4-2.「やっぱり腕枕、すぐに必要なくなりましたね」


 昔のハタノは、将来というものについて考えることは殆どなかった。

 仕事をし、帰宅し、医学の勉強に加えて読書をする程度の、淡々とした毎日。


 当然、恋人や家族に想いを馳せたこともない。

 自分の将来について考えたこともない。


 けど、今は――


「旦那様。……前にもすこし話をしましたが、私は、自分の将来について考えたことがありませんでした。職務上いつ命を落としても仕方がなく、歳を取った後について考える間もなく死ぬのだろうな、と意識していましたから」


 ベッドの上、自分の腕に優しくからみついたチヒロが、ハタノを柔らかく見上げてくる。

 僅かに潤んだ瞳に、ハタノは微笑みを返しながら彼女の銀髪を梳いて、そっと耳にかけ直した。


「ええ。私も、似たようなことは……」

「それが最近は、ごく普通に、将来のことを考えていることが多いのです。サクラさんは本当の子供ではありませんが、彼女の将来についてや、この仕事をいつまで続けられるか。……もちろん、旦那様に喜んで頂くにはどうしたら、なんてことも考えますけれど」


 ハタノの熱を押し上げることを、自然と呟く妻。

 お返しにそっと頭を撫でてあげると、チヒロはじゃれつく猫のように目を細めながら、甘えるように囁いた。


「旦那様。ひとつ、お願いがあるのですけれど……」

「何でしょう」


 愛しの妻の仰ることなら、何でも。

 と、笑ったハタノだが、彼女の申し出は細やかなものだった。


「腕枕をしてください」

「……そんなことで良いんですか?」

「はい。今日はすこし、甘えたい気分なので。……ああでも、腕枕ってじつは疲れるんでしたっけ」

「そうですね。長時間やっていると腕の神経が痺れて動かなくなることがあります。橈骨神経麻痺ではあるのですが、他にもハネムーン症候群だとか、サタデーナイト症候群と呼ばれているそうですよ」


 単語の意味は分かりませんが、とハタノは付け加えながら、チヒロの頭に腕を伸ばす。


「宜しいのですか?」

「そのまま寝なければ大丈夫ですよ。それに、その」

「?」

「……ベッドの上で仲良くしてる間に、体勢などそのうち変わりますし」


 寝間着を脱がせる時に、どうせ腕は外すので。

 と、暗に込めるとチヒロも理解したらしく、白雪のような頬を薄く染めながら、遠慮なくハタノの腕に頬ずりしてきた。


「まったく。私の旦那様は、じつにお熱い方なのですね」

「仕事ですので」

「本当にそれだけですか?」

「チヒロさんは、どうなんですか」


 チヒロは返事の代わりに、布団に潜り込んできた。

 掛け布団の下でもぞもぞとすり寄って密着され、ハタノは先の言葉もあって次第に興奮してきたのだが、一方でいまの子供みたいにじゃれついてる時間も惜しくて、黙る。


 そんなハタノの気も知らず。


「私は、旦那様の身体も心も、余すところなく好きですよ」


 唐突にとどめの一撃を放つので、ハタノとしては愛おしさと恥ずかしさに悶えてどうしようもなくなり、返事の代わりにチヒロを優しくなでなでする。

 チヒロは強さに反し、小柄で可愛らしいので撫でやすいし撫で心地がいいなあ。

 と、ドキドキしつつニヤついてると、チヒロさんがぎゅっとハタノの胸元に抱きついてきた。


 自分の胸元に耳を当てられ、鼓動を聞かれてると気づいたハタノは、なんとも言えない感情に襲われながら、そろそろ我慢出来なくなって――


「旦那様」

「はい」

「……最近改めて、私の子について考えることも、多くなりました」

「……そうですか」


 ハタノは微笑みを崩さないまま、チヒロの背中をそっと撫でる。


 夫婦の営みは存じの通り、そこそこの頻度で行っているが、未だチヒロが子宝に恵まれる様子はない。

 とはいえ“才”の高い者の出生率は、元々低いので焦ることはない。


「焦ることはありませんよ。チヒロさんも私も、まだ焦るような年頃ではありません。健康に問題がないことは診察でも分かっていますので、まあ気長に」

「いえ。そちらの問題も、考えないわけではないのですが……そうではなく」


 もぞり、とチヒロが布団から顔をあげ、ハタノを見やり。


「私も……生まれた子を、愛したいな、と。すこし、ワガママを」

「それは……」

「すみません。口にしただけですので」

「いえ。私も最近、似たようなことを考えましたので」


 帝国の原則では、”才”の高い子には帝国専属の教育係がつくのが基本となる。

 また現実問題として、治癒師はそもそも仕事が忙しく、勇者に至っては子育て以前に明日死ぬ可能性すらあるので、親として適切でないという実情もある。


 そう、わかってはいるし、無理筋だと夫婦共々理解している。

 でも。それでも――


「もちろん、私に子育てなど向いていないことは、理解しています。……もしかしたら、不出来な子に”勇者”の資質を押しつけてしまうかもしれませんし、上手くいかず悩むこともあるかもしれません。――でも」


 それでも、とチヒロは珍しく。

 本当に珍しく、ハタノに頬ずりしながら。


「旦那様と一緒なら……いえ。もしかしたらこれも、旦那様と末永く一緒に過ごしたいだけの、理由付けかもしれませんけど。それでも……」


 たぶん、チヒロも答えが出てないのだろう。

 或いは、心境の変化にまだ意識が追いついてないのかもしれない。


 まあ自分も似たようなものだが――と思いつつ、ハタノは瞼を閉じて、ゆっくりと、チヒロの銀髪をゆるりと撫でていく。


「まあ、気持ちはわかります。私も最近、サクラさんと暮らしていて、全く考えなかった訳ではありません。……普通の旦那。普通の夫とは、こういうものか、と」


 ”才”こそ優れたものを持っているが、それ以外はごく普通の男として、妻と結ばれ子を宿し、育てたい。

 実際には自分達だけで出来ることでなく、魔城住まいの様々な者の協力を借りることになるだろうが、それでも――きっと、後悔はしないと思うから。


「……旦那様は、無理とは言わないのですね」

「ええ。全く非現実的な話でもないと思いますしね」


 サクラの治癒が上手くいけば。

 と、ハタノは脳裏によぎったことを振り払い、欲をかく前にまずは目の前の仕事だ、と意識を正す。


 物事を正しくこなし、出来る限りの結果をきちんと出せば、必ず。


「チヒロさん。いまの私達は、帝国に対する貢献度が非常に高いと認識しています。もちろん常識の範囲内ではありますが、多少の無茶でしたら通る、というのが私の見立てです」

「……そう、でしょうか」

「雷帝様の機嫌がよい日に声をかければ、まあ」

「上司のご機嫌伺いみたいですね、旦那様」

「実際そうなんですよね……私はどうにも情けない男なので、自分でなにかを切り開く力はないようです」


 雷帝様のように、全てをぶち抜いて結果を掴む人間に、自分はなれない。

 どうしても臆してしまうし、他人を蹂躙してまで我を通すのが向いてない性格だ。


 それでも妻のためなら交渉事は行うし、可能な限り、チヒロをめいいっぱい幸せにしたい――。


「確かに、旦那様は仕事以外に関しては、押しが弱い時がございます。……でも代わりに、とても包容力の高い方だとも思います。弱い方の心に寄り添うのが得意といいますか」

「そうでしょうか」

「ええ。私に対しても、サクラさんや他の患者様に対しても、旦那様は必ずていねいに話を聞いてくださいます。相手の意図をなるだけ正しく理解し、相手に合わせた優しいお声をかけてくださるのは、旦那様の素敵なところですから」


 そんな旦那様に絆されたのですよ、と言われ、ハタノは心の中で密かに悶える。

 耳にじんと響く言葉はどうしてもハタノの心を良い意味でかき乱し、腕の中に抱きかかえた妻の姿がいつも以上に愛おしく見えてしまうのだからどうしようもない。


「チヒロさん。最近思うのですが、愛には限界がないと思うのです」

「……はい?」

「すみません。自分でも馬鹿なことを言ってるとは分かるのですが、こう。……うちの妻はもともと大変可愛いのに、毎日さらに可愛くなってしまうという意味で、限界がなくて」


 以前は恋愛感情というものがまるでわからなかったが、今なら分かる。

 恋は盲目。

 その人以外見えなくなる、麻薬のようなものかもしれない。


 ……と、ハタノが顔を赤くしていると、意味を理解したらしいチヒロが、ぽかんとして。

 淡い睫をぱちりと瞬かせた後、唇に弧を描くようにゆっくりと微笑みながら、そっと身体を起こした。


「それを言いましたら、旦那様。私も同じです。……といいますか、私もそろそろ我慢できなくなってきました」

「え。――っ」


 戸惑うハタノの腕からするりと抜け、チヒロが上になる。

 知らぬ間に両腕を押さえられ、逃げられない姿勢のまま口づけを落とされ、ハタノは息を飲んだ。


 ついばむようにふれあった後、ふふ、と笑う妻の唇にはいつの間にか妖艶な笑みが浮かび、ハタノはどきりとしつつも、今宵の誘いを受け止める。


「チヒロさん。やっぱり腕枕、すぐに必要なくなりましたね」

「旦那様にこれからたくさん愛された後、また腕をお借りします。それで、どうですか?」


 返事は見事に返され、一本取られたと思っている間に再び、口づけ。

 互いの舌を絡め合いながら衣服に手をかけ、ともに慣れた手つきで滑り落としながら、チヒロが興奮の混じる吐息をハタノに囁く。


「旦那様。たとえ私が子を宿したとしても、この世で一番愛おしく想うのは旦那様です。……仕事ではありますが、それ以上に、私がいかに旦那様を愛しているか、よく感じてください」


 いつも以上に愛に満ちた声をかけられ、自分ももうすっかり溶かされてしまったなあと思いながら。

 愛しの妻の素肌を撫でつつ、返事の代わりにもう一度、彼女に口づけを返した。

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