4-1.「言わせないでください、旦那様」

 ハタノが帝都中央治癒院の長を務めて、二ヶ月が過ぎた。

 相変わらず院長の仕事はトラブルも多く、慌ただしい日々ばかりだ。


 とはいえ、ハタノが始めた業務も少しずつ軌道に乗ってきた。

 院長外来は予約待ちが発生するほど。

 ハタノ一人では手が回らないためシィラにも任せているが、彼女も手一杯で目を回している程である。


 勉強会も、順調。

 最近は参加者も増え、元々使っていた会議室では足りなくなったため講堂にて講演を行っている。

 出席時期がばらついたため学習範囲に大きな差がでる等、別の弊害も出始めたが、盛況なのは良いことだ。


 グリーグ教授は公聴会の一件以降、表だった活動はない。


 そんな風に、目まぐるしくも充実した日々を過ごしていた、ある日――





「以上で、本日の勉強会を終わります。……くしっ」

「ハタノ先生? 先程から鼻をすすってますが、風邪ですか? 最近お忙しいようですが……」

「ご心配なく、シィラさん。そもそも一級治癒師の私が、風邪など引くはずありませんし」


 ”才”の高い者ほど病気にかかりにくいのは、常識だ。

 その上ハタノは一級治癒師。

 戦闘能力こそ高くないものの、持ち前の自己治癒能力があれば、風邪なんかにかかるはずもない。


「でも、ハタノ先生。貴族の中にも風邪にかかる方はいらっしゃいますよ? ストレスによる影響は無視できませんし……」

「シィラさんは心配性ですね。まあ、その慎重さは治癒師として大切なものです」


 ハタノは先輩らしく、シィラに笑いながら……

 正直、余裕をぶっこいていた。

 まさか仕事人間の自分が、風邪にかかるはずはない、と。


 気楽に構えつつ、とはいえ昨夜からくしゃみと喉の痛みがあるな、と思いながら帰宅して……。

 気がつくと、バタッ、とベッドに倒れていた。


 ……あれ?





「旦那様。本当に大丈夫ですか?」

「はい……申し訳ありません。まさか本当に、風邪をひくとは」


 咳に発熱、全身の倦怠感に、何となくぼーっとした感じ。

 さらに帰宅したチヒロから「旦那様、顔が赤いですよ」と言われれば、もう認めるしか無い。


 体調不良のようですと告げると、チヒロはすぐにハタノをベッドへ案内し、布団をかぶせてくれた。

 続けて薬用ポーションや水差しをそろえ、手ぬぐいまで用意してくれる。


 ハタノは感謝しながら汗の張り付いた上着を着替え、溜息をつく。

 まさか、一級治癒師が風邪とは……恥ずかしいにも、程がある。


「これは参りましたね。食事を魔力ポーションで補っていた頃でさえ、風邪など一度も引かなかったのに」

「院長業務の負担が出てきたのかもしれませんね。人の精神状態は、魔力にも強い影響を及ぼしますから」

「だとしても、一級治癒師が風邪とは……」


 これが治癒師の不養生というやつだろうか。

 参った。

 二ヶ月が過ぎた今でも、仕事は山積み。

 通常外来に、勉強会の準備。

 帝国議会への出席なども含め、大人しく休んでる暇はないのだが――


「やはりここで、仕事を開けるわけには……」


 と、起こそうとした身体に、すっと手を差し出され止められた。

 見れば、チヒロがハタノを優しく、けれど咎めるように目を細めている。


「旦那様。仕事は大切ですけれど、時にはきちんと休むのも、仕事ですよ」

「しかし……」

「旦那様は、何のために仕事をされていますか?」


 ……確かに、と、ハタノは小さく嘆息する。


 昔の自分は、仕事をこなすために仕事をしていた。

 帝国の命令だから。患者が目の前にいるから。それが普通の人間だから、と。


 けど、今は違う。

 ハタノが院長職を務めたのは、命令ではあるものの、同時に最愛の妻であるチヒロを守るためだ。

 病を押してまで仕事をしても、妻は決して喜びはしないだろう。


 ――そう分かっていたはずなのに、当の妻にそんな台詞を言わせてしまうとは。


(旦那というのは、難しい)


 チヒロと出会ってそこそこの月日が経つが、自分はまだまだ、旦那としての自覚が足りないらしい。


 チヒロの白い指先が、ハタノの額にゆるりと降ろされる。

 冷たくひんやりとした、細い指先。

 歴戦の”勇者”とは思えない柔らかな手つきでハタノの頬をくすぐったその手が、続けてタオルを掴み、額に回され、ゆっくりと吹き出た汗を拭ってくれる。


(……気持ちいい)


 ぼんやりと見上げれば、チヒロは愛おしそうに瞳を細めながら、ハタノに微笑んでいる。


 ……最近は仕事ばかりで、妻との時間をあまり取れていなかった。

 帝国の命として夜の営みには励むものの、のんびりと会話を交わす時間は、少なかったように思う。

 デートの約束もまだ果たせていない。


 ……そう考えると、こういう時間が取れるのも、時には悪くないのかもしれない。


「いけませんね。仕事にかまかけて、家内を蔑ろにするのは。とても宜しくない」

「はい。そういう仕事のすれ違いは、離婚理由のひとつとして、とても大きいと聞きます」

「ええ。……とはいえ、私はいざという時も、仕事を取ってしまうかもしれませんが……」


 仕事と妻、どちらが大切かと聞かれれば、ハタノは妻と答える自身はあったが、それでも、とっさの時には人命を優先してしまうかもしれない。

 そう告げると、チヒロはくすりと笑って。


「存じています。それは私も、同じですから。……ですが、差し迫った脅威がない時くらい、夫婦の時間を大切にするのも、ときにはよいかと」

「ええ。妻にそれを言われてしまうのは、旦那失格かもしれませんが」

「ふふっ」

「――でも、はい。決して、チヒロさんを蔑ろには致しませんので。――愛しています」


 謝罪の代わりに愛の言葉をつなぐと、チヒロは一瞬身体をびくっと固まらせる。

 遅れて、ハタノはすぐに自分が、恥ずかしい失言をしたと気がついた。

 どうやら熱で理性が溶かされているのかもしれない。


 それでも、訂正するのも恥ずかしくて黙っていると、彼女が可愛い睫をまたたかせ……。

 えへへ、と頬を緩めてはにかみ、ハタノに微笑む。


 その頬はハタノと同じくらい熱く、耳までうっすらと赤くなっている た。

 彼女の照れの原因が分からないほど鈍くもなく、けれど、どう返すべきか悩んでいると。


「……すみません。どうやら、私も病にかかってしまったようです」

「え?」


 確かに、風邪はうつる。

 が、チヒロほどに強力な”才”持ちが、病気にかかるとは思えないのだが――


「そっちの病ではなく、別の病です」


 首を傾げると、もう、と妻がちいさくハタノの胸を小突き。

 まだ分からないのですか、と不満そうに目を立てて、耳元でそろりと呟いた。


「恋の病の方です。言わせないでください、旦那様」

「……ああ」


 それか、とハタノは苦笑する。

 盲点だったし、それを妻に言われるのはなんともむず痒い。


「すみません。そっちは以前から重症でしたので、気づきませんでした」

「旦那様でも診断ミスをするのですね。もっと悪化したらどうするんです?」

「治癒師としては、病を悪いほうに導くことは御法度ですが……」


 この病なら溺れてもいいな、と。

 ハタノは熱に浮かされ寝ぼけたことを思いながら、返答の代わりにそっと妻の銀髪を撫でつつ、ベッドに引き込もうとして――


「……旦那様。さすがに風邪の最中では止めておきましょう。風邪はうつりませんが、その。体力的に、妻として心配です」

「あ。は、はい。すみません……」


 しまった。病人が何をしてるんだ。

 日頃から、チヒロさんに無理をするなと言っている身でありながら。

 ハタノは己の失態に気づき、唇をもごもごさせながら誤魔化すように布団の中でもぞもぞする。


(私はもしかして、妻に対する欲求が強すぎるのだろうか)


 建前上、子作りも仕事だとは思っていても、さすがに病んでる時まで手を出すのは頂けない。


「……すみません。つい、勢いで」

「ええ。旦那様らしくない行動でした」


 ハタノの愚行に、チヒロがくすっと笑う。

 それから、彼女はちろっと舌を出して。


「でも、風邪が治まったらお相手してもらえると、嬉しいです。……私も、いまの旦那様のお気持ちには、少々、高ぶりを覚えましたので」


 なんて言われ、ハタノはまたまた熱が上がるのを感じつつ。


(どうしていま、私は風邪なんか引いているのでしょう。病気でなければ、今すぐこの手で妻を抱きしめたのに)


 そう思ったが、そもそも自分が寝ているのは風邪のお陰なので、なんとももどかしい。

 何にせよハタノは、風邪が治っても、身体に疼いたこの熱は早々収まらないだろうなと布団を被る。


 風邪のほうは軽症でも。

 恋の病は、お互い既に重症、というか。

 もう手遅れかもしれない、と、ハタノは思い。



 ――手遅れでも問題ないか、と、治癒師としてあるまじきことを、考えた。




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