5-7.「決まっています。――仕事です」
ハタノの人生は、仕事に彩られているといっても過言ではなかった。
”才”という生まれつきの宿命を与えられ、物心つく前から医学の心得を説かれ。
チヒロと出会ったのも、帝都中央治癒院の長として慣れない業務を務めたのも、全ては仕事を中心とした出来事だった。
ハタノはそれを密かに心苦しく思いつつも、一方でそれを当然と思い受け入れてきた。
他に、選択肢が無かったからだ。
帝国という頑強な檻と、両親の教えという精神的な牢獄。
目の前に現れる患者は途切れることなく助けを求め、治癒師の職務として治癒にあたるのは人間として当然の義務であり、それ以外の道など考えたことすら、なかった。
けれど今、ハタノがいる異世界には自由がある。
帝国では許されなかった、仕事を選ぶ自由が。
チヒロと、ごく普通の夫婦として生活を営む自由が。
休日はゆるりと過ごし、夫婦で仲睦まじく出かけることもできれば、自宅でのんびりくつろぐことのできる自由が。
それは、ハタノが密かに夢見た、安寧の世界――けれど。
「チヒロさん。……すみません」
「何を謝るのです、旦那様」
「いえ。……ふと考えたのです。こちらの世界なら、チヒロさんを帝国の時ほど大きな戦火に巻き込まなくても済むのではないか、と」
いまは小康状態とはいえ、帝国は大きな外敵を抱えた身だ。
ガルア王国を落とし、チヒロという新戦力を加えたいま、諸外国が帝国に対する警戒心を高めていることは言うまでもないだろう。
隣国が結託し、帝国に攻め入ろうとする連合作戦を組んでいる噂も聞く。
帝国に安寧はない。
であれば、妻を愛する旦那として、ハタノはこの世界に残る選択をすることも可能なはずだ。
――けど。
「けど、私は。やはり私は、仕事は好きではありませんが、治癒師であるので」
「……その答えに至った理由を、お聞かせ頂いても?」
「理由は、色々あるのですけどね」
ハタノがベッドに腰掛け、チヒロが並ぶ。
座り心地の良すぎるスプリングがきしみ、寝転がりたい気持ちを抑えながら、ハタノはそっと息をつく。
「この世界は、私の視点から見れば、恵まれすぎている。確かに、治癒師としてこの世界に残った方が、活躍はできるでしょう。ですが、人の命をより多く救うという意味では……きっと、帝国に戻った方が良いでしょうね」
純粋な文明レベルの差。
この世界は医学的にも高度に発展しており、大して、帝国はまだまだ未熟。
ハタノがこの世界に残り、一介の医師として働くよりも、帝国にて自らの知見を広めた方が、総合的に見ればきっと役に立てるだろう。
「それに、一番の理由は、向こうに人を残してきたことです。サクラさんもですし、ミカさんやシィラさん。他にも、私の無茶振りに応じてくれた人々。……それと頭は痛いですが、雷帝様にもお世話になりましたし」
治癒師シィラ。治癒師ミカ。
特級治癒師のエリザベラ教授やネイ教授を始め、他にも自分を慕ってくれる者はいる。
ハタノが仕事を通じて知り合った彼等、彼女らを、見なかったことにして異世界に逃げてしまうような行為は……
どうしても、自分のなかで納得がいかない。
それに、雷帝様の無茶振りには頭を悩まされてばかりだが、ハタノとの約束を破ったことは、ない。
いざとなったら切り捨てる心持ちはあるだろうが、だからといって、ハタノの側から一方的に行うことは道理に反している――というのは、奇しくも雷帝様の述べた予言通りだ。
「この世界は、非常に魅力的ですが。私の居場所はやはり向こうのようです」
信じる、という言葉に、ハタノは弱い。
「……チヒロさんは、どうですか?」
「そうですね。私も、旦那様と似た感覚です。もちろん、生まれながら”勇者”として育てられたのも理由ですが、お世話になった方々を裏切るのは、心苦しくあります。それに――」
「それに?」
「純粋な理屈として。私は、この世界では帝国にいた頃ほど、お役に立てないと感じています。……むしろ旦那様を、より危険にさらしてしまう可能性すらあるかな、と」
チヒロ曰く、この世界の戦争は「進みすぎている」。
向こうの世界において、空はチヒロの独壇場。
が、こちらの空はすでに無人兵器が飛び交う主戦場の一つらしい。
「それに私では、こちらの世界にある毒ガス系の兵器相手にまで対抗できるかは分かりません。……それにもし、私達の情報が諸外国に漏れた時、どのような攻撃を受けるかは想像もできません」
「つまり、チヒロさんから見てこの世界は、決して安全ではない、と」
「ええ。一見平和ではありますが、いつ何時バランスが崩れるかわからない。そのような危うさも、感じます。……まあ、その気になれば飛んで行方をくらませても良いのですが――」
と、チヒロさんは理屈を丁寧に並べた後、ふふっ、と唇を緩めた。
いつもの妻らしい、愛しくも柔らかな笑み。
「まあ。結局は私も、あちらの世界にたくさんの仕事を残してきてしまったので。……”勇者”たるもの、仕事を途中で放り出してしまうのは、宜しくないかと。サクラさんとの約束もありますしね」
「ええ。……しかし、おかしいですね。私は、仕事はさほど好きではなかった筈ですが」
「はい。……結局、私達はどうしようもない仕事人間、ということなのでしょう」
瞳を細めてクスクスと笑うチヒロの横顔に、嫌悪の色はない。
汚れ仕事を担い”血染めのチヒロ”とまで呼ばれ、周囲から敬遠され……
それでも己の仕事に対し、不器用なまでに忠実なのは、いかにも自分の妻らしい。
ふと――ハタノは気づく。
自分は今後、どんな転機が訪れても、帝国を離れることは無いのだろうな、と。
雷帝様がご健在で、チヒロに害が及ばない限り、帝国の治癒師としてあの国に骨を埋めることになる。
昔の自分は、それを当然の職務として捉えていたけれど、今は――
自分の意思で、それを望んでいる。
チヒロの隣に立つために。
治癒師としての本能に従って。
自分を助けてくれた人を、裏切れないから。
理由は幾つもあるだろうが、それが自分の選択なのだと、妙にストン、と胸に落ちてしまった気がして、ハタノはふっと重たい息をついた。
「まったく。……私もチヒロさんも、揃いも揃って、本当に不器用ですね。もっと上手に生きれる道も、あったかと思いますが」
「はい。もっと気楽に、肩の力を抜いて、楽しく過ごすことも出来たとは思います。……でも」
「仕方ない、ですね」
「ええ。残念ながら、私達はそういう人間のようですから。――でも」
チヒロが細やかに笑い、ハタノの手にそっと指をかけて。
「そんな私と旦那様だから、こうして、愛し合えたのだとも、思いますよ。それを想えば、私はいまの人生において、何一つ後悔することはありません」
チヒロさんが慈愛に満ちた瞳を潤ませ、ハタノを見上げる。
ハタノはそんな愛しい妻の、涼やかな銀髪をそっと掬い、いつものように撫でてから。
「では、私達は私達らしく、いつものように過ごしましょうか」
「はい。……では今、出来る事は?」
「決まっています。――仕事です」
いつ、向こうの世界に戻れるのか。
或いは仮に、戻れないとしても、ハタノの成すべきことは一つ。
仕事だ。
自分達に期待してくれた人々のため、そして妻のために、ひとつでも多くの力を蓄えよう。
ハタノは妻に優しく口づけを交わし、ベッドに倒れ込みたい衝動を抑えながら、スマホを掴む。
一分一秒を惜しむように、専門サイトに掲載された医学論文を眺めながら――この学びが次の仕事に生かせることを期待しつつ、新たな知識の吸収に勤しんだ。
それが今、自分達にできる最善のことだから。
帝国――サクラから手紙が届いたのは、それから一月後のことだった。
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