7-4.(そうか。これは夢か)

 そうして――夫婦は久しぶりに、チヒロの自宅へ帰ってきた。


 二人暮らしには広いリビングに、特徴のない木製テーブル。

 質素な家具が並ぶだけの自宅が、ハタノには妙に懐かしく思える。

 チヒロも同じらしく、「何だか妙に落ち着きますね」と、ほっと息をつきながらテーブルをゆるりと撫でていた。




 長旅の疲れを癒すため、まずはお風呂へ。

 先に湯を頂いたのち、ハタノは何となくチヒロが上がるのをリビングで待つ。


 まだ日は落ちていないが、夫婦揃って、早めの夕食。

 会話はなく、チヒロはいつものように草を食し始めたものの、その表情はハタノから見てもふんわりとした空気が漂っている。

 チヒロがもそもそと口を動かしつつ、ゆるりと、ハタノに微笑む。


「味は同じなのに、やはり、家で口にする草は安心します」

「ええ。私も、ただ座っているだけなのに落ち着きます」

「はい。……しかし驚きました。雷帝様がもう一度、家に戻る許可をくださるとは」


 ガルア王国との戦いが一段落したとはいえ、今のチヒロは”翼の勇者”だ。

 普通なら、帝都魔城に控えておくべきと考えるだろう。


 融通が利いたのは、雷帝様がハタノに気を利かせてくれたお陰でもある。

 ――院長として移籍するにも準備がいるだろう、と。


 裏を返せば、雷帝メリアスがハタノを重用しようと考えている証でもある。


 ……期待が、重い。

 本質的に怖がりなハタノは、本当に自分にできるのか?

 と自問する。


 考える度に、ずきん、ずきんと心臓がうるさく響いた。

 自分には縁遠い、あまりにも未知すぎる立場。

 不安なんて山ほどあるし、そもそも、他の治癒師とどう向き合えばいいのか――


 と、考えいた不安を見透かされたように、チヒロ。


「ところで、旦那様。雷帝様とはどのような話を? 差し支えければ、聞かせていただきたいのですが」

「ああ。その……じつは、帝都中央治癒院の、院長にならないかとの誘いを受けまして」

「へ?」


 チヒロがぱちぱちと瞬きをする。


「旦那様が、治癒院長? 帝都の?」

「ええ。まあ……驚きましたか?」

「はい。失礼ながら、旦那様はそのような仕事を受ける方だとは思わなかったので。……ああでも、雷帝様からの頼みとなれば、断れませんか」

「ですね。依頼ではなく、命令なので」

「なるほど。しかし雷帝様の命令とはいえ、急すぎるような」


 考え始めるチヒロに、ハタノはどう説明しようか迷う。


 ――チヒロには、ハタノが院長を受ける理由を話していない。

 話してしまえば、チヒロが負い目を感じるのではと思ったのだ。


(チヒロさんを守るために、院長の仕事を受けた、と聞かされたら……チヒロさんも困るでしょうし)


 ハタノは、チヒロを守りたい。

 理不尽な命令からも守りたいし、ベリミーのような悪辣な男にも渡したくない。

 その中には……彼女と一緒に居たいという自分の欲も含まれているし、彼女への愛しい気持ちも混じっている。

 もう、自分に嘘をつくのは不可能だ。


 けど。

 ……それでも、この気持ちは自分だけが持っている一方的なもの。

 ハタノはチヒロに好意を寄せているが、それは自分が勝手に思っているだけで、彼女にその気持ちを――負担を押しつけるのは、良くないだろう。

 ましてや、自分のために院長職に手に付けた、など……

 決して、伝えられない。


 ふと、チヒロが眉を上げる。

 草をはむはむと食べながら、今、思い出したように。


「ところで、旦那様。……フィレイヌ様の離婚話はどうなったのでしょうか」

「騒動のせいで、保留になったのかもしれませんね」


 ハタノはさらりとごまかし、チヒロは怪訝そうに眉を寄せた。





 その夜は、お互いに疲れていたのだろう。

 自宅のベッドに寝転がったことで、気が緩んだというのもある。


 ハタノもチヒロも、お互い、無意識に身体を寄せ合いながら……。

 気づけば、深い深い眠りに落ちていた。


 お互いが側にいるのが、一番安らぐ。

 そんな、ほのかな幸福を感じながら……。


*


「……。……先生? 起きてる?」


 身体を揺すられ、ハタノがふと目を覚ますと、ミカがにひっと笑った。

 ……?

 どうやら自分は、診察室の机に突っ伏したまま寝ていたらしい。


 らしくないなと背筋を伸ばすと、診察机に貯まった資料がどさりと零れた。

 ああもう、とミカに笑われる。


「先生が居眠りなんて珍しいですね。疲れてるんですか?」

「……かもしれません。最近チヒロさんの件で、騒動が続いたので」

「チヒロさん? 誰ですか、それ」


 ミカが小首をかしげる。

 ……??

 ハタノは違和感を覚えながら、チヒロさんですよ、ともう一度繰り返そうとして――


「あ、すいません先生。そろそろ仕事終わりの時間なんで、早めに帰っていいです? あたし彼氏待たせててぇ」


 ミカがふふっと笑い、パタパタと早足に診察室を出て行いった。

 ……?

 ハタノは、まだ寝ぼけてるのだろうかと頭を掻きながら、とにかく仕事をしようと息をついた。



 今のハタノは、帝国辺境にある小さな治癒院の院長だ。

 帝都中央治癒院から左遷命令を受けたのち、のんびりと言う程ではないものの仕事に励んでいる。

 外来診察を行い、せわしない患者を毎日診て、合間に魔力ポーションを胃にかきこむ日々。

 それでも、帝都中央治癒院に勤めていた頃に比べれば、気は楽だ。


 本日の外来診察を終え、ほっと一息ついてると、シィラが顔を覗かせた。


「先生。まだ仕事残ってるんですか? お疲れ様です」

「ああ、シィラさん。気にしないでください、もう終わりますので」

「わかりました。では私も、今日は先に失礼しますね」


 新米にして二級治癒師のシィラがぺこりと頭を下げ、診察室を後にする。

 その背中を見送りつつ、


(そういえば今日は、私の治癒についての質問がありませんでしたね)


 と思いながら、仕事上の書類を一枚ずつめくる、ハタノ。

 患者情報の書き込み。

 薬の調整。

 治癒院と関わりのある商人に、魔力ポーション仕入れの交渉。

 雑務が終われば医学書を手に取り、知識の更新を行う。


 そうして夜遅くまで働き、帰宅した後は……

 特に、することがない。


 治癒院の側で買ってきた夕食を頬張り、郊外にある空き家で時間を潰す。

 特徴のない木造の長テーブルに本を載せ、気まぐれにページをめくり……眠気が襲ってきたら、ベッドへと横になり。

 夢見の悪い夜を越えた翌日、ハタノはまた、仕事に戻る。


 変化のない日常。

 穏やかとはいえないが、安定した毎日。

 毎日患者を診察し、スタッフと挨拶を交わし、帰宅して寝る。

 過不足のない、ごく普通の、治癒師らしい生活。


 ……なのに――……なにかが、足りない。

 うまく言葉に出来ないが、手の内にあるべき熱を、取りこぼしてしまったかのような。

 言いようのない空しさが、心に隙間風を吹かせている。




 ハタノは、昨晩から覚えた違和感を追いかける。

 妙に手広すぎる木造テーブル。

 男の一人暮らしには贅沢すぎる、湯船付きのお風呂で身体を洗い、一人で寝るには広すぎるベッドに寝転がりながら……ふと、手を伸ばす。


 横にいるべき人が、いない。

 あるべき熱が存在しない。

 そんな違和感を覚え、考え――


 ようやく、気づく。


(そうか。これは夢か。……チヒロさんが居ない、もしもの世界)


 気づいた途端、まるで半身が削がれたような空しさを、覚えた。

 元々――

 自分はずっと一人だったのに。




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