6-3.「私がどうして泣いているか、分かりませんか。旦那様」
久しく訪れたチヒロの実家は、月日をまたいだ割には埃もなく綺麗だった。
見慣れた木造の長テーブル。
簡素な家具と椅子だけが並ぶ、ただ機能性だけを追求したような広々とした室内に、ハタノはなんともいえない懐かしさを噛みしめる。
ああ――本当に、何もない。
けど、この家にはハタノが初めて妻と出会い過ごした日々が、いまも思い出の中にぎゅっと詰まっている。
染みついた匂いこそ薄れているものの、紛れもなく、二人が月日を重ねた家だ。
「意外と綺麗に整ってますね、チヒロさん」
「ええ。実はこちらの家、地元の方にお願いして管理してもらっているのです。元々、母の実家でもありますので」
チヒロとしても、取り壊すのは惜しく感じたらしい。
「とはいえ、埃は貯まっているようですし。まずは掃除をしましょうか。……すみません、旦那様。せっかくのデートに」
「いえ。むしろ楽しいくらいです」
うまく言葉にできないが……
自分達が大切に過ごした家を、綺麗にする。
それは、ハタノ自身にとっても大切なことのような気がした。
布マスクを身につけ、裾をまくるハタノ。
チヒロもお手製のエプロンを羽織り、もともと家にあった箒を取り出しぱたぱたと掃除を始めた。
折角なので布団を干し、ついでに窓の隅に残っている埃も払う。
お風呂掃除は少々手間取ったが、もともと身体能力の高いチヒロがすいすいと片付けてくれた。
そうして迎えた午後。
ハタノ達はリビングに自然と腰掛け、買ってきたサンドイッチをのんびりと口に運んでいた。
妻チヒロも緩やかに微笑み、窓から吹き込む風にゆるりと銀色の髪をなびかせながら涼んでいる。
掃除を終え、何もしないお昼時。
二人とも喋らず、けれど息苦しくもない、不思議な……。
例えるなら、人生の休息を取るように、のんびりとした時間を過ごしていく。
(不思議です。……何もしていないのに。妙に、落ち着く)
治癒院の慌ただしい喧噪からも、政略が跋扈する帝都魔城の空気とも、違う。
自分のための時間を、ただゆっくりと味わうためだけに過ごす、落ち着いた時間……。
「……旦那様。幸せですね」
「っ」
「あ。すみません、何だかふと思ってしまって。……ふふ。こんな私の姿、母が見たら驚くでしょうけれど」
ゆるりとチヒロが微笑み、ハタノはその笑顔にまた見惚れてしまいそうになりながら、ふと返す。
「チヒロさんのお母様は、どのような方だったのですか?」
チヒロが母親の話題を出すのは、珍しい。
亡くなっていることは聞いていたし、チヒロも話題にするのは避けている空気があったため、今まで聞かなかったが……彼女の母は、どんな人だったのだろう?
「そうですね。一言でいえば、勇者の鑑のような方でした。帝国のため、民のためであれば死をも恐れず、誰よりも苛烈で、勇敢。私よりも余程、すばらしい方でした」
「チヒロさんよりも、ですか」
「昔から、私は母のようになれないことにずいぶん悩みました。つまらない感情に引っ張られる自分が、ずっと、嫌いだったのです」
チヒロが眉を落とす。
”勇者”という才に従事するのに、感情は不要。彼女らしい考えだ。
けど、そんな顔をしなくても……と思う。
「チヒロさん。でも私は、いまのチヒロさんが好きですよ。……そうやって感情的に、思い悩むところも含めて」
「……ん」
チヒロは真面目な仕事人だ。与えられた業務は必ず遂行する。
けど同時に、彼女は愛情深い女性でもある。
仕事に忠実であっても、心の底では悩み、考え――けどその悩みこそ、彼女が感情豊かである証だとハタノは思うし、そんな妻だから素敵なのだ。
「そうやって真面目に考えたり、悩んだりするから、私はチヒロさんに惹かれたのだと思いますし」
「……ありがとうございます、旦那様。……私はきっと、母とは違う勇者になるのでしょうね」
「ええ」
それでいい、と思う。
人は、憧れた誰かになる必要なんか、ない。
自分は自分の道を行き。
そしてもし奇跡的に、そんな自分に寄り添ってくれる相手が現れたとき――人は、恋に落ちるのかもしれない。
……なんてのは、少々、詩的すぎる表現か。
「旦那様のご両親は、どのような方だったのですか? 答えにくければ、話さなくても良いのですが」
「そうですね」
ハタノもあまり、両親の話題は挙げたくない。
けど、この時はごく自然に語れたと思う。
チヒロが相手なら、何を話しても許されるだろうと思ったし……
今の家が、二人にとって思い出の場所だというのも、理由だったかもしれない。
「私の両親は、医学に対して強い執着を持っていました。……私の実家、レイ家は昔、帝都中央治癒院から追放されてまして」
詳しいことは、実はハタノにも分からない。
ただ一つ言えることは、彼の両親は治癒魔法を中心とした医療に対して明白な敵対心を抱き、ハタノに、解剖学に基づいた外科医療の基本をこれでもかと叩き込んだ。
と、字面だけを見ると正しく聞こえるが……
あれは妄執のようなものだったと、思う。
患者のためではない。
両親は自分達が正しいのだと証明する手段として医学を利用し、一人息子であるハタノを、そのための道具にすべく育てていた節がある。
もちろん、愛されなかった訳ではない。
ハタノが勉強と実践を頑張れは、両親はきちんと褒めてくれたし、食事や生活についても過不足なく揃えてくれた。
思い出そうとすると、記憶に霞がかった部分はあるが、悪い親ではなかったと思う。
「まあ、良い両親であったかと言われると、分かりません。しかし、悪いだけの親でもなかったとも思います」
「ええ。思えば、私の母親もそのような方でした」
「複雑ですね、親というのは」
「はい。……おそらく私も旦那様も、些か普通の人とは違う形で成長したのだと思いますが……けどそのおかげで、私達が今こうして出会えたとも言えますしね」
「ええ。まあ、直接のきっかけは、雷帝様のワガママですが」
「あの方にも感謝すべきでしょうか?」
「どうでしょう。感謝などしたら、逆に気持ち悪がられそうですけども」
くすくすと二人で笑い、また、ゆるりと時間を過ごした。
昼食を終え、ハタノは少しだけ読書を挟み。
チヒロはその間に、ちょっとした片付けをこなす。
それから二人揃って手が空いたので、のんびり昼寝をすることにした。
綺麗な布団の上、日向ぼっこをする猫のように、ごろりと転がる二人。
幸い二人の家は郊外にあるので、お天道様の昇っている真っ昼間からいちゃついても良かったが――
それよりも今は、そよ風の凪ぐ静かな時間をただただ味わいたいと思い、ハタノもチヒロも黙って身を寄せ合う。
心地良いな……と。
ハタノが心の淀みを洗い流すように息をつくと、チヒロがころんと転がり、ハタノにおでこをこすりつけてきた。
「旦那様」
「はい」
「呼んでみただけです」
「そうですか」
ハタノは甘えてくる妻の銀髪をさらりと撫で、よしよし、と撫でてあげながら笑う。
「チヒロさん」
「はい」
「呼んでみただけです」
「嬉しいです」
そうして二人、ただベッドで穏やかに過ごし、ハタノは頬をゆるめながら。
ふと、二ヶ月前のことを思い出す。
ハタノが刺され、生死の境から生還したあの日。
瀕死の重傷を負いながらも、何とか仕事を終えてベッドに横たわった、あの時のこと――……
*
”宝玉”爆発事件当日、深夜。
ハタノは痛みに耐えきれず、ふと目を覚ました。
暗闇の中ズキズキと痛む全身を押さえ、やはり、少し痛覚遮断を使うか……と自身に魔法をかけようとして。
ふと、ハタノのベッド側に寄り添う影に、気づく。
――こんな深夜に、誰だろうか。
そう思いながら覗き込み、ハタノはそれがすぐに、愛しの妻だと気づく。
「チヒロさ……」
と、声をかけながら伸ばした手が――ふと、止まる。
それは、ハタノにとってあまりにも自然なこと。
何故なら、薄闇の中……
顔をうつむけ、じっと暗闇を見つめていた彼女の頬に――
薄闇のなかでも分かる、小さな滴が浮かんでいたから。
「……?」
己の痛みも忘れ、ハタノは彼女を気遣うように、声を抑える。
「……どうしましたか、チヒロさん。泣いてる……の、ですか?」
彼女はなぜ、泣いているのだろう?
自分は、妻を泣かせるようなことをしてしまっただろうか?
動揺しながらも、旦那として愛しい女を泣かせたくないハタノは暗闇の中、そっと彼女の背をさする。
大丈夫。
心配しないでください。
何に泣いているかは分からないが、自分がついている、と。
けれど、妻チヒロは僅かに俯きながら、ぎゅっとハタノの手を握りしめて。
「私がどうして泣いているか、分かりませんか。旦那様」
「……はい」
己の鈍さを申し訳なく思いながら、そう応えると――
チヒロは濡れた瞳を揺らしながらこちらを見上げ、ハタノに己の身を預けるように寄りかかり、ぐすん、と鼻をすすった。
「私は、怖かったのです。――旦那様が、もしかしたら死んでしまったのでは、と、思って」
「……え」
「分かりませんか。私の感じた、この恐怖が」
耳元で囁かれ。
お願いですから、勝手にどこかに行かないでください……と。
気づけば、ハタノはごく自然な動作で、彼女に抱き留められていた。
ふわりと感じる、彼女の温もり。
幾度となく抱き、抱かれたその身体が小さく震えていることに、ハタノはじっと唇を噛む。
ずきん、と背中が痛んだが、その痛みもまた彼女の感じた悲しみのような気がして、ハタノは甘んじて受け入れる。
そして大変、申し訳なく思う。
――私はまた、妻を辛い目に遭わせてしまったな、と。
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