後日談2.「触れるだけでは、済まなくなる気がしますから」

 恋愛物語の結末は、愛する者に告白するか、結婚し結ばれることで幕を閉じる。

 登場人物は真実の愛を知り、互いの気持ちを確かめ、永久の誓いを交わしたところで幕を引き――その続きは空白という形で、読者に想像の余地を残すのである。


 ……が。

 現実では夫婦が告白し、床かベッドかはさておき存分にいちゃついた後も、彼らが夫婦である以上……。

 太陽は昇り、朝日は必ず訪れる。


 そうして一晩明けたハタノに、訪れたのは。


(どうしよう。死ぬほど恥ずかしいのですが!!!)


 という、クソ情けない悶絶と羞恥であった。


*


(昨夜の自分はどうかしていた……)


 目覚めてすぐに、ハタノはぶんぶんと頭を振った。


 ――昨夜は、思い出すだけでも恥ずかしいくらいに暴走していた。


 己に似つかわしくない愛の告白を交わしたのち、勢いのまま床の上で一回戦。

 続けてベッドに押し倒しては二回戦を行い、さすがにお互い汗だくになったため、もう一度風呂を浴びながらうっかり三度目に至ってしまった。


 それでも朝に目が覚め、隣ですうすうと寝ている妻の寝顔を見ているだけで、もう死ぬほど可愛く見えてしまうのだからどうしようもない。

 ハタノは思わず自分に脳腫瘍でも出来たか、と馬鹿なことを考えながら「これ以上はまずい」と、ベッドより逃げるようにリビングへ飛び出し、いまに至る。


 冷静になろう。

 昨晩、多くの言葉と身体を交わしたものの、何かが物理的に変化したわけではない。

 愛しい気持ちは本当だが、愛しさのあまり現実を見失っては、ダメだ。


(落ち着きましょう。帝都中央治癒院に向かうための準備も、必要です)


 仕事は山積みだ。

 いまの治癒院の、後任への引き継ぎ――患者情報の引き継ぎ、仕事の引き継ぎ、挨拶回り。

 帝都中央治癒院の情報収集――ハタノとて何の構えもなく、伏魔殿に飛び込むつもりはない。


(正直なところ、不安ばかりです。私には荷が重すぎる。……それでも一つずつ片付けていくしかない)


 何から手をつけるべきか。

 ミカやシィラは、半ば帝都中央に連れて行くことが決定しているが、それ以外のことは……


 と、ハタノは頭の中から妻のことを追い出し、じっと考え込んで――そこに、


「おはようございます、旦那様」


 チヒロが水色の寝間着のまま、ふらりと顔を出した。


 昨晩の疲れがまだ残ってるのか、ぺたぺたと可愛い素足のまま出てきた可愛い妻は、いささか寝ぼけた眼を可愛くこすりながら、可愛らしい笑顔で旦那を見つめてにこっとはにかみとても可愛い。

 あれ、なんだこの可愛い生き物。

 うちの妻、こんなに可愛かったっけ?


「…………」

「旦那様?」

「私はいま、とても真剣に仕事のことを考えています」


 嘘である。

 意識はもうすっかりチヒロさん色に染まっている。

 昨晩もベッドの中であれだけ抱き合い、一糸まとわぬ姿で愛でまくったというのに、なんでまた可愛くなってるのだろう。

 薄い睫をぱちりと瞬かせ、ふにゃっと無防備に笑いつつ挨拶をする妻を見るだけで、幸せなのだ。

 反則では?


 そんなハタノをよそ目に、妻はいつも通り「私も朝食に致します」と語り、棚より魔噛草を取り出して可愛い。

 小皿に乗せ、頂きます、と丁寧に手を合わせては目を伏せつつ、もぐもぐと小動物のように食べ始めるのが可愛い。


 ……けど、向こうはいつも通りの妻だった。

 いかんいかん、と首を振るハタノ。


(私の方が、意識しすぎてるだけ……)


 彼女は”勇者”だ。

 どんなに強い感情の揺らぎがあっても、一晩経てばきちんと冷静になれるのだろう。

 ……むしろ、ハタノの方が一方的に暴走しているようで恥ずかしい。


(全く。乙女じゃないのですから、落ち着かないと)


 ふぅ、とハタノもわざとらしく息をつき。

 カップに入れた水に口をつけつつ……ぼんやり愛しの妻を見るハタノ。


 でもやっぱり可愛いなあ、と密かに微笑んでいると、俯いていたチヒロがふいと目線を右に流しながら、もぐもぐと草をかみ続けていた。

 それでも眺めてると、今度は左へ。

 続けて、なぜか俯き。


 最後は身体ごと横を向け、ハタノと身体を合わせないよう完全にそっぽを向いてしまう。

 ……?


「チヒロさん? どうかされましたか」

「いえ。何でも」

「九十度も横を向きながら食事をしている妻を見て、何もないとは思えないのですが……それにその魔噛草、もう食べ終わりましたよね?」


 もう魔力は吸い尽くしただろうと眺めていると、チヒロさんは、それでも口元の草を指先でいじりつつ。


「だって」


 と、拗ねたような声を絞り出しながら。


「……食べ終えてしまったら……旦那様と、目を合わせるしかなくなる、じゃないですか」

「え」

「ですので、まだ、食べている体を保っておきたいのです。……私が落ち着くまで」


 もじもじと魔噛草の先端をいじりながら、チヒロさんは頑なにハタノと目を合わせない。

 その薄い銀髪に隠れた表情がほんのり色づいてることに、ハタノもようやく気づき、彼女が顔を合わせない理由を悟る。


 ……ああ、なんだ。

 ハタノは自分がおかしくなったのかと思ったが――


 妻も、十二分におかしいらしい。


 そう思うと、何だか妙におかしくなって、ハタノはくすくすと笑う。


「チヒロさん。私は結婚した旦那なのですから、べつに、恥ずかしい顔を見せてもいいのですよ」

「や、です。旦那様だからこそ見られたくないので」

「そうですか? 私は見たいですけど」

「……旦那様には、なんだか余裕がありそうで、ずるいです」

「そんなことはありませんよ。正直、朝からチヒロさんを見るなり、もうドキドキしたままですし」


 嘘偽りなく伝えると、チヒロさんが疑わしげにハタノを見る。

 つんと薄い唇ととがらせ「旦那様のいじわる」と、素っ気なさを装いながらも僅かにとろんとした口ぶりに、ハタノはまた可愛いなと思いつつ、あえて余裕を見せつつはにかんでみせる。


「チヒロさん。そこまで仰るなら、確認してみますか。私の心音を。……触れればきっと、ドキドキしていることが伝わると思いますよ」


 本当にドキドキしながら、ハタノが誘うと。

 ふん、とチヒロはまた素っ気なく顔を背ける。


「遠慮しておきます」

「そうですか?」

「ええ。だって、……その」


 チヒロが、絞りカスとなった魔噛草を噛みながら。

 ハタノへ抗議するように上目遣いを向け、つんとした口調で。


「旦那様の肌に、いま触れたら。……触れるだけでは、済まなくなる気がしますから」


 んぐっ、と、ハタノは声を失い(何だこの可愛い生き物)と動揺しつつ、――それでも余裕ぶって笑う。


「どうでしょう。済まなくなるのは、チヒロさんの方では? よくよく考えると私、チヒロさんに迫られる方が多いですし」

「違います。いつも先に手をだしてくるのは旦那様です」

「それは誤解ですよ」

「うそつき。……そこまで言うなら、試してみますか? どちらが先に、手を出すか」


 むっと不機嫌そうに頬を膨らませつつ、けれど、その瞳にうっすらと期待が込められていることに……

 ハタノはわざと気づかないふりをしながら笑い、チヒロに「ではこちらへ」と、手を広げて手招きする。




 結局どちらが先に手を出したか、なんて、いつの間にかどうでもよくなり。


 ――その日、ハタノは治癒院へ遅刻ギリギリに出勤した。

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