3-8.「私が抱き締めたいから、抱き締めたいのです」
帰宅して一風呂浴びると、すっかり夜も更けていた。
元々、本日のデートは魔力を消耗しない休息日として儲けていたが、これでは本末転倒だ。
ハタノは珍しくため息をつきながら、寝間着に着替えたチヒロを誘う。
「チヒロさん。明日は休みにしませんか。今回の出来事については、既に報告が上がっているでしょうし」
「しかし、勇者が二日も休むのは……」
「休息を取るのも仕事です。”才”の高い者が魔力を使わない日を儲けることの重要性は、ご存じでしょう」
魔力を使わない休息日は、人間に例えるならアルコール常飲者に休肝日を与えるようなもの。
それに仕事づくめで疲弊しては、いざという時に本気が出せない。
チヒロは「確かに」と、ぽすんとベッドに腰掛けた。
気合や根性、努力で勇者は成立しないことを、彼女はよく理解している。
それから二人は軽い夕食(チヒロはいつも通り草)を食べ、どちらともなく、揃ってベッドに寝転んだ。
声はかけていないが、夜の営みには手を出さない。
――心なしか、ハタノにも重い疲労感が残っていた。
(治癒師の性分であっても、大量の遺体を目にするのは堪えますね……)
腕が千切れ、ハタノがかけつけた時には既に呼吸をしてなかった男の死体。
自分に「彼を助けてくれ」と泣きすがってきた、女騎士の顔。
後のことは任せたが、彼女は嘘をついたハタノを恨んでいるだろうか?
仕事に私情を持ち込んではならないが、心が疲れない訳ではない。
諸々の感情を飲み下し、ぐっと腹の底へと押し潰しても、どこかにしこりは残ってしまう。
――もっと、何か手はあったのではないか、自分は本当に、最善を尽くせたのだろうか……?
不安を誤魔化すように、ハタノは分厚い本を開く。
うつぶせの姿勢になり、魔法ランプの光の下で文字を追っていると、チヒロが横から覗き込んできた。
「旦那様、それは何の本です?」
「医学書です。ガルア王国の治癒師フェブレン師の新著が届きまして」
「……敵国の治癒師、ですか」
「帝国と王国間には積年の恨みがありますが、医療に国境はありません。そして残念なことに、医療面において帝国は王国に大きく遅れていると言わざるを得ません」
「旦那様は本当に、仕事熱心なのですね」
「……違います。私はただ、怖いから本を読んでいるだけですよ」
治癒師として、最善を尽くせているか――間違っていないか、どうか。
ハタノは時折どうしようもなく、自分の判断が怖くなる。
「治癒師は、常に判断の連続です。時には、迷うこともあります。その迷いを少しでも減らすためには、知識を学ぶしかないかと」
応えながら、ふと疑問が過ぎった
「そういえば、勇者はどのように仕事を学ぶのですか? 勇者の先生がいるのでしょうか」
「勇者は、その多くが実践主義です。私もまた、母に連れられ勇者としての手解きを受けましたので」
「聞かせてもらっても?」
「…………」
「話したくなければ、構いませんが」
「いえ、別に」
という割に、チヒロが沈黙する。
彼女はそれからなぜか、ハタノに背中を向けてしまった。
……ぼそぼそと、小さな声が、寝室に響く。
「私の初仕事は、母に連れられての緑竜退治でした。前に話した、最弱の緑竜です。そのとき私は住人の避難を担当する後方支援で、村の自警団の方々とともに村民を誘導していたところ、竜の不意打ちを受けました。母が戦っていた竜とは別個体がいたのです」
「それは、また」
過酷な初仕事だ、とハタノは思う。
「私は竜におののき、反射的に身を引いてしまったその前で、自警団の方が噛み砕かれ飲み込まれていく姿を目の当たりにしました。それはつい先程まで、楽しく任務を共にしていた地元民でした。……私が顔を上げると、竜の口元からは彼等の膝から伸びた足だけが二本の串のようにびくびくとうごめき、やがて力なく砕かれ飲み込まれる様を、私はただ、見ていたのです」
治癒師の格言にも、似たようなものがある。
患者を十人殺して、一人前。
最初から最善の判断を行える者など、この世には存在しない。
治癒師として、勇者として経験を積むことは、それだけ多くの屍を積み上げていくことに等しい。
「仕事を終えた後、母に言われたものです。――お前が慄き、泣き、立ちすくんだ無駄な時間が、この結果を招いたことをよく覚えておきなさい、と」
そんな感じの現場ですよ、と、チヒロは冷たく呟いた。
勇者の仕事は、日常的に命の選別があるのだろう。
ハタノには想像もできない血の現場。
それが彼女の業務であり、”勇者”の才をもつ自然な役目――
だとしても、と、ハタノは彼女の首筋にするりと手を滑り込ませ、その小さな身体を包むように抱き寄せる。
何だか無性に、彼女に優しくしたい気分だ。
「旦那様?」
「チヒロさん。今宵は、夜の営みに励む気はないのですが。それはそれとして、抱き締めても構いませんか」
「……? それに、何の意味が?」
「私が抱き締めたいから、抱き締めたいのです。人肌の温かさは、触れるだけで優しい気持ちになれますから」
彼女の身体を、そっと自分の元へと引き寄せる。
チヒロの身体はいつ触れても柔らかく、魔物を一刀で切り伏せる筋肉があるとは思えない程にしなやかだ。
彼女にとって先程の独白は、重い過去の吐露というには淡々としていた。
ただの事実の列挙、そんなイメージすら抱く。
彼女は悔いることはあっても、泣くという行為は時間の無駄だと、理解している節があって――
それでも、ハタノは彼女を抱き締めたい。
何となく、だ
「旦那様」
チヒロも抵抗せず、ハタノの身体に自分を預けてくる。
くすぐったいものを感じてハタノが微笑んでると、彼女がくるりとこちらを向いた。
そのまま、こつん、と額をハタノの胸元にぶつけ、ぐりぐりと甘えるようにこすりつけてくる。
子猫のようで可愛らしい、と、ハタノが微笑んでいると、彼女は意外なことを口にした。
「旦那様は、私を恐れないのですね。魔物相手とはいえ人質を取り、子供を盾にする外道を用いましたのに」
「そうですね。……全く怖くない、といえば嘘になりますが、チヒロさんが冷静な判断をされてることは理解できます」
外道。人道に反した戦。あまりにも見苦しく卑劣である――
そんなものは現場を知らず、絵に描いた理想論しか見てない、愚者の言葉だ。
「治癒師もまた、正しい目的を達成できるのであれば手段は問うべきでない、と私も思いますし」
「……あのお貴族様は、ずいぶんご立腹でしたけども」
「すみません、余計なことをして」
「やはり、わざと痛くしたのですね?」
「余計なことをした、とは思います。業務としては間違っていますね」
分かっていたことながら、ハタノは認める。
今ごろ、ベヌール卿はハタノに対し憎悪を募らせている頃だろう。余計なことにならなければ良いが……。
チヒロが意地悪そうに、くすっと笑う。
「それは、勇者としても窘めるべきなのでしょうね。お偉い様の機嫌を損ねて良いことはありませんし」
「ええ。私も、もう少し言いようはあったのですが」
それでも、妻を悪様に言われて、流石に腹が立ったのだ。
非論理的だと分かっていながら自分を抑えられなかった、ハタノにしては珍しい言動である――
「でも、旦那様。……これは勇者として、あってはならないことですが」
「はい」
「…………私はすこしだけ、嬉しく思いました。言いくるめられたあの男の顔に、すっと胸がすく思いがありましたし、旦那様も、格好よかったですし、ね」
……ナイショですよ。秘密ですよ。
勇者がこんな悪いこと、ほんとは考えちゃいけないんですからね、と。
ハタノの胸元でもぞもぞと、焦れるようにくっつきながら囁いてくるチヒロ。
……ああ。困った。
これは、宜しくない。
大変に宜しくない。なんていうか、その。恋人に甘えられているような。
本来あるべきはずでない、好意を抱いてしまいそうになる、というか。
(……ああ。でも考えてみれば、妻を可愛いと思うことは、悪いことではない、のでしょうか?)
ハタノはじっと考えを改め、ううむと唸り――閃きが走った。
「チヒロさん。ひとつ気付いたのですが。これは、私達にとってのデートかもしません」
「と、申しますと?」
「業務を通じて、双方に対する理解を深めあいました。即ちデートと呼べるのではないかと」
不謹慎だが、事実に着目すればそういう形になっている。
ハタノとチヒロは、一般市民が楽しむ演劇や美味しい食事よりも、血の現場のほうが理解し合えるのかもしれない――
なんてことを伝えると、チヒロは一瞬目を丸くして。
ふっ、と、小さく安堵したように微笑んだ。
「旦那様。そのようなこと、他の方に聞かれたら不謹慎にも程がありますよ?」
「すみません。私も、とても失礼なことだと理解はしてるのですが」
「ええ。とても失礼です。……が、その方が、私達夫婦らしいのかもしれません」
「そうですか?」
「はい。血のあふれる現場でなければ、デートの一つにも至れない。実に私達らしい関係かと」
彼女の薄い微笑みを見つめながら、ハタノは思う。
夫婦というのは、難しい。各個人によって形が違いすぎて、病以上に類例が見つからない。
それでも、このあり方は自分達にとって、最適な形のひとつかもしれない――
「……では、そろそろお休みしましょう、旦那様」
「ええ。おやすみなさい、チヒロさん」
医学書を置き、カーテンを閉め室内を闇に閉ざす。
流石に、今日は疲れた。力を抜いて寝ることも許されるだろうと思い、ふっと息をつく。
「それと」
消灯した後、ぼそり、とチヒロが呟いた。
「ありがとうございます、旦那様」
「……それは、何に対するお礼ですか?」
「分かりません。が、色々なことに対して、です。このように、私を抱き締めてくれたこと、とか」
チヒロが少しだけ旦那の身体に身を寄せる。
妻の柔らかな熱をその身に抱きながら、ハタノは不思議と癒されたような気持ちになり、ゆるやかに瞼を閉じた。
多分、今宵は――死体の夢に魘されなくて、済む。
そんな予感がした。
*
……さて。
そんな二人が、とても可愛らしい事件を起こしたのは、その翌日の朝のことだった。
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