博愛的重度寛容性症候群
佐倉有栖
前編
「本当に、良いのでしょうか?」
品の良いブラウスを着た若い女性が、戸惑いながらテーブルの上の小瓶を手持ち無沙汰にいじる。トロリとした藍色の液体が揺れ、金色の粉が光を反射して輝いた。
「それが故人様のご希望です」
「でも……」
「こちらに国の許可証もあります。近藤様は、その中身を受け取る資格があります」
憂鬱そうな表情からは当初の意気込みは消え失せ、戸惑いが色濃く出ている。
一度は故人の意思に従うと決めたものの、やはり止めたと言う権利はあるのだ。そのことを伝えようとしたが、このタイミングで言うと誘導したようになるため、ぐっと喉の奥に言葉を押し込めて堪える。
「雨里さんに一つお聞きしたいことがあるんですが……」
「私にわかることでしたら何なりと」
「許さないって、どういう気持ちなんですか?」
真人は手元の端末を素早く操作すると、璃々のパーソナルデータを開いた。目の前にいる彼女よりも幾分か明るい表情をした写真の隣に、赤いマークがついているのを確認する。
そのマークは、璃々が遺伝的な疾患を持っていることを表していた。
長い歴史を紐解き、そこから様々な教訓を得ながらも、人類は何度も同じ過ちを繰り返した。
不和、対立、争い。ほんのひと時わかり合っても、すぐに袂を分かつ。
要求、譲歩、更に要求、拒否、不和。そして対立は争いへとつながる。
永久に繰り返される一連の流れを受けて、最初に許すことの重要性を説いたのはどこの宗教だっただろうか。
やがてそれは教育へと変わり、人を許すことこそが大切であり、最大の美徳であると教え込まれた。
しかし、表面上は許したように見えていても、心の奥底では許すことのできない気持ちが残ってしまう。
抑圧されながらもたまり続けた“許さない”と言う感情が些細なことをきっかけに爆発し、事件に発展するケースが多発した。
「あの子がくしゃみをしたから、突き飛ばしました」
「彼女が目薬をつけたから、殴りました」
「夫が箸を落としたから、殺しました」
当初は、理解のできない事件として、お茶の間の話題に上った程度で終わった。激情型の人間が短絡的に起こしただけなのだと。
しかし、似たような事件が頻発した。
世の中がおかしな方向に進んでいると誰もが不安に思っていたとき、箸を落とした夫を殺害した女性が、テレビの前で静かに語った。
「心の底から許すと言うのは、難しいことなんです。いくら自分に嘘をついたところで、許せない気持ちは残り続ける」
無条件に人を許せるなんて、幻想にすぎない。
無表情のまま淡々と語る彼女の言葉には、説得力があった。誰もが許すことの難しさを理解していたからこそ、世界の常識がガラリと音を立てて崩れた。
誰がいつどこで、どんな切掛けで突然牙をむいてくるのか分からない。過去に許された事案をいくつも頭に思い描き、果たしてそれは本当に許してもらえたのだろうかと不安になる。もしかしたら、許したのは口先だけで、本心では許せずにずっと恨んでいるのかもしれない。
世の中に不信感が広まったとき、東の島国の科学者がとんでもないことを言い出した。
許せない気持ちを特殊な機械で吸いだし、体外へ排出させることができるのだと。
気持ちを吸い出すなんて出来るはずがないと、誰もが彼の話をまともに聞こうとしなかった。しかし、彼は自信満々に公開実験に応じ、見事成功させた。
被験者の頭に特殊なマスクをかぶせ、呼吸と共に許せない気持ちを吐き出す。ため息と一緒に口から吐き出された気持ちは、マスクから伸びるチューブを通って巨大なフラスコの中に入った。どす黒い気体はフラスコが回転するごとに液体へと変化し、細いパイプを通ってガラス瓶の中に落ちた。
最後の一滴まで入ったことを確認すると、科学者はコルクの詮で蓋をした。
ビンを持ち上げれば、トロリとした藍色の液体の中に浮かぶ金の粉がキラキラと光った。
マスクを外した被験者は、スッキリとした表情で微笑んだ。
「凄い……本当に許さないって気持ちが無くなって、許そうって気持ちになりました」
やらせではないのか? そんな疑問を払拭するかのように、科学者は毎日毎日被験者を集めては感情を抽出した。やがて装置に疑問を持つ者はいなくなり、生活になくてはならない場所の一つとして認識されるようになった。
科学者は装置を大量に作り、許さない気持ちを買い取る店を作った。無料で気持ちを吸い出すと言うよりも買い取ると言ったほうが、人が集まってきやすいためだ。
許せない心から発展する事件を少しでも多く減らしたい。その一心だった。
博愛的重度寛容性症候群は最初、疾患だと受け止められていなかった。
素晴らしい人間性を備えた選ばれし人だと、尊敬の対象にすらされていた。彼らは何をされても即座に相手を許すことができ、その許しは凡人のような口先だけのものではない。心の底から許すことができたのだ。
このような人たちが、今よりも良い未来を作り上げてくれるはずだ。そう信じ、人は彼らを新人類と呼んで持て囃した。
人類は天使へと近づいている。
そんな迷言が世間に広まっていたとき、イングランドの北西部バーンリーで事件が起きた。小さな食堂を営んでいた一家が、何者かに殺害されてしまったのだ。
第一発見者は、たまたま友人の家に遊びに行って不在だったその家の三男だった。まだ十歳のその子は、血まみれの家族の遺体を発見すると、警察と救急に電話をした。
その時の通話内容は、音声を変えて公開されていた。少年は終始冷静に状況を説明しており、すでに両親と祖父母、二人の兄と妹が冷たくなっていると伝えた。
「残念だけど、全員死んでしまっているみたいだ。可哀そうに。妹はこの間生まれたばかりで、まだ一歳の誕生日を祝ってすらいないのに」
まるで他人事のように言い放つ少年だったが、彼は家族を愛していた。誰に聞いても、少年一家の仲は良好だったと口をそろえて言っていた。
両親と祖父母は少年を愛し、彼も慕っていた。二人の兄は弟を可愛がっており、彼も自慢の兄だと周囲に話していた。とりわけ年の離れた妹には特別な愛情を注いでおり、溺愛と言う二文字がピッタリなほどだったときく。
ほどなくして、一家を殺害した犯人は捕まった。ほんの些細なことで少年の父親と口げんかになり、カっとなってこの凶行に及んだらしい。
犯人の青年は元々社会に恨みがあり、気持ちを売るタイミングが見つからないままこの日を迎えてしまったらしい。
「もっと早くに気持ちを売っていれば……」
そう言って肩を落とす青年に、少年は天使のような笑顔でこう伝えた。
「今回のことは仕方がないし許すけど、次からは気を付けてね」
命に次はない。
死んでしまった者たちに、次のチャンスなどない。
少年の愛した家族はもうどこにもいない。それなのに彼は、微笑みながら即座に相手を許した。
その異様な光景を見ていた者たちは、口々に彼のことをこう言った。
「あの子は、人間の心がない悪魔だ」
天使とまで称された新人類たちは一転、悪魔の烙印を押された。
博愛的重度寛容性症候群という疾患名がつき、患者たちに不足している気持ちを投与する機械ができるまでの間、彼らは迫害に苦しんだ。
悪魔と呼ばれ、忌み嫌われ、時には暴力にさらされながらも、患者たちは悪魔の微笑みを絶やさなかった。
症状を逆手に取った犯罪に巻き込まれ、何もかもを失ったとしても、彼らには許すと言う選択肢しかなかった。
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