ、明日からのことを話しておきたいから、安本さん会議室で……」

「はい」


 間野部長に促されて三人が会議室に向かう。ドアが閉まったのを見届けてから、オレは湊さんの席へ向かった。


「安本さん、辞めちゃうんですか? 今月いっぱいって、あと何日です? というかなにか聞いていますか?」

「やだー、木村くんってば落ち着いてよ。私たち、もう三年になるんだよね」

「あ……派遣期限……」

「うん、そう。私もね、来月いっぱいだよ」

「そんな……」

「直接雇用の話しもあったんだけどさ、私たち、もう嫌になっちゃったんだよね」


 このあいだのコピー機の一件で、嫌になったという。派閥云々もあるけれど、仕事に差し支えが出るのが一番嫌だったと言った。

 そう思っていたタイミングで期限を迎え、この状態のままで残るのは嫌だからと安本さんも話していたそうだ。


「木村くんはあと一年あるでしょ? それにそのあとも残るかもしれないからって、森村副部長にいろいろと頼んでいたよ」


 そういえば浅川さんが、同じようなことを言っていた。

 でも……急すぎるでしょ。今日は何日だったろう。あと何日だろう。


「急すぎですよ……もっと早く教えてくれたらいいのに。寂しいじゃあないですか」

「大げさ~。木村くん、大げさだって」

「だって、オレは仲良くしてもらっていると思ってましたから。急に二人ともいなくなっちゃうなんて思っていませんでした」

「まあ、そうだよね。でも……派遣やってるとさ、こんなことばっかりだよね」


 湊さんはオレの肩をポンポン叩いて笑った。

 確かに湊さんのいうとおりで、派遣をやっていると知り合ってもすぐに離れることばかりだ。オレみたいに短いスパンで動いていると、特に。

 時には気が合って連絡先を交換しても、職場が移った後に連絡を取り合ったり会うなんてことは、滅多にない。

 会議室のドアが開き、間野部長と楠瀬さんが出てきたあとから、安本さんも出てきた。

 エレベーターを見送ってから、こちらへ戻ってくる安本さんと目が合った。その唇がなにか言ったように動いたけれど、なにを言ったのかはわからなかった。

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