4-3.(この幸せが、長く続きますように)
(ようやく、お休みになられましたね。……大分、良くなってきましたか)
指を絡ませたまま寝息を立て始めたハタノを見つめ、チヒロは愛おしげに頬を緩ませていた。
寝苦しそうな汗をそっと拭うと、ん、と旦那の眉がわずかに歪む。
その寝顔に思わず触れたくなるチヒロだが、起こしてはいけない、と自分のワガママを押さえるように自分の手を抑える。
(本当に、旦那様は分かっておられません。私がどれだけ、旦那様に救われているのかを)
寝苦しそうな旦那を見つめつつ、チヒロは母との記憶を思い出す。
――チヒロ。”勇者”は帝国のために、命を賭けるのは当たり前のことなのよ。
――いつか、あなたにもお母さんの気持ちが分かる時がくるわ。
昔のチヒロは母の教えを当然と思い、疑問の欠片すら抱かなかった。
帝国のために戦い、帝国のために子を成し、民を守る。
そしていつか”勇者”の責務に従い、民を守るために死ぬ。
事実、チヒロは一度その身を弾丸に貫かれ――
あのとき、チヒロの人生は”勇者”として終わっていたはずだった。
……けど、現実はどうか。
旦那にその身を救われただけに留まらず、彼自身に愛しく求められている。
最初はお互い、仕事として。
けれど知らぬ間に、チヒロは彼に想いを寄せ、やがて抑えきれずチヒロはハタノを求め。
旦那に至ってはそんな自分を守るために、大きな仕事を引き受けた。
(本当に、こんなことになるとは想いもしませんでした。……本当に、旦那様には教えられてばかりです)
ハタノはチヒロに救われたと言うが、救われたのはチヒロの方だ。
命だけに限らず、人としての幸福を知り。
血染めの世界しか知らず、それを当然としていた自分に、世界の彩りを与えてくれたのが、自分の旦那だ。
眠りについた彼の指に自分の指先を絡めつつ、チヒロは笑う。
旦那様は、本当に。
本当に、ご自分の価値を分かっていない……と。
だからこそ――チヒロは彼の先程の質問に答えられず、ぎゅっと、拳を握りしめた。
……勝手に、どこかに行ったりしないで欲しい。
ハタノの望みであり、チヒロの願いでもあるが、それでも心の中をよぎるのは雷帝様の話。
“異界の穴”。
場合によっては、チヒロは致死率が極めて高い作戦に従事する可能性がある。
そしてもし自分が作戦に従事しなければ、帝都はおろか帝国の存亡に関わる可能性のある脅威。
……自分一人の命なら、いくらでも捧げよう。
”勇者”は元より、そのために生きている。
(けど。もし私が死んだら、旦那様は……?)
旦那様は。ハタノは、とても心の強い人だ。
チヒロの死などものともせず、仕事に従事するかもしれない。
けど、もし……立場が逆であれば?
ハタノがある日、「仕事なので死んできます」とチヒロに挨拶し、そのまま帰ってこなかったら――想像するだけでチヒロは、ずきん、ずきんと胸が痛み、世界が死んだように白くなる。
嫌だ、と勇者らしくない痛みが全身を襲う。
旦那様がこの世からいなくなり、自分一人だけ置いて行かれるなど。
そして、チヒロですら恐怖にすくむのなら。
……旦那様もきっと、同じような不安に苛まれるのでは、と思う。
(あくまで私の想像です。けど、私は。……私はいま、とても愛されている。その相手を失うことは、辛い)
下手すれば、自分が死ぬより辛いかもしれない。
死ねば人は終わりだが、残された者はその過去を引きずりながら生きていくしか無い。
そう考えればむしろ、……先に死んだ方が楽とも言えるが――
(違います。死ぬ訳にはいきません。たとえ相手が”異界の穴”であろうとも、二人揃って生きていく、それが目指すべき道。……けど、現実はいつだって残酷です)
チヒロも勇者として、幾度となく戦場を見てきた。
その中には当然、家族のために生きていくと誓い、その夢叶わず命を落とした者が無数にいる。
自分がその骸の一員にならない、と思えるほどチヒロは楽観的ではない。
眠りにつくハタノの指先を、チヒロは不安を誤魔化すようにぎゅっと掴む。
不透明な未来のことについて、考えすぎても仕方ない。
それは、分かっているけれど……。
(私はすっかり、弱くなってしまった。これも全部、旦那様のせいなのです)
チヒロは俯き、愛しい旦那に八つ当たりして――
我慢できず、寝ている彼の手を握る。
(悩んでも仕方ありません。私は、いま出来ることをきちんとやるだけ)
旦那様の笑顔を守るために。
この人と、もっと長く過ごしたいという自分の希望を叶えるために。
旦那様と、いつでも仲良く手をつなげるように。
チヒロに出来ることは飛行訓練で正しく研鑽を積み、もし”異界の穴”封鎖任務が来たときに備え――
自分の生存率を、極限まで引き上げることだ。
(丁寧に。やれることを頑張る。……その考えは、旦那様と変わりない)
胸の内にちいさな覚悟を秘め、チヒロは旦那の寝汗をそっとぬぐう。
ん、と寝言を呟くその横顔に思わず口づけしたいのを我慢しながら、チヒロはふわりと頬を緩めた。
――どうか、少しでも。
この幸せが、長く続きますように。
ハタノが妻に告げた言葉は、奇しくも、チヒロの願いと同じもの。
その感覚を共有できたことを、すこし悲しく思いつつも、私は決して死なない、とチヒロは決意を新たにする。
――意思の力など、絶対的な暴力の前にはあまりに無力。
けれど。
極限状態において、意思の強さこそが極めて薄い生死の境を乗り越える力になることを、チヒロは経験上よく理解していた。
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