春にさよなら

一視信乃

そして、新しい夏が始まる。

 行く春をしむころ、魚谷春うおたにはるは悩んでいた。

 軽音部の備品であるパイプ椅子に浅く腰掛け、足を組んだその姿は、殺風景な部室のなか、なんだかとても絵になっている。

 中性的な顔立ちで色素が薄くひょろっとしてるが、軟弱な印象はまるでない。

 紺のブレザーの代わりにグレーのパーカーを羽織っているのと、左耳にピアスをしている以外、素行になんの問題もないごく普通の高校二年生だ。

 そんな彼をしばらくながめていた同級生のかなが、苦笑まじりに口を開く。


「まーたのこと考えてんのか?」

「……ああ」


 子供の時分、春日には「ナツ」という友達がいた。

 名字は忘れてしまったが、下の名前はなつといって、まるで夏の化身のように元気あふれる少年だった。

 背が高くて手足も長く、サッカーがすごく上手かった。

 濡れ羽色の髪に日焼けした肌、爽やかな笑顔は今でも脳裏に焼き付いている。


 一方、ナツと出会ったばかりの小学三年生の春日は、身体が小さく気も弱く、遊び相手もほぼいなかった。

 人もまばらな公園のすみっこにある桜の下で、いつもメソメソしていた春日に、ナツはカラリといってくれた。


『ハルが小さいのは、早生まれだからだろ? だいじょぶだって。そのうちボクよりでかくなるから』


 ナツの予言は見事に当たり、小学五年になるあたりから、春日はすくすく伸び始めた。

 それにともない自信も付いて、遊び相手もたくさん増えた。

 なのに、なぜかそのころから、ナツは姿を見せなくなった。

 違う学校だったからか、まわりの誰に聞いてみても、行方はようとして知れず、あれから六年、彼には一度も会っていない。


「何々? 恋バナ?」


 ずっとスマホをいじっていた三年の鶴丸花つるまるはなが、好奇心むき出しで二人ににじり寄ってきた。


「そっすよ。ハルの初恋話」

「ちげーよ。アイツ男だし」

「あーでも、ハルは昔ちっこくて可愛かったから、向こうは案外そう思ってたりして」

「んなワケあるか!」


 コントのような掛け合いは、毎度のことである。


「あんたたち、ホント仲良しね」

「まあ、小五からの付き合いですから」


 春日が答えるその横で、不意に奏多が真顔でいった。


「なぁ、前から思ってたんだけど、ソイツ、ホントにいたのか?」

「は?」


 ポカンとした春日へ、奏多はさらに言葉を重ねる。


「だってオマエ、昔は女とばっか遊んでて男友達いなかっただろ?」

「人聞きわりぃ言い方すんな! あれはオモチャにされてただけだ」

「で、女にうんざりしたハルが、男友達欲しくて作った空想の友達だったとか」

「なんだよ、それ」


 ムッとする春日の前で、花野がああとうなずく。


「イマジナリーフレンドってヤツ?」

「そう、それっす」

「んなワケあるか! アイツと背比べしたあとだってちゃんと残ってんだからな」


 例の公園の桜の下で、春日はナツと背比べをした。

 みきにこっそり刻んだ傷は、今もしっかり残っている。

 春日がそういうと、奏多はガラリと主張を変えた。


「じゃあ、空想の存在でなく実在の──霊やあやかしの類いだとか」

「そうね。桜には鬼が住んでるっていうし、一人で遊ぶハルくんが可哀想で友達になってくれたのかも」

「オマエ、ソイツにいわれなかったか? 『ボクのこと誰にも話しちゃいけないよ』って」

「んなワケ──あ!」


 確かにナツはいっていた。

 ここで遊んでんのナイショだよって。


「えっ、マジ? つーかオマエ、べらべらしゃべっちまってるし、そのうちたたられんじゃねーの」

「こわっ。ハルくん大丈夫?」


 忠告する奏多の目も案ずる花野も笑っていて冗談なのは明らかだったが、それでも春日はうんざりしてカバンを手に立ち上がる。


「あれ? 帰んの?」

「帰りますよ。せっかく授業早く終わったってのに、部活やる気ないみたいですし」

「そっ。じゃあ、あたしもかーえろっと。今日は妹も帰り早いし、たまには一緒に遊ぼっかな」

「鶴丸センパイ、妹いたんすか」

「いるよー。あたしはやめたピアノ続けてて、横浜にある私立の音楽科に通ってんだけど、今度ヨーロッパに──」


 二人の声をさえぎるように、春日は部室の戸を閉めた。


         *


 家に帰る途中、春日は少し遠回りをして、昔ナツと一緒に遊んだあの公園まで行ってみた。

 頭の中は依然として激しくいきどおっている。


 ナツは春日にたくさんの笑顔と勇気をくれた人だ。

 もしナツがいなかったら、春日はもっとひねくれた暗いヤツになっていたかもしれない。


「──それをあんな言い方しやがって」


 ぶつぶつつぶやきながら、狭くて急な階段を登っていく。

 里山を切り開いて造られた住宅地の、見晴らしのよいところにある街区公園は、春日の記憶となんら変わりなく寂れて閑散としている。

 今年はすでに咲き終わっている藤棚の下に並ぶベンチと、今ではとても小さく見えるごくありふれた滑り台。

 そして、以前はなかったはずの、馬の形の遊具が一つ。

 くだんの桜は、藤棚の斜め横にあった。

 もっとも、それを桜だと思うのは、春の一時期──花の盛りのころだけで、今は園内に溢れる瑞々しい緑の一部でしかない。


 春日は木に近づき、紫褐色の幹に手を伸ばした。

 ざらざらした樹皮は日差しに暖められ、優しい温もりを指先に伝えてくる。

 視線を下げると、横に長いもくったり交わったりして付けられた浅い傷がいくつもあった。

 春日はホッと息を漏らす。

 二つ横に並んだ傷は、途中で一方だけになる。

 ナツが来なくなったあとも、春日はここで待っていたから。

 いつかまた会えると信じて、彼にわかるよう印を刻み続けた。

 ただ、春日が最後に付けた傷も、今の彼より十五センチ以上低い。

 さすがに中学生になって公園の木に傷を付けるのはマズイだろうと思ったからで、けしてあきらめたわけではない。

 春日はそこから離れ、ベンチに腰を下ろした。


 実は、奏多にいわれたのと似たようなことを春日も考えたことがある。

 だって、ナツを何度か家に連れていき母に紹介したこともあるのに、母はそのことをまるで覚えていなかったから。

 女の子だったら何人かあるけど、男友達を連れてきたことなど一度もなかったと断言され、春日は強い衝撃を受けた。

 そのときチラッと思ったのだ。

 もしやナツは、人じゃないかもしれないと。


〈万一、人でなかったとしても、それでもオレは構わない。もう一度会いたい。会って、こんなにでかくなったって、自慢したいのに……〉


「ナツ」


 春日が思わず呟いたとき、公園の入り口に人影が現れた。

 白いブレザーに茶色のスカートの女子高生だ。

 このあたりでは見掛けない制服のデザインも物珍しいが、もっと強く目を引くのは、綺麗に整ったその顔立ち。

 濡れ羽色の長い髪をそよ吹く風に遊ばせ、まぶしそうに園内を眺める美少女と、それを見ていた春日の目が合う。

 一瞬何かがひらめくように感じたが、春日はすぐさま目をらし、パーカーのフードを目深く被った。

 それから、イヤホンをしてスマホを弄り始める。

 そうやって動画に見入る振りをしながらチラッと様子をうかがえば、彼女はわずかに躊躇ためらう素振りを見せたあと、意を決したように歩き出した。

 春日の前を横切り、あの桜の正面に立つ。

 白く細い手がざらついた樹皮に伸ばされるのを見て、春日はアッと叫びそうになった。

 彼女の指は愛おしむみたいに、幹をゆっくりなぞっていく。

 そして、ブレザーのポケットをまさぐると何かを取り出し、自分の背丈と同じくらいの高さに横線を引くよう動かした。


 それから彼女はきびすを返し、前を向いて歩き出す。

 どこか嬉しそうな凛とした横顔が、記憶のなかの少年と重なる。


〈もしかして──〉


 春日は立ち上がった。

 公園を出て階段を降りようとする後ろ姿に、思いきって呼び掛ける。


「ナツっ」


 長い髪を揺らし、彼女はすぐに振り返った。

 驚くその表情はもはや、疑う余地もない。

 確信を持って笑う春日をじっと見上げるナツの顔にもみるみる笑みが広がっていく。


「ウソ! もしかして、ハル?」

「ああ」

「うわぁ、久しぶり。なんかスゴいでかくなってるー。別人みたいで気付かなかったよ」

「それをいうなら、そっちもだろ」

「確かに、あの頃は髪、短かったし」


 いや、髪だけじゃなくて、とツッコミたいのを、春日は飲み込んだ。

 よくよく考えてみれば、ナツが男だと聞いた覚えはない。

 見た目から勝手にそう思っていただけだ。


〈もしや母さん、ナツが女だって気付いてた?〉


 あれこれと思いを巡らす春日に対し、ナツの口からはマシンガンのように言葉が飛び出してくる。


「あのころはレッスンサボって、ハルと遊ぶの楽しかったなぁ。ああ、でも留学行く前に、また会えて良かったよ」


 そういやコイツは人懐こくておしゃべり好きだったなと、懐かしく思うと同時に、春日は自分が内気な子供時代に戻ったような気分になった。


「あーもっといろいろ話したいけど、姉ちゃんと遊ぶ約束しちゃったからなぁ。そうだ、連絡先教えて」


 スマホを手にしたナツが画面に出したQRコードを読み取りながら、春日は何気ない体で聞く。


「そういや、ナツのフルネームってなんだっけ?」

「鶴丸夏野だよ」

「え? 鶴丸?」


 友だち追加が済むと、彼女は満足そうに白い歯をのぞかせた。


「じゃあ、あとで連絡するから。またよろしく。魚谷春日くん」


 蒼穹を背にした彼女は太陽みたく眩しく爽やかで、春日は心の底から思う。

 やっぱコイツは夏の化身だと。

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