3-9.「返事も、貰えたようなものですし」

 普通の夫婦が離婚問題に直面したとき、こんな会話をするのだろうか。

 ハタノは妙に茹だった頭で考えながら、妻を諭すことにした。


「チヒロさん。そもそも、私がチヒロさんから離れたいと思っているように見えましたか?」

「えと。り、理由はいま説明した通りで。……一緒にいるのは、合理的でない、と」

「確かに合理的ではありません。が、それでもチヒロさんが私と一緒にいたいと思ってくれたように、私がチヒロさんと一緒に過ごしたいと思っても、不思議ではありませんよね」

「え、で、でもしかしっ……」


 チヒロさんが、手をあわあわと泳がせていた。

 口を半開きにしながら、けれど、良い言葉が出てこなかったらしい。

 珍しく慌て、目をぐるぐる回しながら混乱している。


 本当、この妻は――と思いつつ。

 ハタノ自身も淡い熱を覚えながらも何とか余裕を見せて、妻の髪を撫でながら囁いていく。


「チヒロさん。私も正直、人心にうとい部分はありますし、一般的な恋愛観もわかりません。ただそれでも、チヒロさんは一緒にいて心地よい相手だと思っています」

「そう、ですか」

「というよりあなたほど素敵な女性を、私は他に存じませんし」


 もちろん、ミカのように快活な子や、シィラのような愛らしい子がいることは、知っている。

 一般的には彼女達の方が魅力的で、チヒロは女性としては例外だろう。


 それでも、……今さら言う必要もないが、ハタノは彼女を好ましいと思っている。

 業務に忠実。誠実で。

 密かに相手を気遣い、けれど邪魔をせず、でも本当は愛情深い彼女を、一体どうやって嫌いになれというのか?


 そう意識しながら――

 ああそうか、と自覚する。

 ハタノ自身も、いま言葉にしてようやく実感がわいてきた。


 自分は、自分が思っている以上に、彼女と離れたくないのだな、と。


 ……内にくすぶる熱が言葉になり形になり、ハタノの内側でぶわりと滾る。

 それを抑えることなく、ハタノは妻の手を取りまっすぐにその瞳を見つめ、ぶつける。


「チヒロさん。私達は契約上の夫婦です。帝国上層部より命令があれば、明日にでも離婚する関係であり……チヒロさんの仰ることが正しいのも、理解しています」

「ええ、ええ」

「私も合理性を重視する人間ですから、否定はいたしません。……が、だからといって感情がない訳でも、私心を完全に押し殺せる訳でもありません」


 昔のハタノなら、想像もしなかった。

 誰かと離れがたい気持ちを抱くなど。


 それでも、今のハタノははっきりと言える。


 仮初めの関係でも、別れたくないな、と。

 あなたは素敵な女性だ、と。

 自身の気持ちを口にするのが苦手なハタノが、我を押してでも、彼女を引き留めたいと思うくらいには、強い気持ちを抱いている、と。


「ですが、旦那様。もし上からの命令があった場合、私たちは……」

「存じています。上の命令であれば、逆らう訳にはいきません」


 上司に逆らうのが怖いから、ではない。

 翻意があると疑われれば、翼をもつチヒロは即時処刑もあり得る。それは駄目だ。


「しかし、その件を自分達から言い出す必要もありません。最悪、二人そろって帝都魔城にかくまって貰う手もありますし」

「で、ですが私の相方は、一級治癒師であれば、旦那様以外でよくても……」

「一級治癒師なら誰でも構いませんが、であれば私でも構わないでしょう? それに私なら、チヒロさんの治癒と経過観察のためという名目で側にいることも出来ますし」

「それは……」

「屁理屈です。が、万が一に備えてという言い方も、出来なくもありません」


 嘘は言っていない。

 もちろん、ハタノやチヒロの安全が確保された上で、という前提になるが。


「言い訳がましいのは自分でも理解しています。……本当の意味での最善でないのも、分かっています。ただ、それくらいのワガママは私達にも許されるかと」


 そしてワガママを通すからには、ハタノも結果を残さねばならない。

 チヒロの竜魔力の消耗を正し、いつでも空を飛べるようにする。

 ……チヒロを、癒す。


「要するにいつも通りです。私達は仕事で成果を出し、認めて貰う。私達を恨む者もいますが、少なくとも雷帝様は実力主義の気があります。そしてこの国に、雷帝様に逆らえる者はおりません」


 つまり雷帝様のご機嫌さえ取っておけば、ハタノ達はある程度自由に暮らせるはずだ。

 逆に、雷帝様の機嫌を損ねると大変なことになるが。


「もちろん上層部が強権をもって私達の夫婦関係を終わらせたいと言えば、どうしようもありません。ですが、自分たちから進んで臨むこともありません」

「……旦那様は、しかし、それでは危険に」

「チヒロさんが側にいた方が、私は安全な気がしますよ。それに襲われるリスクも承知の上、理解したうえで、私はチヒロさんと一緒にいたい」


 治癒の世界に100%がないのと同様、100%の安全はない。

 そして今のハタノは、多少の危険を背負っても、彼女と一緒に居たいと思っている。


 チヒロは反対するかもしれないし、非合理的ではあるが、ハタノの本心だ。


「……すみません、チヒロさん。本当はもっと良い案を提案したかったのですが、今の私にできる返事は、これくらいです」

「いえ。……いえ。私には十分で――」

「とはいえ対策は考えてます。というかいま無理やり考えました」

「へ?」

「まあ、まだ空想の段階ですが」


 ――ハタノとチヒロが、上層部に迫られても離婚しなくてよく、安全に過ごせる方法。

 ハタノは高ぶる感情のまま、無謀な計画を組み立て、……いろいろまずい点はあるが、小細工を仕込む余地はあるなと判断する。

 もちろん、彼女の治癒を完遂した上で、という前提付きで。


「……そう、ですか。旦那様は、まだ、私と離れなくても、よい」

「ええ。今のところは」


 チヒロが己の胸に手をあて、ほっと安堵する。

 それから、ほんのりとした笑みを浮かべる妻をみて、ハタノもまた。


 ……ああ。

 やっぱり自分は、この人と一緒にいたいのだな、と、改めて思い――


「…………」

「? 旦那様?」

「いや、その」


 どうしよう。

 話が一段落したせいか、改めてうちの妻を見ていると、気のせいか……。

 さっきより可愛らしく見えてきてしまい、ハタノの頬が再び熱を帯びる。


「旦那様、どうかしましたか。どうして目を逸らすのです?」

「いえ。逸らしていませんが」


 といいながら、ハタノはすいっ……と横を向いた。


 うん。

 今さらながら……。


(勢いもありましたが……妻の前で、一緒に居たい、と言いまくってしまった気がする)


 冷静に考えると、大変恥ずかしいことをしたのではないか。

 しかし聞きようによっては、ハタノから妻に、愛の告白をしたようにも……。


(確かに、勘違いされてもおかしくはないですが。でも、その。私と妻は信頼のおける仲間として一緒に居たいのであって、べつに恋愛感情というわけでは……)


 ハタノが悶々と考え込んでいる間に、チヒロも思い当たる節ができたらしい。

 あの、と自分の服の袖をつかみ、旦那へそっと上目遣いぎみに覗き込みながら、……ねだるように。


「旦那様。実はもう一つ、ワガママな妻からお願いしたいことが、ありまして」

「はい。なんでしょう」

「大したことでは、ないのですが……」

「はい」

「……その」

「はい」

「えと」

「……?」

「……チヒロさん?」

「……先ほどの。一緒にいたい、という言葉を……。も、もう一度、聞かせて貰えませんでしょうか」


 んぐぅ~、と詰まるハタノ。

 妻は遠慮しつつ、でも期待を込めて前のめりに寄ってくる。


 まずい。ハタノにはわかる。

 これは、期待されてる顔だ。

 表情は乏しくともその瞳に期待が宿り、ちょこんと上目遣いに覗き込んでくる様を見れば、すぐに分かる。


「ええと……その、」


 別に、大したことではない。

 もう一度、同じセリフを言うだけ。


 ――あなたと一緒に居たいです、と。

 ……さっきも言ったんだし。


 けど、どうしたことか。

 同じ言葉をただ繰り返すだけだというのに、ハタノは喉にぎゅっと詰め物をされたように、言葉に詰まる。

 ハタノの心音が、急速に高鳴っていく。

 どくん、どくん、と留まるところを知らず、胸の内から発した熱が妙にたぎり、背中にぶわりと冷や汗を流していく。


 耳が痛い。

 心臓が、妙にうるさい。

 そして契約上の妻は返答待ちのハタノを前に、……ひたすら黙ったまま、こちらを見ている。


(どうしよう。うちの妻が可愛い。けど、けど――)


 ハタノは後頭部を掻き、結局――ぐっと唇を噛んで。


「……まあ、今晩も遅くなりましたし、そろそろお休みしましょうか。明日には雷帝様との面談がありますし」

「旦那様。いま誤魔化しませんでしたか?」

「治癒師は嘘をつきませんよ」

「そうですか……」


 しゅん、と俯いてしまう妻。

 ハタノは若干いたたまれなくなったが、でも恥ずかしさが勝って言えず。


「そうですか……」

「…………」

「そうですか……私、あのようなことを言われたの、人生で初めてで。本当は、嬉しくて」


 その一言に――

 ハタノは顔が熱くなり、しおしおと力が抜けてしまい、


 ……妻に抱きつくように、うなだれてしまった。


「え、だ、旦那様?」

「っ……す、すみません。なんだか、その……ごめんなさい。実は、もう一度口にするのが恥ずかしくて」


 限界だった。

 だって。

 今ここでもう一度、一緒にいたい、なんて真面目に言ったら、もう押さえが効かなくなりそうで。


(ああ、くそ。こんな子供みたいな)


 医療業務で冷や汗をかいた経験は何度もある。

 人の死にも触れ、患者の情にも数多と触れたハタノは、仕事のことなら大抵できる腹づもりだ。

 だというのに、プライベートでは何一つ、たったひとつの言葉すら紡げない。

 ……自分は、こんな人間だっただろうか?


 ハタノは混乱したまま、熱くなった頬を隠すように手で覆う。

 自分でもどうしてそうなったのか、まるで理解できないのだが、とにかく、もう……。


(恥ずかしい。人はこうも、恥ずかしい想いをするものなのか)


 自分でも制御できない感情にハタノはぶんぶん振り回されながらベッドに潰れ、逆にチヒロに心配されてしまう始末。


「すみません、旦那様。無理を言ってしまって」

「……こちらこそ期待に応えられず、申し訳ありません」

「いえいえ。まさか、そのような反応をされるとは思わず……」


 そのままハタノは情けなくもチヒロに背中をさすられ、結局ベッドで寝転がることになってしまった。

 まさか、自分にこんな弱点があるとは。


 ――ああ。本当に情けない。

 と、未だ悶えるハタノの側で、チヒロが一言。


「すみません、旦那様。余計なことを。……でも、そんな旦那様のお顔が見れて、嬉しいです」


 ぐ、と唸るハタノ。

 そして妻は容赦なく、そんな旦那に向かって追撃を放つ。


「……返事も、貰えたようなものですし」


 ハタノはますます蹲りながら、足をバタバタとばたつかせた。


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