4-3.「チヒロさん。すみませんが、すこし怒っても宜しいでしょうか」

 チヒロは勇者だ。

 勇者に必要なものは、合理性だ。


 一級治癒師の妻になることに、異論はない。

 ハタノの配慮は嬉しく思う一方、チヒロは現実を現実として捉える冷静さを持っている。

 婚姻は、受け入れてもいい。


 が、その事実と、旦那を馬鹿にされて許せるかどうかは、全くの別問題だ。


(相手が自分の夫となる方なら、円滑な会話を心がけた方がいい。……と言いたい所ですが、この男にそれは無理でしょう)


 何より、旦那を馬鹿にされたことが許せなかった。

 ハタノは自分専属の治癒師であり、旦那であり、信頼のおけるパートナーだ。

 そのあり様を侮辱するなら、チヒロも声を荒げねばならない。


 だから――チヒロは己の手を刺し、ベリミーに差し出した。

 今にも血がしたたる手の甲を突き出し、覚悟を問う。


「どうしましたか。患者が目の前にいるのです、早く治癒したらどうですか?」

「っ」

「人が刺された程度で動揺して、よく治癒師が務まりますね。私の旦那なら――」

「チヒロさん!? 何ばかなことしてるんですか! ああもう見せてください」


 隣から、強引に腕を奪われた。


 ハタノが治針を出し、チヒロの手の甲に添える。

 傷口を確かめ、後遺症が残らないよう丁寧に治癒魔法を沿わせていく様は、まさに治癒師の鑑だ。

 彼は夫として優しく、けれど、状況を選ばず仕事をしてくれる。


 ――だから愛おしく、離れがたい……。

 けど、それは叶わぬ願い。


(すみません、旦那様。炎帝様の命に背けば、旦那様にもご迷惑がかかります。……が、この男が相手では、旦那様も心配なさるでしょう)


 チヒロは治癒を旦那に任せつつ、ベリミーをぎろりと睨みつけた。


「ベリミー様。炎帝様のご命令とあれば婚姻も受けましょう。……ただし、あまり口うるさいようでしたら、その身を縛り上げ、少々痛い目に遭って貰います」

「な、っ」

「私は子さえ宿せばいいので、あなたが逆らえないよう”教育”させて頂きます。そして、子を宿したら用済みです。……それも承知で、結婚してみますか? この、血塗れのチヒロと」


 チヒロが悪辣に笑い、せせら笑う。

 もちろん演技だ。

 チヒロは表情を変えない女であるが、相手をコントロールするためなら感情を利用する。


 歴戦の勇者の圧に、ベリミーが勝てるはずもなかった。


「っ、じ、冗談じゃないっ……! な、なんだよ、この女」

「ただの”勇者”です。が、勇者は帝国最高戦力の、一角」


 チヒロが氷のような眼差しを向け、鼻で笑う。


「帝国の最高戦力を舐めるなよ、三下。失せろ」

「っ、ひ、ひいいっ!」


 ベリミーは椅子を蹴飛ばし、バタバタと逃げていった。






(……少々、やり過ぎたでしょうか)


 ベリミーの背中が消えた後、チヒロは溜息をついた。


 本気で怒った訳ではない。怒りを、計算づくの上で示しただけだ。

 ……元々、婚姻相手が一級治癒師であれば誰でもいい。ベリミー一人を断っても、支障はないはず。

 そもそもあの男にイニシアチブを取られては、勇者業務に支障が出かねない。


(まあ、旦那様のように配慮しつつ、気遣いをしてくれる方などそう居ませんが……)


 と、チヒロが考えてると、「チヒロさん」と旦那が口を挟んだ。

 左手の傷は完治し、血の跡ひとつ残っていない。


 ……さすがは旦那様です、と。

 チヒロはいつものように、旦那様に微笑もうとして。



 ぺち、と。

 軽く、頬を叩かれた。


「……?」


 痛くはない。旦那様に勇者を傷つける力はない。

 それでもチヒロは、彼に叩かれた――優しい手つきではあったが、怒りの意図を感じて、ぱちぱちと瞬きをする。


 ハタノは不機嫌そうに眉を逆立てていた。


「チヒロさん。すみませんが、すこし怒っても宜しいでしょうか」

「……え?」


 夫が怒るのを、チヒロは見たことがない。

 業務上でも私情でも、常にふわっとした笑みを浮かべている旦那様だ。なのに――


(私、何かしでかしましたでしょうか。旦那様を怒らせてしまうなんて)


 チヒロは他人の機微に疎い。知らぬ間に、地雷を踏むことはある。

 だとしても、旦那を怒らせたとはつゆにも思っておらず、いや、あの、と慌てふためき……


 ああ、そうか。


「先ほどの治癒師に、怒っておられるのですね。ですが旦那様、あの男には私がきちんと言い聞かせ……」

「いえ。私はチヒロさんに怒っています」

「!?」


 何でだ。

 ベリミーを脅迫しすぎたか?

 勇者の力をもって人様を脅してはならないとか、そういう……?


「チヒロさん。私が何に怒っているか、わかりますか」

「いえ。すみません。その、まったく、何に対してか……」


 はぁ、と溜息をつくハタノに、チヒロは深く傷つく。

 ……そんなに?

 そんなに自分は、旦那様に対して酷いことをしてしまったのか、と。


 チヒロは無性に悲しくなり、せめて、理由を教えてほしいと見上げ――


「チヒロさん。確かに私は、彼を不快に思っていました。が、その程度で自分を傷つけるのはよくありません」

「は? ……し、しかし。あの男は治癒師として実力があると仰ったので、試してみようと」

「それで自分の手を傷つけたら、痛いでしょう」

「これくらいの痛みは、慣れてますし」

「慣れているからといって、自分を傷つけていいわけではありません。それに」

「それに?」

「私が、嫌なんです。チヒロさんが傷つくのが」


 ハタノがチヒロの手のひらをさすりながら、物憂げに告げる。


 旦那の治癒は完璧で、痛みひとつない。

 なのにチヒロは、ずきん、と胸が痛んだ。


「……でも、旦那様。私はよく怪我もしますし、それに、旦那様の治癒の勉強に、解剖されてもいいと伝えてますし」

「確かに私は、妻を解剖の練習台にする酷い夫です。……が、必要のある傷を負うのと、必要のない傷を貰うのは別です。……自分でもおかしなことを言ってる自覚はありますが、それでも、嫌なものは嫌なのですし――そもそも私は練習であっても、妻を傷つけたいだなんて、本当は思っていません」


 チヒロの胸が、再びずきんと痛む。

 その理解しがたい、心の底から締め付けられるような痛みに、チヒロは理解が遅れ――


(……ああ、そうか)


 彼の顔を見て、気づく。


 この痛みは、自分の痛みではなく。

 旦那様を傷つけ、悲しい想いをさせてしまったことに……

 チヒロ自身が、傷ついている痛みかも、しれない。


「チヒロさん。勇者業務で怪我を負うことは、仕方ありません。ですが、あの程度の男に自分を傷つけてまで反論する必要はありません」

「……それは」

「そんなことをされると、私もびっくりしますから……もうちょっと、自分を大切にしてください」


 ハタノに労られ、ゆるく手をさすられながら。

 ――チヒロは、ぎゅっと唇を結ぶ。


 彼はいつも、自分が気づかないところに気づいてくれる。

 勇者の日常が、血にまみれるのは当然。気にする者など、誰もいない。

 亡き母ですら、そんな心配は一度もしてくれなかった。


 なのに、……彼は今、チヒロを案じてくれる。

 ――どうしようもない矛盾を、抱えながら。


 必要があれば妻を練習台にする合理性を持ちながら、一方で、きちんと自分を心配してくれる……。

 その矛盾が、不思議なことに愛おしい。


「すみません、旦那様。私が間違っておりました」

「いえ。私も言い過ぎました。すみません。……自分で言ってて、何様だとは思いますが。それでもあなたは私の妻ですから、必要のない怪我は負わないで欲しいのです」


 はい、と、チヒロは瞼を閉じて頷きながら――

 私はやはり、この男に好意を抱いているなと理解する。


 ただの協力関係でも、契約関係でもない。

 感情に鈍いチヒロであっても、わかる。

 その情動には、……きっと”恋”というラベルを貼り付けても良いのだろう、と思うくらいには、……チヒロは旦那のことを、愛おしく思っている。


(けど、そんなことを伝えたら旦那様にはご迷惑でしょう)


 旦那様の私に対する配慮は、親愛によるもの。

 もし、恋、等という我欲を混ぜ込んでしまえば、旦那様は迷惑されるだろうし……


(そもそも勇者が、恋など、あってはなりません)


 恋人として結ばれた翌日には、死地に赴く可能性のある仕事だ。

 恋人として不義理が過ぎる。


(私は勇者。私は勇者。……私は、勇者)


 チヒロは湧き上がる感情に対し、何重にも鍵をかけて心の奥底へとしまい込む。

 ――そんなものは無かった、と。

 幸い、勇者は自分の心に鍵をかけることには手慣れている。


「チヒロさん。婚姻の件につきましては、私なりに手を尽くしてみます。頼りない旦那ではありますが、私はチヒロさんを素敵な妻だと思っていますし、一緒にいたい気落ちに、変わりはありませんので」


 なのに、そんなことを言われては。

 ……チヒロの我慢が、効かなくなってくる。

 今にも彼を抱きしめたい衝動に駆られながら、チヒロは必死で笑顔を作り、いつものように返事をした。


「旦那様。無理はしないでくださいね」

「ええ。チヒロさんを危険にさらすようなことは、いたしません」

「…………」


 真顔で言い換えされ、チヒロはそっと俯きながら「旦那様のバカ」と呟く。

 ――そんなことを囁かれては。

 抑えるものも抑えられないじゃないですか、と、チヒロは旦那を密かに責め立てながら、けれど彼と顔を合わせることが出来ず、そっと顔を背けるのが精一杯だった。





 ――なにが、勇者だ。

 ぜんぜん、我慢できてないじゃないか。

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