第三話 彼女は「すまなかった」と息も絶えだえ
1
(仲間からとり残された自分。惑星でたった独りきり……)
――そこで感じるものは孤独か、それとも不安か。否。圧倒的な恐怖。
豪馬はふうと一息吐き、十年ほど前に流行った小説から目を離した。
腕を膝に置き、本を閉じる。
そうして彼は物語の世界から現実へと、意識を戻した。
2
歩三は彼の腕に背中を預けていたが、その腕が動かされたので横に傾いた。
それでもなお彼女はタブレットを掴んだまま、家電量販店のネットショッピングサイトで物色を続けていた。
開けた窓から入ってくる風がようやく涼しくなってきた、長い夏休みの、夕暮れのことである。
首を妙な角度に折った姿勢のまま物欲と戦っている彼女の興味は、もっぱらデジタルカメラである。
彼女は地元を離れ、ここ北海道にやって来た。そして見るもの全てが新しかった。
彼女の初北海道となった四月はまだ歩道が雪と氷に覆われており、そこでは女性がそりを引いて歩いていた。そりは彼女が昔家族と行ったスキー場で、親御が幼児を乗せて遊ばせているのを見た、プラ製の〈それ〉そのままである。この女性もそりに子供と、スーパーで買ったのであろう食材の入った袋を載せていた。
一度だけでなく、何度か目撃した。全て別人で別の場所である。
五月になると、街中に雪は無くなっていた。
そこで彼女は歩道の幅が地元の倍ぐらいあることに気が付いた。いままではその半分以上が雪捨て場として山になっており、分からなかったのである。
彼女の目を惹くものは他にもあった。屋根が平(たいら)で〈への字型〉である。ほとんどの道が直角に交わるし、一本一本の道がストレートで長い。地下鉄の列車に車輪が付いている。
中でも彼女のお気に入りはオレンジ色の街灯だった。白色灯が照らす地元の無機質な夜道と異なり、オレンジ色に染められたアスファルトや家々の壁面が、とても幻想的に彼女の目へと映った。
彼女は深夜の散歩が趣味になっていた。
(冬になれば街全てが雪に覆われるらしい。暖色に照らされた雪の夜道を歩く。それはどんなに美しいのだろうか)
彼女は今から冬が待ち遠しくて仕方がなかった。
彼女はこの土地が楽しくて堪らず、それ故に見たもの感動したもの全てを形に残したいという欲求に彼女は駆(か)られていた。
――出来れば綺麗に残したい。そう、カメラが欲しい。
彼女はその想いを金銭的な理由にて夏のいままで熟成していたのだが、先日、大発酵した。
(フルサイズの、カメラが、欲しい。やはり専用機。スマホでは話にならん。専用機は専用が故(ゆえ)に美しい。当たり前だ、メカなのだ機能美というやつだ。嗚呼、このパナの角角としたデザインが堪らないではないか。欲しい。この如何にもカメラ然としたやつが欲しい。何故私は店で触ってしまったのか。運の尽きだ。手で掴む確かな重量。メカを手に構える事でしか味わえないあの高揚感。シャッターを切る感触、その瞬間手に伝わる微かな振動。むうっ、あれを知ってしまったらコンパクトカメラが霞(かす)んでしまった。欲しい。右手で筐体をホールドし左手でレンズを掴むあのスタイルで写真を撮りたい。贅沢は言わない。初めはキットレンズで良いのだ。いくらだ。あああああああ)
彼女は先週店を訪れて以来、毎日何度も様々なサイトを見ては同じことを繰り返していた。
そんな彼女が信条を曲げて中古販売のサイトに足を伸ばそうとした時、豪馬から声が掛かった。
3
「歩三ちゃんが考える恐怖ってなに?」
彼女はタブレットのディスプレイから目を離し、声の主に顔を向けた。それに従い、いままで辛うじて彼の腕に引っかかっていた頭が彼の太ももへと滑り落ちた。
「藪(やぶ)から棒だな。しかも質問が曖昧(あいまい)だ」
チタンフレームの眼鏡を通して彼女の三白眼が彼の目を捉えた。乳白色の天井が背景となって彼女の目に映る。
「うん、歩三ちゃんはどんな時……というか状況になったら、怖い、と感じるのかなって」
「んん? 怖い、か?」
彼女は顔をそのままに眼鏡の位置を直し、視線を彼の目から天井へと移した。
そのまま五秒ほど停止していた彼女だが、やがてポツポツと語り始めた。
「夜、アパートに帰ってくる」
「あ、ごめん歩三ちゃん。やっぱり無しでお願いします」
「部屋の前に立つ。ドアに鍵を差し込む――かちゃん。」
「違うんだよ歩三ちゃんそっちの怖いじゃなくて絶望的な状況下で感じる方の怖いで――」
「ドアノブを回す、ドアを開く――ぎっ。玄関。暗い」
「歩三ちゃん」
「ふと視線を落とす」
「……」
「犬が座って、こちらをじいっと見ている」
「あ、わんこ出てきた」
「犬飼ってない」
「ふみちゃんっ!」
彼女の肩は彼の手で掴まれ、激しく揺さぶられた。
「ま、待て君。酔う。眼鏡が落ちる」
彼女がそう告げると彼の手は止まったが、首すじに顔をうずめられた。
「違うって言ったでしょ!」
「あははくすぐったい。しかしな、そう言われてもだな。あはは。ではどういうのが、あはっ、聞きたかったのだ? ああそうだ。すまなかった。君は怪談の類(たぐい)が嫌いだったな」
「知ってるくせにっ」
「忘れていた。数年来だな、君の怖がりを見たのは。あはっ。もうやめてくれ。くすぐったい」
「今日は泊まって一緒に寝てよねっ」
「ああ分かった。分かったから」
そう言って彼女はまだ首に押し付けられた彼の頭を優しく撫でた。
4
「豆電球を点けておくね」
「常夜灯か? ああ、了解した」
彼も彼女も就寝時は灯りを点けない習慣だったが、彼の異例の要請に彼女は従った。
静かになった。
二人とも〈寝る段になったら全力で寝る〉ということを信条としており、話を始めたりはしない。
ただし今日の彼女は信条を曲げ、布団の中で回想を始めた。
(しかしあの程度の、怪談とは言えないほど陳腐な話で、君がああもなるとはな……)
お泊まりすることが決まった後、では一旦部屋へ戻りお風呂に入って着替えて来る、と言う彼女へ、
「一緒に行く」
と彼は言い、すぐさま着替えの用意を始めた。
「……私の部屋でお風呂を済ますのか?」
「一緒に入る」
「知っての通り、君の部屋と私の部屋は同じ間取りで風呂場も同じだ。つまり、狭い」
「一緒に入る」
「君の身長はいくつになった」
「百八十五センチ」
「大丈夫だ。その体格があれば化け物が現れても撃退できる」
「心霊現象に物理は効かない」
「念じろ」
「怖いからそんな余裕ない」
「目を閉じたらどうだ。ジェットコースターの対策と同じだ。つまらんがな」
「お化け目の前にして目を閉じたら余計に怖いでしょっ」
「君は狸か。恐怖で身がすくんで、車を睨んだまま跳ね飛ばされるタイプだな」
「一緒に入る」
「私の身長は今何センチだと思う」
「百八十くらい」
「ご名答だ。さて私はお風呂に入ってくる。早く戻るとするよ」
彼女は玄関へ向かったが、既に支度を済ませた彼が付いてきたので、そのまま何も言わず自分の部屋へ向かった。
彼女の部屋で、二人して浴室に入った。
「もしユニットバスだったら君はどうしていた?」
「隣のトイレで座って待ってる」
「……君が洗っている間、私にもそれをやれというのか」
「歩三ちゃん、お願い。もう今日は許して欲しい」
「確かにこれ以上は可哀想だ。私にも責任の一旦はあるようだしな」
まず彼が体を洗い、その間彼女は浴槽で湯に浸かった。
次に彼女の番が来た。
狭い浴室で、身長と同じく平均以上の胸を彼に押し付けて体を入れ替え、それから洗髪を開始した。
一緒にここで体を拭こう、と言った彼の案を「不可能だ」と彼女は一蹴し、バスマットを敷いた廊下へ先に出た。
「歩三ちゃん、もうそっち行っていい?」
「君はだな。少しは男を見せてみろ」
そうは言いつつも、彼女は手早くタオルを滑らせ体を拭いた。
のちに彼も体を拭き終え、お互いバスタオルを体に巻き付けながら、髪を乾かすため居間へと入った。
中は無秩序を極めていた。
彼女の大好きなデジモノなり物理の教科書なり何なりが、机の上も床をも覆い尽くしている。
彼女が彼に手伝ってもらって部屋を掃除する日は土曜日だ。つまり金曜の今は混沌のピークである。
一週間で必ずこうなる。
「私自身、不思議なのだ。この物たちはどこから現れるのだろうな」
「一週間、部屋を録画していたら原因が分かるんじゃないかな」
整理整頓の教育を継続している彼の声が、先ほどより低い。
「言う様になったじゃないか。では部屋へ戻りたまえ。私は寝る」
髪を乾かし終え、彼女の就寝準備が完了した。
二人は彼の部屋へ戻るため、アパートの廊下へ出た。
そこから数歩の距離を移動して、ドアの前に立った彼が鍵を手にしたまま彼女へと振り向いた。
「いないよね?」
「居るわけ無かろうが」
結局、彼女が先にドアの中へ入った。
彼女は回想を終えた。
そして今ここでも、狭い、と感じていた。
セミダブルの敷布団だが、二人の体格を納めるにはだいぶん広さが足りない。
彼が寝たら部屋へ戻ろうかとも考えたが、良心が咎(とが)めた。
しかし彼の匂いを嗅いでいると、いつの間にか彼女は眠ることができた。
5
翌日、歩三は自室で隣室のドアが閉じる音を聞いた。
続いて靴音が鳴り、そして遠ざかっていったことから、豪馬が夕飯の買い出しに出たことを悟った。
今朝になって彼が落ち着きを取り戻した。
彼女は彼に連れられ自室に戻り、彼の手伝いのもと恒例の整理整頓を行った。
昼食は彼の部屋でご馳走になり、そのまま自室に戻ってゲームに勤(いそ)しんでいたところである。
靴音が完全に聞こえなくなって、彼女はコントローラを置いた。
次に、何気なく目をやったベッドで、青いぬいぐるみを見た。
それは枕の横が定位置の、スライムであった。
原典のスライムではなく、日本人の魂に刷り込まれた、あの瞳孔が開き切った方のスライムである。大きさは一抱えある。
ゲームにはまった歩三へのプレゼントだと言って、彼が買ってきた物だ。
彼女は長い間、それを見据えていた。
6
「お帰り。すまないな、今日は買い出しを君に任せてしまって」
「どういたしまして。でもなんで歩三ちゃん外で待ってるの? ご飯出来たら呼びに行くのに」
「君の料理する姿を見ようと思ってな」
「歩三ちゃんも料理手伝うかい」
「いや遠慮しておこう。初心者には実践の前にまず座学が必要だ」
「ご飯作りなんて、やりながら覚えるもんだと思うけど」
そう良いながら買い物袋を下げた彼が、玄関のドアを開けた。
ドアが開き切るのを待った彼女は彼に語りかけた。
「豪馬。君が怖がっていたものは所詮(しょせん)その程度だ。どうだね、可愛いスライム君だろう」
腕組みをした彼女はその姿勢のまま彼の返答を待ったが、五秒経っても彼の声は聞こえなかった。
彼女からはドアを挟んだ彼の顔は見えない。
奇妙に思った彼女は、豪馬、と彼の後ろに回った瞬間、彼女の手は引きずり込まれた。
7
(今、自分は布団に置かれたようだ)
と歩三は思った。
(布団だ……多分。いや布団だ。そして私は天井を向いている。が……何が起こった?)
彼女は記憶が曖昧(あいまい)になっていると認識した。
だから一つ一つを遡(さかのぼ)ることにした。
まず腰回りに圧迫感が残っている。浮遊感も感じられた。そして脳に残る遠心力。
(ああ思い出した。豪馬に連れ込まれたのだったな)
腑(ふ)に落ちた彼女は横になったまま周りに目を向けた。
彼が見えない。
「豪馬。これはどうゆ、うっ! ふぁぇえっ‼︎」
急に臍(へそ)の辺りが押された。
(パンツのボタンが外された?)
と歩三が理解した時、一気にショーツごとパンツが引き抜かれた。
彼女は首を上げて足の方を見た。
今しがた脱がされた彼女のパンツを持った彼が居た。
「豪馬。豪、おっおお? いや、待て。どういうつも、ンはぁぁぁっ」
彼の頭が彼女の太ももを割って入り込み、彼女は勢いよく舐められ始めた。
「ごうまっ! すまなかぁあっあああ⁉︎ やめっやめてぇぇっんはぁ!」
彼は止めてくれなかった。
――三十分ほどのち。
彼女は肩で息をしながらも、ようやく喋れるようになった。
濡れた敷布団が冷たい。
横になった彼女の傍では、彼が正座をしている。
「つまり……君は……君自身よくわからないと、言っているのか」
「はい……。その、申し訳ございません」
「いや……私も、悪ふざけが……はぁはぁ……過ぎた」
「はい。とても怖かったのは覚えています」
「……そうか。すまなかったな……」
「いえ……。でも二度として頂かなければ幸いです」
「約束しよう……しかし」
「しかし?」
「君には、悪い事をし、たが。はぁ……まだ先があったのだと、発見できた」
「先?」
「そうだ。……豪馬、私たちに、マンネリは、まだまだ気にせず、良いようだぞ」
彼女はゆっくりと眼鏡の位置を直し、彼へと微笑んだ。
それを見た彼の顔がみるみると赤らんでいった。
8
歩三はシャワーで軽く身体を洗ったあと、休日用のリュックを背負い玄関へと向かった。
彼はこの間に布団を干しているはずである。
あの後、彼女はこの夏休みを使った〈合宿〉を彼に提案した。
「あの〈先〉を再確認し、辿り着き方を完全にものにする為だ。君の力が必要だ」
と彼に説明したら「なんの事か分からないけど何をするかは分かった」との回答を得て、話はまとまった。
彼女はいまから彼を連れて、彼の部屋に置く自分用の布団を買いに行く。
(訓練と休息は別々にしないとだな。ただでさえ身体を使うのだ。睡眠は広々とした布団でしっかりと摂(と)らねば)
そうして靴を履こうとした彼女の目に、玄関のドアノブへ吊るした小さな犬のぬいぐるみが映った。
先日、彼と街の探索中に立ち寄ったゲームセンターで、彼女が勝ち取ったプライズであった。
彼女はしばし犬を見つめていたが、ドアノブから外して廊下に座らせた。
彼女たちは今日の夕飯を外で済ますつもりだ。帰宅は夜になると考えている。
「私を怖がらせてみたまえ」
そう言って彼女はドアを開き、彼の部屋へと向かった。
ならば私は、君と添い遂げよう。 さぶ☆兄貴 @subaniki
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