3-8.「私も、チヒロさんとずっと一緒にいたいと思っています」×3
妻に離婚を突きつけられた。
その意図を理解できないほど、ハタノは鈍くはないつもりだ。
「旦那様。誤解なきようお伝えしますと、私は旦那様に愛想をつかした訳ではありません。……むしろ私は、旦那様ほど信頼できる方は他にいないと考えております。……しかしながら、私達が共にいることは」
「お互いにとって危険、ということですね」
こくり、と頷くチヒロ。
翼の勇者と、翼をつけた張本人。国に例えるなら、国の首脳と副首脳がいつも一緒にいるようなものだ。
その上、いまのチヒロは全世界のお尋ね者。
チヒロが狙われ、ハタノが巻き込まれる確率は高いと言わざるを得ない。
「旦那様。敵は帝都の治癒院に攻撃を仕掛けられるほど、内側に入り込んでいます。今回は相手のミスもありましたが、次もうまくいくとは限りません。その時旦那様がいると、巻き込まれる可能性が十分あります」
「はい。私はチヒロさんに翼をつけた張本人ですし、敵から見たら殺り得でしょう」
ええ、と頷くチヒロ。
その顔に表情らしきものは浮かんでおらず、淡々と、仕事内容について語るのみ。
「私の夫となる方は元々”一級治癒師”であれば問題ありません。まあ今後、私の運用が変わる可能性はありますが……少なくとも”才”の面で考えても、私の夫が、旦那様である必然性はありません」
「はい」
「…………繰り返し、誤解なきよう伝えておきますと。私は旦那様のことを悪く思っておりません。……いえ。正直にいいますと、旦那様ほど話の合う方は、他にそうそういないだろう、とも感じております」
「……はい」
返事をしながら、ハタノの胸に痛みが走る。
……ただの説明だと理解しながら、彼女が自分に好意を向けている、と直に聞いたせいか。
どうにも、苦しい。
それでもチヒロは”勇者”だ。
人を救う者であり、ハタノ以上の仕事人。
最善だと判断すれば躊躇なく実行する。
その冷徹さこそが彼女の持ち味であり、だからこそ、ハタノは彼女と話が合う。
合うが故に、否定するべき点が見つからない――
……のに。
どうして、ハタノの胸は苦しく、締め付けられるのだろう。
「…………」
「…………」
「「……あの」」
声が、かぶった。
視線が絡み合い、遠慮がちに譲り合いながら、チヒロに先を促す。
チヒロは薄い睫を落とし、じっと唇を噛んで。
「旦那様でしたら、私の話はすぐにご理解頂けるかと思います。この件について、意思疎通に問題はないとも考えます」
「ええ」
「よって話は以上ですし、語ることもないのですが。……ひとつだけ、お願いがあります。――ここから先は、聞かなかったことにしてほしいのですが」
「守秘義務を守るのは、得意ですよ」
「……はい」
チヒロはそれでも言い淀み、言葉を詰まらせるように眉を寄せた。
何度か喉を鳴らし、ふるりと瞼を震わせながら、目を閉じる。
小さな覚悟を、決めたように。
「……今からの発言は、私が学んだ”勇者”像としても、帝国民としても。世間の常識としても間違っていると、私は明確に理解しています。非合理であり、おかしく、愚かな判断だと自覚しています」
「ええ」
「……なのに、私は。……私は、どうしたことか。旦那様と、離れたくない、と、……思って、います」
「――――」
チヒロの喋り方は、とても、つたない。
普段の明瞭な話し方とは比べものにならないほど、たどたどしい。
「勇者として、人として。致命的に間違っていることは理解しているつもりです。人命よりも個人の感情を重視するなどあってはならず、……それは私が密かに嫌悪してきた、感情に身を任せてばかりの愚か者と、同じこと。人様の命を守るべき私が、ひとときの個人的感情に流されるなど、帝国に対する裏切りそのもの。大馬鹿者の所業です。……ですが私は、それでも旦那様の元を離れることを、好ましくないと思っていて」
それでも頑張って伝えようと、チヒロは賢明に口を開く。
小さな子が親に向かって、一生懸命に、自分の気持ちを伝えようとするかのように。
俯き、拳を振るわせながら、せめて涙は流さないようにとチヒロが堪えている様が、ハタノにはよく分かる。
「――だから、お願いがあるのです」
「はい」
ハタノは、次にくる妻の言葉を予測する。
予測しながら、けど、何も返せない自分にも気づいている。
言いたいことは、同じだからだ。
ハタノは例え仕事でなかったとしても、心底から――まだ、彼女と一緒に居たいと。
決して口には出来ない想いを、ハタノも彼女に対して抱えていて。
だからこそ妻にどう応えるべきか、分からず――
「お願いします。旦那様。どうか、どうか」
「はい」
「どうか、愚かな私を、…………」
「…………」
「……お叱り、頂けないでしょうか」
…………。
……ん? あれ?
え、叱る?
……どうして?
予想とだいぶ違う話にハタノが瞬きし、チヒロは「どうか」ともう一度頭を下げた。
「私はいままで旦那様に甘えすぎていました。それがダメなことだと薄々……いえ、かなり理解しながら、つい心が浮ついてしまう時がありました」
「チヒロさん」
「そんな私を叱ってほしいのです。お前はバカな妻だ、契約上の夫婦にもかかわらず甘えるな、と。誰がお前みたいな女と本気で仲良くしたいと思うものか、調子に乗るなよこの雌豚、と罵って頂ければ……」
(シリアスな話の流れで、何言ってんだこの妻)
しかも雌豚って。
雌豚って……。
うちの妻は、一体どこでそういう言葉を覚えてくるのか。
正直「別れましょう」は予想していたが、「雌豚として罵ってください」が予想外すぎた。
そのせいで、ハタノは妙に冷静になってしまう。
そして冷静になったお陰で、いつもの思考がようやく回り出す。
(でもなるほど、叱る、ですか)
チヒロはこう考えたわけだ。
――旦那であるハタノに甘えすぎたのは、ひとえに自分の不手際である。
”勇者”に甘えは許されない。
でも自分ではどうしようもないので、ハタノに罵られることで諦めさせて欲しい、と。
……うん。
(うちの妻、もしかして馬鹿なのでは???)
真顔で思った。
確かにハタノとチヒロは契約上の夫婦だが、……これだけ一緒に過ごしていながら、ハタノが妻に対しそんなことを言えると、彼女は本気で思っているのか。
だとしたら妻は少々、いやかなり、甘く見積もりすぎている。
ハタノが内心、彼女にどれだけ心を揺さぶられているか。
宝石のように純粋な瞳に。美しい銀髪に、何度目を惹かれたことか。
仕事に励む背中に、どれだけ救われたか。
夜の営みを繰り返し、彼女を抱くたびに、どれほど愛おしく思ったことか。
……何も、気づいていない。
この妻は、本当に、何も理解していない。
ハタノの胸の内に滾る、どうしようもない熱を――知りもしないくせに。
――勝手に、決めつけて。
(まったく。この妻は。……この妻は!)
ハタノは呆れつつ、……こほん、と咳払いをし、妻の顎にそっと触れる。
彼女の顔を上げさせると、チヒロは涙を込めながら、情けない顔でハタノを見上げていた。
――ああもう。
そんな顔をして、罵ってください、なんて。
冗談でも口にして欲しくないし、本気なら余計にタチが悪いと思う。
「チヒロさん。先に色々言われてしまった身として、恥ずかしい限りですが。はっきり言います」
「はい」
「私はそもそも、チヒロさんと離れたいとは思いませんし、罵倒だなんて冗談でも言いたくありません」
「……へ?」
ぱちり、と。
本当に分かってないらしいチヒロが、可愛い瞬きを繰り返す。
”勇者”らしからぬ、豆鉄砲でも撃たれたような呆けた顔を見つつ。
ハタノは妻を安心させるよう笑いかけながら、きちんと、はっきり、よく分かるよう、二度と絶対に間違えないよう妻に告げた。
「私も、チヒロさんとずっと一緒にいたいと思っています」
「……え?」
「チヒロさんと、一緒にいたい、と」
「???」
「一緒に居たい、です」
三度告げてもチヒロは思考が追いつかないらしく、完全に固まっていた。
……ふと思う。
離婚問題に直面した夫婦は、普通。
こんなに「別れたくありません」と連呼するものだろうか?
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