6-4.「勇ましい姿も、恥ずかしい姿も。その全てを含めて旦那様です」
「私は、昔に比べて、ずいぶん弱くなってしまったなと思います」
宝玉事件の夜。
チヒロはハタノの手をぎゅっと握り、芯の底から絞り出すように呟いた。
「昔の私は、たとえどれだけ人が死のうと、このような気持ちになることはなかったと思います。……そもそも業務上、私自身も含めて人が死ぬのは当たり前であり、そのことに逐一気を取られていては、業務に支障が出てしまいます」
戦場に立つ彼女にとって、人の死は日常的なものだ。
そして彼女は”勇者”。
泣いている暇があるなら人を助けるべきだ、ということは、彼女自身が最もよく理解しているはず。
その価値観は、ハタノも同じだ。
だから昔、ハタノはチヒロを見捨て、銃撃された雷帝様を先に、助けた。
それが最善だからであり、今もその判断は、論理的には間違ってないと思う――
「……でも、今は。私にはそれを成す自信が、ありません。……いえ。正確に言うなら、旦那様以外は見捨てられるとは思います。……ですが……」
「チヒロさん」
「ワガママな妻で、申し訳ありません。でも私はそれ位、旦那様の身を案じていますし……本当に、無事でよかったな、と」
ハタノの手を愛おしげに握るチヒロの声は、詰まるように震えていた。
誰もが寝静まった夜闇のなか、ちいさく、誰にも見せることのない小さな涙をうっすらと伝わせながら、彼女はじっとハタノを抱き続ける。
日頃、感情を表に出さないよう心がけているチヒロにしては、本当に珍しく――
彼女にそんな声を出させてしまうほど、悲しい想いをさせてしまったのは、旦那として失格だなとハタノは思う。
……けど。
そんな妻が居たから、今の自分は生きているのだ、とも、ハタノは思う。
「……ワガママなんかじゃ、ありませんよ。チヒロさん。そんな風に想ってくれるチヒロさんが居たから、私は今こうして生きることが出来たと、思いますし」
「そうなのですか?」
「ええ」
”才殺し”にて刺され、意識が遠のくなか、ハタノは自らの死を覚悟した。
事実シィラによれば、自分はほぼ死に至っていたという。
――けれど――
「刺されて死にかけた時、私は、チヒロさんの顔を思い出したのです。……私一人なら、死んでも仕方ない。人の死は、気力では抗えない。物理現象として、受け入れるしかない、と。……けど」
論理を重視するハタノは、それを当然のものと諦め、受け入れた。
宿命からは逃れられない、必然として。
人はどんな時でも突然死ぬのだと、治癒師として理解するのは必然のこと。
……けど、死の淵へと至る直前。
ハタノの脳裏に浮かんだのは、チヒロの姿だ。
チヒロはきっと、自分の死にも涙一つ流さないだろう。
彼女は仕事に私情を持ち込まない。
いつだって冷静に、成すべきことを成すだろう。
けれど、もし自分が死んだ後、彼女が一人になったら――
チヒロさんはきっと、誰も知らないところで唇をぎゅっと噛み、心の奥に深い深い悲しみを堪えながら、一人できっと泣いてるのだろうな、と想像すると――
死ねない。
もしここで死ねば、自分の妻は生涯にわたり悔い続け、誰にも知られぬ涙を流し続けることになるだろう。
そんなことは、彼女の旦那として。
いや。
彼女を愛した一人の男として、許される行為ではない。
だから、死ねない――
「私らしくない感情論ですが……生きよう、という意思が強い者が、生き残るというのは、本当の話かもしません。ですから私は、チヒロさんに命を救われたのです」
「……旦那様」
「きっと、チヒロさんのワガママな気持ちが、私の魂を呼び寄せてくれたのだと思いますよ」
もちろん自分の治癒に全力を尽くしてくれた、シィラを始めとした治癒師達のお陰でもあるけれど。
ハタノはさらりと妻を撫でながら、囁くように紡ぐ。
「どうやら私も、一人では死ねない体質になってしまったようです」
「っ――」
「なので、チヒロさんも勝手に死なないでくださいよ。私が、とても悲しくなりますからね」
約束ですよ、とハタノは妻の耳元で囁き、お願いする。
うちの妻は知らぬ間に、無茶をしてしまうことがある。
旦那としては、どうか、無茶をしないでほしい。
そう彼女に頼みながら、ぽつりと、ハタノは続けて口を滑らせる。
「それと……せっかくの機会ですので、私もすこし、ワガママを言わせて貰ってもよいでしょうか」
「え?」
「先程は強がりましたが、実を言うと、……やはり、死に瀕する経験というのは、恐ろしいものでして」
ハタノは無意識のうちに妻の袖をたぐり寄せ、自らの体重を預けるように寄りかかる。
――治癒師として、幾度となく人の死を目の当たりにした。
家族の悲嘆も、恋人の慟哭も、老夫婦の安らかな最期も看取ってきた経験がある。
それでも、自分自身が、死に至る恐怖は。
身体の中から血が零れ、冷たい冷たい海の底に沈んでいくあの感覚は……どんなに理屈で外堀を埋めたところで、生物の原始的な本能として抑えられるものではない。
死に至る瞬間こそ、冷静に判断できたけれど。
今になって思い返すと――
「……すみません。私もやはり、弱い人間のようです。チヒロさん」
ハタノは表情を見られたくないなと思い、彼女の胸元に顔を埋める。
チヒロは弱くなったと言ったが、ハタノも十分、弱くなった。
こんな風に、自分の痛みや弱みを誰かに分かってもらおう、だなんて。
分かって貰える相手が出来るなんて、昔は想像すらしていなかったのに。
呼吸を荒げ、俯きながら息をつくハタノ。
その背を、チヒロが優しく撫でる。
――大丈夫ですよ、と。
母親が子供を諭すように、優しく、甘く。
その事実が、ハタノの中に詰まった苦痛の塊のようなものを、ゆっくりとほぐしていく。
「……旦那様。死ぬのが怖いと思うのは、ごく普通のことです。むしろ旦那様は、人としては強すぎる方です」
「……そうでしょうか」
「ええ。それに昔、私にも話してくれたではありませんか。私が死にかけ、震えていた時、旦那様はこう仰いました。私達は夫婦であるのだから、妻は夫に対して弱みをみせてもいいのだと」
「……チヒロさん」
「旦那様にどれ程の自覚があるかは分かりません。ですがあのとき、私の心は本当に……深く、心の底から深く、救われたのです」
彼女の腕がするりとハタノの後頭部に回り、自らの胸元で包むように、優しく抱きよせられていく。
妻の身体を、柔らかさを。
熱を、命の温かさを感じるたびに――ハタノの内側から失われた熱が不思議と、満たされていく。
その耳元で、妻チヒロがゆるりと、囁く。
「ですから、今度は私から、お返しをさせてください」
「――っ」
「私はあなたと夫婦であり、私はあなたの妻です。それに勇者だって、守秘義務は守ります。例えあなたがどのような姿を見せようとも、……誰にもバレることはありません」
「……ですが、そんな恥ずかしい姿は」
「見せてください」
きっぱりと言われ、ハタノは呼吸を止める。
顔を上げると、チヒロの、宝石のようにきらめく瞳がハタノをまっすぐに見下ろしていた。
夜風に晒された銀髪を流しながら、聖母のように微笑む、妻の素顔が。
「勇ましい姿も、恥ずかしい姿も。その全てを含めて旦那様です。そして私は、そんな旦那様のすべてを知りたいなあと思います」
「チヒロさん……」
「それに私だって以前、旦那様の胸の内で泣いたのです。私だけ醜態を晒したままというのは、夫婦として不公平ではありませんか?」
そう言われ、ハタノはぐっと喉を堪え――
けれど我慢できず、ほんの少しだけ……
ふるりと、震えた。
――ハタノはその人生上、泣く、という経験をした記憶が殆ど無い。
だから、自分がうまく涙を流せたのかは分からない。
それでも、胸の内で凝り固まったしこりのようなものが、ちいさな嗚咽とともに溶け出していくような。
人生で初めて触れる、芯の底に詰まった枷をそっと外し、己の感情を、誰かに構うことなく押し出す行為は……
自分でもうまく言葉にできない。
けれど、生涯忘れられない心の揺さぶりをもって――人生で初めて、誰かに救われたのだという経験を与えることになったのだった。
*
――宝玉事件の深夜、ハタノが人生で初めて涙を流したあのときのことを思い出しながら、隣のチヒロを撫でる。
撫でる、というか、愛でる。
妻は昼間のベッドで、くすぐったそうに、幸せそうに身をよじり、ハタノにすりすりと寄ってくる。
最近の妻は本当に遠慮がなくなってきたが、だからこそ、ハタノは幸せだ。
妻が居る。
心を許せる人が側にいるというのは、本当に、素敵なことだと思う。
そして改めて、自分はこの妻のために今を生きているのだなと思う。
「チヒロさん」
「はい」
「……私が年老いて死ぬまで、ずっと一緒に居てくださいね」
自然と出た言葉は、およそ、ハタノの人生に相応しくなく。
けれど彼にとって最も自然な、愛の告白でもあった。
チヒロは一瞬目を丸くして驚き、けれどすぐ、口を尖らせて。
「旦那様。その約束は、守れないかも知れません」
「え」
「だって」
拗ねるように、言い返す。
「旦那様が先に亡くなられたら、私が寂しくて死んでしまいます。……ですので、私が年老いて死ぬまで、旦那様には生きてて貰わないと」
「成程。でもそれではお互い、いつまで経っても死ねませんね」
「ええ。ですので」
と、チヒロがハタノの頬をつつき、くすっと笑った。
「もしどちらかが亡くなる時は、……一緒に亡くなりましょう。勇者としてあるまじき発言ですが、その時は」
「そうですね。まあもちろん、進んで死ぬ気はありませんが、頑張って、お爺さんお婆さんになるまで生きましょうか」
いままで、老後の人生についてなんて、ハタノは考えたこともなかった。
けれど、この妻が生涯隣にいてくれるのなら……
歳を取るのも悪くないな、と。
妻チヒロと様々な経験を積み、同じものを見ながら、ゆっくり歳を重ねていく。
それはきっと、素敵な未来なのだろう。
……ハタノが微笑むと、チヒロもまた口元をゆるめて笑みを浮かべ。
互いに、自然と口づけを交わした。
昼間のそよ風が吹き込む、柔らかなベッドの上。
互いに身体を重ねるわけでもなく、のんびりとした昼下がりの午後を過ごしながら。
ああ。
こういうのを、幸せと言うのだろうな、と、ハタノは形のない思考でぼんやりと考える。
願わくば。
どうか、こんな幸せな時間が、いつまでも続きますように。
それが叶わぬ願いであると知りながら、ハタノはそれでも祈り――
ハタノ達が雷帝メリアスに呼び出されたのは、その日の深夜のことだった。
「来たな、二人とも。まあ座れ」
帝国にある、とある会議室。
雷帝様が自身の玉座以外に人を招くのは珍しいと思いつつ、困惑気味に座り――違和感に、気づく。
かの雷帝様が、……ハタノやチヒロを跪かせることなく、対面に座っている。
こんなことは初めてだと困惑していると、雷帝様は珍しく言いにくそうに金髪をいじり、ぱちぱちと火花を散らしながら。
「余も、珍しく悩んだのだがな。この仕事は、お前達に預けようと思う」
「仕事、ですか」
「そうだ。帝国の……いや、世界を揺るがす可能性のある――下手すれば、お前達にとって最後の仕事になるかもしれん業務だ」
ハタノが眉を寄せ、チヒロが察したように、わずかに俯き。
雷帝メリアスは溜息交じりに、ハタノに人生最大の”仕事”を依頼した。
「極才”異界の穴”。余の銃撃事件に始まり、地下組織アングラウスの根幹を成していた存在。そして”宝玉”事件の黒幕――その対応を、お前達に頼みたい」
――――――――――――――――――――――――
次回で三章最終話となります。
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