7-5.「私と、結婚してくれませんか」

 チヒロが居なくても、ハタノの人生が大きく変わることはなかった。


 朝起きて、適当なスープを口にかき込み、仕事に向かう。

 治癒院のスタッフと挨拶を交わし、診察室へ。

 患者と向き合い、ハタノのできる治療をする。


 ――先生あんた、相変わらず怖い治癒やってんのかい? でもなんか、効果があるらしいねえ。

 ――昔はヘンな治癒師さんが来たと思ったけど、いつも親父の面倒を見てくれてありがとねぇ。


 長く治癒院を続けていると、理解ある患者さんも増えてきた。

 治癒院スタッフもミカとシィラをはじめハタノの方針を受け入れ、片田舎の治癒院としては賑わいを見せた方だろう。

 世のため。人のため。世界のため。

 ハタノは一帝国民として、まっとうな人生を歩み続ける。

 それは何一つ疑う余地のない、充実した、素晴らしい人生だった。





 ――……そうして月日が経ち。

 気がつくと、自分はベッドに横たわっていた。

 ぼんやりと天井を見上げる。

 長年の無理がたたって病に伏せ、治癒師の仕事もできなくなったハタノは、他人に迷惑をかけたくないからと、小さな家に引きこもった。


 一人暮らしにしては広すぎる、郊外の一軒家。

 一人用にしては、大きすぎるお風呂。

 一人で眠るには広すぎるベッドに横たわり、ハタノは己の人生を振り返る。


 最善を尽くした。

 治癒師として出来ることは、したと思う。

 結果、最初はともかく今は多くの人に認められ、一個人として幸せな人生を終える。そこに何の問題もないはずだ。


 なのに……この、胸にざわつく空しさは、何だろうか。


「ああ……」


 枯れ枝のようになった自らの指先を天井に伸ばしながら、わからない、とハタノは呟く。

 相応に満たされた人生を送りながら、致命的に欠けたもの。

 目に見えない、不透明であやふやで、でも人間にとって必要なもの。

 普通の人が、ごく普通に持っていそうな感情が、自分にだけはなくて……

 他の人が笑顔で満たされているのに、自分だけが取り残され、ぽつんと一人でたたずんでいるような感覚。


 年老いたハタノは迷子になった子供のように、はらはらと、涙をこぼす。

 分からない。

 分からないけれど、何かが途方もなく空しくて、寂しくて。

 心の隙間風が荒れ狂うように吹き抜け、けれどその理由が、答えが分からない。


(何かが、足りない。分からないけれど、私には何かが……)


 死の間際を迎え、ハタノは藻掻くように手を伸ばす。

 老いて枯れた指先が空を切り、失ったものがもう二度と手に入らないと知りながら、――その正体が何かも分からぬまま、彼は泣きながら宙を掻く。


 自分の人生は、本当にこれで良かったのだろうか?

 仕事にひたすら取り組み、喜びも悲しみもなくただただ人生を消耗し――他人に少しばかり評価されながらも、命の末に至ってなお一人きり。


 ……誰も側におらず、ただ一人で。

 他人に迷惑をかけたくないから、と塞ぎ込むように閉じて終わる人生。


 閉塞的で。平坦で。誰にも顧みられぬまま、仕事だけに尽くした生涯。

 それは。

 それは、あまりにも――


*


「っ……」


 身体がこわばって、目を覚ました。

 どっ、どっ、と心臓が激しく高鳴り、気づけば全身にべったりと寝汗が気持ち悪く張り付いていた。


 奇妙な、そして長い夢だった。

 ハタノ=レイという普通の治癒師が、ひとつの人生を過ごして終焉を迎える、何の変哲もない物語。


 ……不満などあるはずもない。

 この世に生まれ、“才”を持ち、仕事に励んだ末に死ぬ。

 ごく普通の……本来ハタノが送るべき人生の全てが凝縮された、ひとときの夢。


 なのに、ハタノは酷い疲労感とめまいを覚え、ぐっと胸を掴むように握りしめる。

 苦しい。

 心底から息苦しい。

 仕事。仕事。また仕事。

 黙々と目の前のことに励み、誰とも心を寄せず、ただ人様の迷惑にならないことだけを考え抜いて過ごした自分。

 それが、ひどく苦しい……。


 一体自分はどうしたのかと、ハタノはぱたぱたと胸元を仰ぎ、身体を起こそうとして――


 ぱさり、と。

 薄いかけ布団が、自分の肩から滑り落ちたのに気がついた。


「あれ」


 ハタノはようやく、自分が食卓テーブルに突っ伏したまま寝ていたことに気づく。

 傍らには、読みかけの本が裏返しで置かれたまま。

 ……どうやら寝落ちしてしまったらしいと首を鳴らし、一息ついて――



「旦那様」


 はっと顔を上げた。


「大丈夫ですか? ずいぶん、うなされていたようですが……すみません。起こした方が宜しかったでしょうか」

「…………」

「……? 旦那様」


 銀髪をゆらして覗き込むのは、いつも通り表情の薄いハタノの新妻。

 業務上の婚姻相手にして、最高の仕事仲間。

 ハタノに必要以上に関わらず、けれど困ったときは必ず背中を支えてくれる、自分の――愛してないけど、この世で最も愛おしい妻。


 ……自分にとって大切な、欠けてしまった大切な相方。


「チヒロさん」


 ハタノは妻へ、無意識に手を伸ばす。


「え、あの。旦那様?」


 チヒロが戸惑うも、ハタノは構わず彼女に触れた。

 柔らかな頬に自らの手を添え、親指や人差し指をもってふにふにと彼女の頬の感触を確かめる。

 こぼれそうな銀髪をすくい、その耳にかけてあげながら、耳たぶをさらりとなぞり。彼女の可愛らしい顔を、頭を、その全てを求めるように指先を降ろしていく。


「だ、旦那様? どうされたのです? くすぐったいのですけれど……」

「チヒロさん」

「今日はずいぶんと、触れてくださるのですね」


 妻は困惑しつつも嫌がることはなく、甘えた猫のようにはにかんだ。

 薄く目を閉じ、くすぐったそうに身をよじり、だんだん、照れてきたのか頬がほんのりと色づいていく。

 そんな可愛らしい新妻を、ハタノは構わず撫でていく。


(チヒロさんが、ここに居る)


 夢の中のハタノには、チヒロが居なかった。


 仕事に従事し、無意識に他人と距離を置いてしまうが故に、空しさを抱えていた自分。

 真面目で実直で、毎日のすべてを仕事に費やしていた自分。

 その人生は社会人として最適で、けれど、人としてひどく空しかったに違いない。


 ……けど。

 今のハタノには、チヒロがいる。


(ああ。私は……知らない間に、こんなにもチヒロさんに救われていたのか)


 気づけば、目頭にうっすらと涙が浮かんでいた。


 ――らしくない、と自分でも思う。

 ハタノは人様の顔を見て、愛おしい、等と思うような人間ではなかったはず……。

 けど、今は。


(今は、私の側にチヒロさんがいる)


 彼女のうすい銀髪が。柔らかな声が。自分を見つめて微笑む妻が。

 その熱が、温もりが、自分の手の届く中にある。


 彼女はいつか“勇者”として、ハタノの手を振り切り、飛び出してしまうかもしれないけれど……

 それでも今この瞬間、ハタノの前には彼女がいる。

 無意識に伸ばした手の中で、甘えるように身を任せてくれる妻がいる。


 ――それだけで、ハタノが帝都治癒院の院長を勤める理由は十分だ。


(好きです、と、チヒロさんには言えません。……けど、この熱を守ることは)


 ハタノはそっと、妻に言えない誓いを立てる。


 これは、ハタノの一方的な感情。

 妻に押しつける訳でもなく、彼女に愛されたい訳でもなく。

 ただ、自分の胸の内に秘めるだけの愛情だ。


 ……決して、チヒロさんの負担にはしない。

 あなたの邪魔は、決してしない。

 けれど、どうか。

 今だけは、自分の側にいて欲しい――そう願って、ハタノがゆるりと微笑むと。


 妻チヒロはそんなハタノの手を取り、姉のように、或いは母親のようにふふっと笑みを深くし、自分の手の甲をさすりながら囁く。


「……旦那様。本日は夜の営みではなく、添い寝を致してさしあげましょうか」

「え」

「すみません。余計なお世話かも、とも思ったのですが。……怖い夢をみた時は、誰かに付き添って欲しいものです」


 妻の指先が、ハタノの手を滑るようになぞっていく。

 間近で見る、妻の柔らかな眼差し。

 ハタノが目を離せず固まっていると、彼女が、トン、と自分へ身体を預けるようにしなだれかかってきた。

 自分の胸に、自らを預けるように。


 彼女の両腕が、そっと自分の背に回される。

 優しく。

 けれど、ハタノの身体を逃さないぞと捕らえるように……優しく抱きしめられ。


 そして、


「旦那様はいつも、私のために頑張ってくださいます。なのでたまには、私に甘えてくださっても、いいのですよ」

「っ……」

「……怖い夢を見たときくらい、本音を口にされても」


 耳元で囁かれた一言が、ハタノの脳を揺らす。

 顔を少し離せば、愛しい妻と視線が絡む。


 ――なんでも言ってください、と。

 そのとろけた眼差しがハタノの全てを許すと告げているようで、ハタノの精神の鎖がぐらりと揺れる。


 ……言えない。

 決して言えない。

 ハタノの恋心は、彼女に迷惑をかけてしまう。

 自分の醜い感情を押しつけ、業務の範疇から外れてしまう。

 ハタノとチヒロ、二人が結ばれた前提そのものを覆してしまう、大きな爆弾。


 だから、ハタノは黙ろうと口を閉ざし――、けれど、


「我慢しないでください、ね?」


 と、妻に囁かれた小さな一言に――ハタノは揺れる。


 夢の中で見た世界。

 いや、ハタノがこれまで人生を通じ、彼女と過ごしてきた期間の全て。

 彼女と出会い、共に仕事を成し、デートを重ねときには離れ、彼女が命の危機に陥りそれを助け、妻チヒロの涙と熱と微笑みと、その親愛の深さを目の当たりにして――


 ハタノの本能は。

 もう、耐えられない。


「チヒロさん」

「はい」


 ハタノは彼女の肩を掴み、ほんの少しだけ……距離を取る。


 宝石のような瞳。

 流れるように美しい、銀の髪。

 氷のように薄い表情と、その内に秘めた激情。その愛おしいすべてを見つめながら、ハタノは早鐘のように鳴り続ける心臓を抑えながら雷帝様の言葉を思い出す。




 人間は、どいつもこいつも馬鹿ばかり。

 だが、馬鹿であることが人間の本質だ。

 だから直感で動け。

 ――そこに余念を挟む理由など、ないだろう?




 ……ああ、と。

 ハタノは砕かれた心のまま、妻を見つめ。

 その耳にかかる麗しい銀髪をそっとかきあげながら、抑えきれない衝動のまま、口を紡ぐ。


 意識した訳ではない。

 けれど、心の底からごく自然にあふれた、ハタノの本心。


「チヒロさん。あなたのことを、愛しています。……私と、結婚してくれませんか」


 口にして、……夫婦は互いを見つめたまま、ぴたりと、動きを止めた。






――――――――――――――――――――――――――

不器用"勇者"のしあわせな契約婚、これにて第二章終了です。

ご一読いただきありがとうございます。

(ここで区切るのかよ! という声が聞こえてきそうですが……)

第二章までの感想コメント、ご評価、レビュー等頂けると作者の励みになります。

宜しくおねがいします。


今後の更新ですが、しばらくお休みを頂きます。

ただし週一ペースでラブラブ幕間編(?)を四話上げる予定です。

サポーター様限定の早読みも週一更新です。

その後は第三章が完成し次第、順次更新いたします(予定では12月頃)。

これからも宜しくお願い致します。




需要があるかは不明ですが、skebの登録を行いました。

有償になりますが本作で「こんなエピソードを是非書いて欲しい」という方がおりましたらご依頼ください。子細は近況ノートにて。

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