第20話 良くない人の話し。

 うつむいていた安本さんの視線が急にオレの頭上に向いた。笑った表情が張り付いたような顔をしている。


「やっぱり真緒だ。久しぶり」


 背後から声が聞こえて、オレは驚いて振り返った。ガタイはいいのに、やけに爽やかそうな男が立っていた。


「なに? デート中だった?」

「そんなんじゃあないから。こちらは会社の同僚なの」

「へー……カレシじゃなくて? ってか俺より年下かな?」


 なにが起こったのかわからず、オレは安本さんをみた。笑顔のままでいるその姿の前に、くすんだグレーのシャッターが下りた。


(あ……この男をシャットアウトした)


「そんなんじゃあないって言ってるでしょう。木村さん、もう行きましょうか」


 安本さんが伝票を手に立ち上がった。男は立ち上がろうとしたオレの肩に手を置くと、引き寄せて安本さんを指さした。


「知ってる? この人、こんなだけどさ、アッチはすごくいいから。それにすぐ奢ってくれるしね。アンタ、いい人捕まえたね」

「信之、いい加減にしてよ。向こうで待っているの、あんたの彼女なんじゃあないの? さっさと行ってあげなさいよ」


 シャッターの上に以前視たあのホラーなヤツが、細かい粒子のようにうっすらと視えた。


(アレの原因はこいつか!)


 肩に乗せられた男の手から、灰色のような深緑のような、どぶ川みたいな色がドライアイスの煙のように流れてオレの体にまとわりついてくる。

 悪意しか感じないその色に、背筋の寒気と手の震えが止まらなくなった。

 男の手をやんわりと避け、オレは安本さんの手を握りしめた。


「アッチがドッチだか知りませんけど、いい人と知り合えて本当に良かったと思っていますよ」

「へえ、そう。そりゃあ良かったね。でも――」

「こんなに他人に思いやりを持てる人は、なかなかいませんから。別れてくれて本当にありがとうございました。――行きましょう、真緒さん」


 男がまだなにか言い足りなさそうにしているのを無視して安本さんを引っ張り、レジに多めのお金を置いてお釣りを断ると、とにかく急いで店を出た。

 扉が閉まる直前まで、ねばりつくようにあの男の色がまとわりついていた。

 信号を待つのももどかしく、一番近い地下通路の階段を下りて早足で歩く。もう色の欠片も感じないところまでくると、ホッとため息をこぼして歩くスピードを緩めた。


「安本さん、大丈夫ですか?」


 オレの問いかけに、我に返ったように繋いだ手を解いた安本さんは、うつむいたまま何度も頭を下げた。


「なんか今日は本当にすみません。変なところに連れていったり、嫌な目にあわせたり……」

「あの人と、付き合っていたんですか?」

「あ……ううん。つき合っては……いない……です。えっと……あの人も、いつもあんな口調で変なことばかり言うんですけど、全然悪気はない人なんです……それに……」

「――悪気はない? 本気でそう思ってます?」


 歩きながら困ったような顔で安本さんはオレを見上げた。


「あんなの、悪意しかなかったじゃあないですか。あんな大勢の人がいる店内で、他人を貶めるようなことを言って……」

「ホントにごめんなさい。嫌な思いをさせちゃいましたよね」

「謝らないでください。安本さんはなにも悪くありませんから。それよりも、あの人のどこが良かったんですか?」

「……優しかったんですよ。こんな私の相手をしてくれて、一緒にいてくれて。私、嬉しかったんです。それになにより……」

「なにより?」

「……好きだったんです。そのときは。今はもう、そんな感情はありませんけど」


 足を速めた安本さんは、オレの数歩前を歩きながら、ポツリと呟いた。

 店を出てからずっと堪えていた吐き気と頭痛と目眩に、一斉に襲われたような気がした。倒れないように必死に我慢する。


「そんなの、オレだって優しくしますよ。普通じゃないですか、そんなの。むしろもっと優しくなりますよ。あの人なんかよりずっと。だってオレは好きですよ、真緒さんのことが」


 地下通路から改札口の並ぶ通路に出たところで、安本さんが振り返った。


(え……なんでソレ……?)


 その頭上に大きな大仏がいる。半目を開けて、スンとした表情で胡坐をかいている。


「あの……とにかく、今日は本当にすみませんでした。この埋め合わせはまた別の形で……木村さん、今日はJRですよね?」

「あ……はい」

「JRの改札、左に曲がってすぐですから。私は今日は私鉄なので……じゃあ、また月曜日に」


 大仏を乗せたまま、安本さんは右側に曲がって私鉄の改札をくぐった。その背中が見えなくなるまで見送ってから、オレはJRの改札口に走った。

 トイレに駆け込み、吐けるだけ吐いた。

 それでもまだ、気分の悪さも頭痛も目眩も、おさまらない。こんなに当てられたのは久しぶりのことだ。

 とりあえず電車に乗り込み、駅で降りると兄の和樹に、迎えに来てほしいとチャットアプリで連絡を入れた。

 改札を出てロータリーのベンチに座ろうと歩きだしたところで、改札脇の立ち飲み屋から兄と匡史が出てきた。


「どうした弘樹?」


 なんだ。二人してそんなところで飲んでいたのか。

 それよりも大仏だよ。なんでなんだ。どういう意味なんだよ……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る