4-2.「いまの私はとても幸せです」

 ”風邪”。

 帝国では流行病だとか、妖精のイタズラと呼ばれるこの症状への対処法は、持続回復とポーションによる体調管理が主になる。

 場合によっては喉の炎症に対し”治針”で治癒魔法をかけることもあるが、大抵は安静で済ませておけばよく、高齢であるとか極端に体力がない状況でなければ、大して問題にならない病である。


 ――というのは、治癒する側としての認識に過ぎなかった。


「旦那様。寝苦しくはありませんか? 手ぬぐい、変えましょうか」

「ありがとうございます。……チヒロさんは、仕事は?」

「本日はお休みを頂きました。魔力の休息日も必要ですので」


 チヒロがそっと微笑み、ハタノも笑顔を返そうとして軽く咳きこんだ。

 絡みつく喉の痛みに顔をしかめる。

 倦怠感、と、単語として書くのは楽だが、ただ寝てるだけなのに体力を奪われていくのは正直キツい。


 自分で汗をぬぐいつつ、心配させたくないなと思い「大丈夫です」と告げるハタノ。

 チヒロは「畏まりました」と、心配そうにしつつも立ち上がり、そのまま付かず離れずの距離に腰掛け、のんびりと読書を始める。


 何かあった時には、声をかけてください。

 けど、必要がなければゆるりとお休みください。

 そんな心の声が聞こえてきそうだ。


 正直に言うと、ほっとした。

 あまり心配されすぎても、チヒロに対する申し訳なさが募るからだ。


(心地良い……相変わらず、妻の距離感はありがたいものです)


 ハタノも妻を愛しているし、チヒロからの愛情を今さら疑うことはないが、それでも相手の負担になるような関わり方はしない。

 心配されすぎても負担になる、ということを、チヒロはよく理解してくれている。

 その距離感が、相変わらずありがたい。


(……そういえば昔、私が病気にかかった時は、どうだったか)


 寝ぼけながら、ふと昔のことを思い返す。


 ”一級治癒師”の才を持つハタノとはいえ、全く病気にならなかった訳ではない。

 子供の頃も、たしか高熱と腹痛に悩まされ、布団に籠もっていたとき、両親はどうしていたか……。


(ああ。私の症状を聞きながら教科書を開いて、診断方法を教えてくれたんでしたか)


 痛むお腹をぎゅうっと押され、圧痛や反発痛について、上腹部痛や下腹部痛の違いやチクチク感、ズキズキ感などについて熱心に解説していたのを、熱にうなされながら聞いた気がする。

 ――治癒師が病気になるなんて素晴らしい機会だ。

 きちんと勉強しておきなさい!

 と、言われたような。


 普段以上に興奮する父。それを見守る母。

 あれは病の治癒というより勉強の一環で、ハタノはあの時ばかりは正直うんざりしつつ、苦しいときに自分に関わらないでくれ、とさえ思った気がする。


 ハタノはそっと、妻を伺う。

 チヒロがすぐに気づいて、視線で、どうかしましたかと尋ねてくる。


「いえ。何でもありません」


 何でもない。

 本当に、何でもない。

 風邪をひいた旦那と妻が、同じ部屋で休んでいるだけの、たわいのない日常の一幕。


 けど。


(そうか。家族が家にいると、看病してもらえるのか……)


 勉強しろとか、その痛みを覚えておけとか。

 側でイライラされたり物音を立てられたりせず、ゆっくりと心おきなく休めるというのは……。

 いや。

 休ませてくれる妻がいるというのは、それだけで本当に、幸せなことなのだと思う。


(夫婦というのは、すごいですね)


 風邪という病を、ハタノは知識として理解している。


 けれど、病にかかった時に、両親と過ごすのと。

 一人で過ごすのと。

 恵まれた妻と時間をともにするのとでは、こんなにも違うのか、と思う。


(本当、私は幸せものです)


 ハタノはぎゅっと布団の端を握りながら、熱にうなされたものとは違う喜びを、ほんのりと噛みしめた。






 ハタノのかかった風邪は些かタチが悪かったらしい。

 夕方になって熱が上がり始め、咳きこみつつ水を頂くと、チヒロさんが心配げに水を替えてくれた。


「どうですか」

「熱が上がってきたようです。……とはいえ、体温の上昇は体内の抵抗力を高めるために必要なので、いずれ下がるとは思います」

「私は医学に詳しくありませんが、旦那様がそう仰るのなら。……私に、出来ることはありますか?」


 特にない。

 が、ハタノはくらくらする目眩を抑えつつ、少しだけ――ワガママを口にした。


「良ければ、側に居て貰えませんか。べつに、近くで手を握っていて欲しい、とかではないのですが……」

「それ位で宜しければ」


 ふふ、とチヒロがはにかみ、ハタノの横に椅子を並べる。

 妻の横顔を見ていると、ハタノは妙に安心する。


 ……こんな風に、仕事のことを考えずただ寝る時間を得たのは、いつ以来だろうか?


 ハタノは体内の熱を逃がすように息を吐き、ぼんやりと天井を見上げながら……。


「仕事を始めてから、風邪を引いたのは初めてですが……ちょっと、不思議な気持ちになります」

「といいますと?」

「病気なのだから、休んでもいい、という免罪符を貰えたような気がするのですよね」


 健康でいるのなら、仕事をしなければならない。

 時間があるなら働くなり学ぶなり、何か、ためになることをしなければならない。


 日々、心が急いてしまうハタノとしては――こんな風に休める機会を貰えたのは、何だか不思議な気持ちになる。

 帝都民としては失格ですけどね、とハタノが笑うと、チヒロもくすくすと苦笑した。


「旦那様も、時には好きに休んで構いませんのに」

「それ、チヒロさんが言いますか? チヒロさんも結構な仕事中毒ですよ」

「旦那様ほどでは無いと思いますが。それに私は”勇者”ですので」

「勇者以前に、チヒロさんは人ですよ」

「その言葉、旦那様にそのままお返しします。……それに、私を人にしてくださったのは、旦那様ではないですか」


 さらりと返され、ハタノは言葉に詰まる。

 一本取られたなと唇を閉じていると、チヒロが面白そうに笑い、ベッドの袖からするりと指を探し、そっと絡めてきた。


 ついドキリとするハタノの前で、チヒロがふんわりと頬を緩ませ、笑う。


「旦那様は常々、働き過ぎなのです。旦那様とて人なのですから、疲れた時はお休み頂かないと……妻も困ってしまいますよ」

「……そう、ですね。妻のためにも、たまには安心して休まないといけませんね」

「ええ。子守歌でも歌いますか?」

「勘弁してください……」


 そこまで子供ではありません、とハタノは男の意地でお断りしつつ。

 けど、妻のお陰でゆるりと休めるのも本当です、と、妻にそっと呟いた。


「チヒロさん。風邪を引いた身で言うのもなんですが、いまの私はとても幸せです」

「……私もですよ」

「……なので、その」


 意識に段々、もやがかかる。

 疲労とともに眠気に誘われ、ハタノは妻の手をぎゅっとに握りしめながら、自分でもどうしてそんなことを呟いたのか分からないが――

 夢心地の中、彼女の指にその手を絡めながら、落ち行く意識のなかで呟いた。


「私の知らない間に。勝手に、どこかに行ったりりしないでくださいね……?」


 どうしてそんなことを呟いたのか、分からない。

 ただ、無意識の中から零れ落ちた言葉は、紛れもなくハタノの本音で。


 妻チヒロはその手を握りしめ、――返事をすることなく、ゆるりと微笑むのみだった。

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