幕間1-3.「チヒロさん。押し倒してもいいですか?」

「大した話ではないのですが……私は子供の頃、成績が悪いと食事を抜かれることがありました」


 ハタノの実家、レイ家は成果主義という単語を現実にしたような家だった。

 うまく結果を出せないと、母親が「どうして普通のことが出来ないの? お母さんが何か悪いことしたの?」と我が事のように悲しみ、父もまた溜息をつきながら「今日は全員で食事抜きだな」と告げる、そんな家庭だった。


「……ただ、何かの気まぐれだったのでしょう。私が我慢出来ず空腹を訴えた時、母がたまに夜食を作ってくれたのです」


 今思えば、あれも餌付けの一種かもしれないが……。

 それでも空腹時に口にした、小さな肉と野菜を挟んだサンドイッチの味は、格別だった。


「治癒師としては勧めかねる言葉ですが……まあ、身体に悪いものほど美味しい、というものでして。……ついでに白状しますと、私はコレくらいしか美味しいものを知らなくて」

「旦那様も、苦労ある人生を送られたのですね」

「チヒロさん程では。不器用な旦那ですいません」

「いえ。……でも、私にもコレくらいが丁度いいとも思います。下手に、贅を凝らしたものを頂いたり、味への喜びを期待されても困ります。言い方は不自然ですが、雑なほうが気遣わず有難いものです」

「ええ。なので、雑に食べてください」


 ついでに、ハタノは温めたホットミルクをカップに注ぐ。


 チヒロさんが丁寧に礼をし、ゆっくりと小分けにされた白パンを掴んだ。

 そのまま小さな口で、はむ、と。

 可愛らしく食べ始める。


(妻が、草以外のものを口にしているのは、新鮮ですね)


 ハタノも微笑みつつ、のんびりとミルクを頂きつつ、パンを囓る。


 なおチヒロには秘密だが、今回は保存食用の乾パンでなく、ミカお勧めの柔らかパンを買ってきた。

 ”育て屋”才持ちの小麦を原材料に、”調理師”才が調理したちょっと値の張る一品。

 贅沢品とまでは行かないが、旦那のちょっとした見栄である。


 チヒロさんは、はむはむと、リスみたいにちまちまパンを口にし、満足……

 してるかは不明だが、もふもふと丁寧にひとつ食べ終え、ふぅ、と息をついた。


「たまには固形物を頂くのも、いいですね。ものを食べている、という感覚があります」

「お味はどうですか?」

「私は舌が肥えておりませんので、品評はできませんが……旦那様が私のために考えてくださった、というお気持ちだけで、嬉しく思います。……普通の妻なら、もっと気の利いたことを言うのでしょうけれど」

「私はチヒロさんが美味しく頂いてくれたのなら、何も問題ありませんよ」


 ふふ、と微笑むチヒロ。

 ハタノもつられて微笑みながら、のんびり夕食を堪能した。




 それから一息つき、チヒロさんが軽い運動(勇者基準)とお風呂を終えた頃には、夜も更けていた。

 二人でベッドに寝転がりながら、チヒロさんが呟く。


「しかし、旦那様。……休息命令とはいえ、一日何もしないと、罪悪感が募りますね」

「気持ちはわかります。ですが、今は休む時ですよ。無理をしないこともまた、仕事です」

「理解しています。ただ」


 ころん、と、チヒロがハタノの方に転がる。

 銀色の髪が身体にあたって、くすぐったい。


「正直なところ、食べて、休んでいるだけというのは、なんといいますか……些か後ろめたさがあるな、と」

「心境的には辛いですよね。……体調の方はどうです?」

「だいぶ、痛みも引いてきました。運動にも支障がありません」

「それくらいで済んでるのが、奇跡のようなものだと、忘れないでくださいよ?」

「ええ。その節は、本当にありがとうございます。……お陰様で、体力もだいぶ戻ってきましたし」

「それは良かったです」


 と安堵しつつ。

 何もせず休んでるのも、気が詰まるだろう。なら――


「では、今宵は体力があるぶん頑張ってみますか?」


 なんとなく。

 珍しくハタノから誘ってみたものの、


(いや。この誘い方はもっとダメかもしれない……)


 食べて、寝て、抱く。

 じつに三大欲求に忠実すぎる、と気づいたハタノは、慌てて首を振った。


「……すみません、今のはなかったことに――」


 が、


「旦那様」

「え。……ん、っ」


 返答の代わりに届いたのは、ついばむような頬への、口づけ。

 不意をつかれ一瞬びっくりするハタノに対し、チヒロはイタズラを成した子供のように、薄く笑う。


「そうですね。せめて夜の勤めには、励みましょうか。……旦那様って、意外と性欲旺盛ですよね」

「チヒロさんこそ、自覚があるかは知りませんが。結構、積極的ですよ」

「仕事ですので」


 その台詞が、言葉通りのものか、別の意味があるのか。

 まあ、どちらでも変わらないかなと思いつつ、彼女に顔を近づけ――


「あ」

「?」

「いえ。大したことではないのですが……」


 本当に、大したことではない、のだが。

 ハタノはくすっと笑い、新妻に柔らかく微笑んだ。


「チヒロさんから、ミルクとパンの香りがします」

「!?」

「不快とか、そういうのではなく。むしろ心地良いのですが、新鮮で」


 普段のチヒロから香るのは、魔噛草の芳香か、あるいはお風呂あがりの爽やかな香りだ。

 なので珍しいなあ、と……


 が、チヒロはがばっと起き上がり、ベッドから降りてしまった。


「すみません、今すぐ口をそそいで参ります」

「別に、気になることでもないのですが」

「しかし、勇者が甘い香りなど漂わせていたら、沽券にかかわりますし。それに」


 おたおたと、勇者らしからぬ慌てぶりをみせる、チヒロさん。


「旦那様に香りを指摘されるのは、恥ずかしいと言いますか……」


 その、珍しいほどに慌てふためき、照れて赤く染まった顔を見て……

 ハタノはらしくもない、欲をかき立てられる。


 ――いや。これは宜しくない。

 よろしくないのだけど、つい、ぽろっと。


「チヒロさん。押し倒してもいいですか?」

「は? なんでそうなるんですか」

「すみません。ただ、慌てるチヒロさんが可愛らしく見えたので」

「冗談も程々にしてくださいっ」


 ……べつに、冗談ではないのだけど。

 と思いながらも、慌ててお手洗いに向かう妻を見送る、ハタノであった。




 それから十分ほど過ぎて。

 いそいそとベッドに戻ってきた妻は、少々ふくれ面ながら、仕事人らしい真顔で告げた。


「旦那様。私は先ほどつい逃げてしまいましたが、別に旦那様との行為を拒否したわけではなく。あくまで勇者として甘い香りを漂わせているのは、はしたないという自戒のもと、少々身だしなみを整えただけでして。べつに旦那様を拒否したわけでは……」


 何に対して弁明してるかはわからなかったが、とりあえず。


「押し倒してもいいですか?」

「何でそうなるのですか?」

「……何となく?」


 尋ねると、遅れて、……もう、と呟くチヒロさん。

 その顔はほんのり朱に染まっている。


「好きにしてください。今日の旦那様は、ちょっと意地悪ですね」


 意地悪したくなるような態度を見せるのは、あなたの方じゃないか。

 と笑いつつ、ハタノは彼女を抱き寄せ、自らの唇を押しつける。



 今は甘い香りのしない、けれど甘く優しい口づけを交わしながら――こんな爽やかな一日もあるのだな、と。

 ハタノはらしくもなく考えながら、彼女の唇にそっと舌を差し込んだ。

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