後編
真人は端末をしまうと、落ちかけていた眼鏡を人差し指で押し上げた。肘を机の上について両手を組み、顎を乗せる。真正面から見据えられた璃々が、戸惑ったように視線を左右に揺らした。
「許さないと言う気持ちを定義するのは、とても難しいです。人によってその気持ちは、怒りにも悲しみにも変わります。近藤様がどのように感じるのかは、実際に投与してみないと分かりません」
「……博愛的重度寛容性症候群にり患していない人は、定期的に許せないという気持ちを売ると聞いています。つまりは、人間に不必要な感情と言うことですよね?」
「必ずしも不要な感情だとは思いません。バーンリー事件のこともありますし……」
「少年が一家を殺害した犯人を許した。それのどこがいけないんですか?」
璃々の指先で、藍色の液体が波打つ。
許すことは美しく、許さないことは醜い。そう定義したはずなのに、バーンリーの少年は醜いに振り分けられてしまった。彼は、美しい行動をしたのに。
「近藤様は、お気に入りのぬいぐるみはありますか? いえ、ぬいぐるみでなくても良いです。幼い頃から大切にしているものはありますか?」
「祖母が私のために作ってくれたクマのぬいぐるみがあります。私が生まれた日にプレゼントしてくれたもので、今でも飾り棚の中で座っています」
「素敵ですね。では、そのぬいぐるみが無くなったらどうでしょう?」
「探します。とても大切なものなので」
「では、壊されてしまったなら? 例えば家に泥棒が入って、切り裂かれてしまったら?」
「悲しい気持ちにはなりますが、でも仕方がないです。犯人を許します」
博愛的重度寛容性症候群の患者にも、大切なものを奪われて悲しむ気持ちはある。しかしその深い悲しみは、常人と同じように続くことはない。仕方がないという諦めの気持ちに変化し、相手を許す感情にとって代わってしまう。
本人では制御できないほど早く、悲しみは過ぎ去ってしまうのだ。
「許さないと言うのは、先ほどおっしゃった悲しい気持ちが続くことなんです。または、悲しみを受け止めきれずに怒りへと変化させ、心の内に留めておくことなんです」
璃々の目が、驚愕に見開かれる。
彼女たちには理解のできない恐ろしい感情なのだと言うことは、博愛的重度寛容性症候群の患者たちと何度も向き合ってきたため知っていた。彼らはみな、真っ青な顔で手の中の小瓶を見つめるのだ。
「なぜ彼は、私にそんな恐ろしい感情を抱き続けるように願ったんでしょうか?」
もう一度手元の端末を操作し、今回の依頼人の項目に指先を滑らせる。
近藤
晴也は璃々と結婚した直後に不治の病にかかり、数年の闘病生活を送ったが病に打ち勝つことは出来なかった。彼は三カ月前に荼毘に付され、今は隣県の墓地で静かな眠りについている。
画面をタップし、依頼時の聞き取り調査をまとめた表に目を滑らせる。
「晴也さんは、今回の依頼理由を“約束の不履行のため”と仰っていたようですが、何か心当たりはありますか?」
「多分、プロポーズの時に言っていたことだと思います。ずっと一緒にいようと。……でも、心変わりをして約束を違えたわけではないんですから、仕方ないじゃないですか」
「仕方がないで済ますことのできない感情が、晴也さんにはあったのだと思います」
次の画面には、国が発行した許可証が添付されていた。
許せないと言う気持ちは増えすぎると犯罪につながるため、投与には国の許可が必要だった。これがあると言うことは、晴也の願いは国によって認められたことを意味している。
彼の願いは、正当なのだと。
「個人的な見解ですので、どうか参考程度にとどめてほしいのですが……」
真人はそう前置きしてから、真っすぐに莉々の目を見つめた。
「近藤様には、今回の投与を見送る権利があります。国の許可証は、投与を強要するものではありません」
あくまでも、投与をして良いと言うだけなのだ。本人が拒絶したのなら、投与は出来ない。
「ずっと一緒にいると言う約束を果たせなかった自分を、許さないで欲しい。それは、晴也さんのエゴにすぎません。許さないと思い続けることは、苦しいことなんです。許さないほうも許されないほうも、辛いことなんです」
「では、なぜ彼は……」
「自分が逆の立場なら、許せないと思ったからなのかもしれません」
もしも病に倒れたのが璃々で残ったほうが晴也なら、博愛的重度寛容性症候群でない彼は、彼女を許すことができなかったのだろう。
「許さないということは、思い続けることなんです。辛くても悲しくても、思い続けることなんです……」
璃々が目を伏せたまま、小瓶をギュっと強く握りしめた。
静かな店内に響く嗚咽に、真人は璃々の背中を優しく撫でた。
許さないとは、尽きることのない悲しみに行き場を与えることだ。許さないと投げつけることで、やがて悲しみが減っていく。最後には両手に乗るくらいの悲しみが残り、そっとしまい込む。そうすることによって、やっと悲しみを乗り越えることができるのだ。
許さないと言う気持ちを投与することは、博愛的重度寛容性症候群の患者のためでもあった。
悲しみを乗り越えるための手順を踏むことができない彼らは、心に深い傷を負った後、突然襲い掛かる理由の分からない悲しみに悩まされることになる。無理やり押し込められて蓋をされた感情が、あふれ出すのだ。
バーンリーの少年はときおり、遠くを見つめて泣いていたと言う。
「みんながいなくなってしまったのは、仕方のないことだって分かってる。それなのになんで、こんなに胸が痛くて涙が止まらないんだろうね」
なぜ自分が泣いているのか、なぜこれほど悲しいのか、彼は理解することができなかったと聞く。
彼が窓辺に佇み静かに涙する写真は「天使の思慕」とタイトルがつけられ、今も故郷の教会にひっそりと飾られている。
博愛的重度寛容性症候群 佐倉有栖 @Iris_diana
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