おめざを吐く
ひかる
おめざを吐く
私は学校に到着するなり、トイレに駆け込みました。朝の学校に学生の姿はほとんどなくて、校舎って名前の付いた建物だけが、ここが学び舎であることを辛うじて世に知らしめているようです。清掃員の方が操るコードレス掃除機の音が、建物の嚥下音のように思われました。
私は、まだ掃除用具入れの開いたままのトイレの個室に飛び込み、扉を閉め、トートバッグを扉裏のフックに掛けました(それをする気力はなかったのですが、床に置くのはいくら緊急時だとはいえ抵抗があった)。トイレの蓋を開けると同時に私は屈み込み、腹部にグルグルと渦巻く違和感を、口を目一杯開いて待ち構えました。そのグルグルは、排水溝に流れていくグルグルとは違い、どちらかというとハリケーンのように上へ上へと上昇していくグルグルでした。せりあがってくる甘味。口内は乾燥し、必死に表面を潤そうと、唾液はぶくぶく溢れて出てきます。苦しい。その瞬間は毎日苦しくて、脳みそはすっからかんに、視界も不透明になります。そうして、ほとんど悪夢から覚めたような私の疲弊しきった視線の先には、便器の水に浸かった生クリームとスポンジ生地が層を織りなすショートケーキがあるのでした。頂点の苺だけが水面から顔を出して呼吸をしています。私はその苺に甘味の残った唾液を垂れて、レバーを引きました。ごぼごぼと音を立て、ケーキは便器に食われていきました。
私は個室を出て、洗面所へ行き、汚れることのなかった手を水にくぐらせました。正面の鏡には自分のひょろっこい首が映っていて、(ショートケーキを吐き出しているのですから、私の首元はきっと蛇のように膨らんでいたはずなのですが)その特段変わりのなさに、安心と驚嘆を未だに持ってしまうのでした。
昨日はドーナツを吐きました。あの中心に空いた空洞もそっくりそのまま。おとといはアップルパイ。その前はガナッシュ。その前は、確か、フレンチトーストだったと思います。私は朝に甘いものを食べるのが好き、というか日常がそういう生活でした。お菓子を食べるのも作るのも好きな母の影響から、アールグレイとおめざがセットで食卓に出てくるのが当たり前でしたし、私は実家で、今でもそういう生活を続けています。昨日食べたのはドーナツです。今日はショートケーキ。全部そっくりそのまま吐き出してしまうので、最初に吐き出した時は驚いたというか、病気になったのかと思いました。というか、たぶん病気ですね。
こういう体質になって一週間くらい経った日に、友達の本多ちゃんって子にこの体質の事を話したことがあります。
「おめざを吐いちゃうの。チョコレートでも、クッキーでもスコーンでも。そっくりそのまま。食べた時と同じ状態で」
私の話を聞いて、本多ちゃんはクスクスと、掌で口元を隠しながら上品に笑いました。彼女は見た目も所作も声も清楚で可憐なのですが、口調だけは体育会系男子並みに砕けているのでした。
「なんじゃそれ」
そう言って、彼女はまたクスクスと笑います。
「嘘じゃん。絶対」
「嘘じゃないよ。今朝だって吐いた」
「なにを?」
「抹茶プリン」
「マッチャプリン」と、彼女は可笑しそうに繰り返します。本当に悩んでいる私は、彼女の笑いに少し立腹して、「笑い事じゃなくて」と言い立てましたが、彼女は「チャップリン」と呟いて、また清楚に笑いました。チャップリンが何なのか、私には分かりません。
「それで、症状はいつから」と、まだ笑い交じりの声で、本多ちゃんが私に尋ねます。私は、「誕生日の次の日だから、十一月四日からです」と、正直に答えました。ふむふむと首肯する本多ちゃんは、自分が白衣でも着ているつもりなのか、カルテでも見るように、手に持ったスマホの画面を難しそうに眺めています。隣に座る私から見る限り、画面は真っ暗なままで、わざとらしく難しそうな顔をする本多ちゃんの均衡のある整った顔が、その暗闇の中にうっすらと遺影のように映っていました。
「それで、おめざを食べると、そっくりそのままそれを吐き出してしまうと」
「はい」
私はいつの間にか口調が敬語になっていることに気が付いて、少しだけ出た羞恥を、コホンと咳払いをして払いのけました。
「吐き出すのは、毎日決まった時間?」
「うん。大体、朝の八時十分前後かな」
「おめざ以外は吐かないの? 例えば、フルーツとか。揚げ物でもいい。っていうか、揚げ物の方が吐くっしょ。ウエって」
本多ちゃんも面倒くさくなったようで、眉根に寄せた皺を広げて、暗いままの画面を上に向けて、スマホを講義室の長机に置きました。
「吐かない。試しにロールパンを食べてみた日があって。その日は吐かなかった。そもそもアールグレイと一緒に食べて、固形物だけが湿気も何もないまま吐き出されるのって異常じゃない?」
「異常も異常。想像すると普通にきもい」
「見せてあげようか。今度」
「死んでも御免」
本多ちゃんは澄ました顔でそう言いました。
おめざは基本、母が用意してくれます。私は実家から通える大学を選んだので、自立とはほとほと離れた生活をしています。これがもしどこか遠くの学校で一人暮らしをしていたら。と、そういった類の妄想もできないくらい、私は実家の常時湯たんぽを抱いているような環境が、居心地がよくてたまらないのです。この場所で生涯を過ごしてきたのですから、私こそが正しい子供の在り方であって然るべき。親にも責任の一端どころか全端くらいありましょう。今日のおめざはエクレアでした。吐きました。
翌日、私は本多ちゃんに誘われて、大学の最寄り駅の近くにある居酒屋に行きました。私たちはよく、この居酒屋に行きます。手軽で手ごろって、お店を選ぶ二大要素ですから。店内は混み始めていましたが、空席がまだちらほらとありました。メニューを眺めていると、お通しの煮物が運ばれてきました。注文したわけではないのに、この小皿にも料金が発生することに、いつも何だか釈然としない気分になります。本多ちゃんはとりあえず生を頼み、私はウーロン茶を頼みました。私はお酒が嫌いです。飲まず嫌いのため、嫌いと言い切ってしまうのは良くないのですが、飲もうという気分になったことがありません。特に、こういう居酒屋的な空間にいると、どうにも場違いな気がして、足元をそわそわという感覚が巣くうのです。だから、誰かと一緒でないと、こういった場には来ないのでした。飲み物と料理が数点来てから、私たちは食事を始めたのですが、本多ちゃんは相変わらずの酒豪で、私がウーロン茶を三分の一も飲まないくらいで次のお酒を頼んでいました。梅酒ロック。
腹七分目くらいに達したところで、私はもう食べなくてもいいかなと思い、ちびちびとウーロン茶を飲んでいました。本多ちゃんはジョッキに両手を添えて、コクコクと喉を鳴らすと、ふーと細く息を吐き出しました。優しく置かれたジョッキは、ソーサーに戻されたティーカップのようでした。
「おめざ、どうなった?」
微かに頬を赤らめた本多ちゃんに問われて、私は意識してもないのにドキリと一度、心臓が大きく跳ね上がるのを感じました。口調の砕け具合を差し引いても、なお余りある儚さ。私が彼女に恋をしていたなら、もっと焼けるようなときめきが得られたと思うと残念です。今世では無理そうなので、来世に期待。
「まだ吐くよ。すごい吐く。お菓子工場のベルトコンベヤに同情できるのは、きっと世界で私だけだと思う」
本多ちゃんは酔いが回っているのか、へへへっと吐息を漏らすように笑いました。なお、それでも口元を隠すとこは忘れていません。
「それ、相変わらずきしょい。想像すると」
「想像しなければいいのに」
「想像しちゃう。未知なものであればあるほど。治る見込みないの?」
本多ちゃんは、イカゲソの唐揚げを小さな一口で食べました。もぐもぐと動く顎が、SNSで見たハムスターに似ていました。
「どうなんだろう。予感はないかな。例えば明日朝起きて、おめざを食べて、吐かなくても、治ったって感覚はないのかも。むしろ、今までが夢だって言われた方が、多少現実味がある」
「そりゃあ現実だから」
「残念なことに」
「そんなに辛いなら食べなきゃいいのに。おめざ」と諭す本多ちゃんは、明らかに飲むペースが遅くなり、今日はもうここらでお開きにした方がいいかもしれないと私は思いました。
「それは無理」
お酒を飲むことで快楽を得るというのは大人の特権ですが、お酒は毒だし、煙草も毒です。大人になって毒を許容する、あるいは毒を好んで摂取する。私にはその理屈が理解できません。私はずっと甘いものを食べていたい。ガーリーな服を着て、新作のプリキュアだって毎週欠かさず見るような女の子であり続けたいのです。おめざ吐く系女子ですが、そこはご愛嬌。おめざを吐く、ということは母には言っていません。言ったらきっと、もう永遠におめざは出てこない。そんな予感が胸を突いてならないのです。
大人になるってどういうことだろうね。という話をしたのは、本多ちゃんの二十歳の誕生日の日だったと思います。本多ちゃんは早くお酒を飲みたかったようで、例の駅近の居酒屋で人生初生を飲んで、「うまくねー」とクスクス笑っていました。
「大人になるってどんな感じなの」
私が訊くと、彼女はジョッキを持つ指をにぎにぎと動かしながら言いました。
「変わらない、なにも」
「なにも?」
「そう、なにも。もっと変化があればいいのに。私は大人になりましたっていう」
「臍の緒を切るみたいな」
「そういうこと。でも臍の緒は二本もない。二本あればいいのに」
「繋ぐ先がないから」
「言えてる」
私が居酒屋に行ったのはその時が初めてで、周囲から聞こえる談笑とアルコールの饐えたような匂いに、頭の摩擦係数が高まったように感じました。
「ビールがおいしくないって分かったくらいかな」
そう言って本多ちゃんはまた、ジョッキを傾けました。本多ちゃんが小さく嚥下する度、金色をした液体が彼女の華奢な体内へと流れ込んでいきます。
「飲まなきゃいいのに。飲まなきゃ、まだ大人じゃないのに」
「飲まなくても大人でしょ」
私は、二十歳を過ぎてから、本多ちゃんのその発言をよく思い出します。そして、おめざを食べて、また吐く。
二十歳を過ぎてから、大人だとか社会だとか、そう言った漢字二文字が、金魚のフンみたいに私の後ろにくっついてきます。私はついこの間までボランティアサークルに入っていて(ボランティアとは名ばかりで、履歴書のために入っている人がほとんど。私もそうだった)、そのサークルでは数か月に一度、コンパをするしきたりがあります。この話をすると、本多ちゃんは決まってヤリサーだと、その清廉な顔つきから飛び出してはいけないような爆弾言葉を口にするのですが、あながち間違ってもなかったのだと思います。
私は二十歳を迎えてから、一度だけその飲み会に参加したことがあります。コンパというものはお酒がつきもので、未成年だった私はその場に行くのさえ遠慮していましたが、二十歳になってその欠席理由が通じなくなりました。それはそれとして、病院や法事だと言って断ればよかったのですが、私は変なところで生真面目なので、労力を払っている幹事に申しわけなく思い、一度くらいは参加してみようと思ったのです。お店は団体予約可能な焼鳥屋で、私は三列ならんだ長テーブルの三列目、一番手前の椅子に腰を下ろしました。お酒が入る前に集金し、幹事の男子が飲み物をまとめて頼むというので、私はその男子にオレンジジュースを頼みました。すると、髪の毛をセンター分けに男子は私を見て、数度瞬きをしました。
「あれ? いくつだっけ?」
「二十歳です」と、私は答えました。
「じゃあ、お酒飲もうよ。折角大人なんだし」
大人になったらお酒を飲まなくてはいけない。だからといって、お酒を飲まなくても大人にはなっているわけで。私は結局、その日頑としてお酒を飲まず、次の日スマホを見ると、サークルのグループから追放されていました。その話を本多ちゃんにするとクスクスと微笑して、「あんたはそのままでいて」と言うのでした。本多ちゃんはたまに、茶色を帯びた瞳を一心に私に向けて、そういう丸かじりしたリンゴの芯くらい赤裸々なセリフを言うのでした。
そもそも、本多ちゃんとの出会いは今年度に入ってからで、それもグループワークのある授業でお互い知り合いがいなかったからという、なんとも不名誉な出会い方でした(本多ちゃんは黙っていれば美人なので、あまり近寄りたがる人がいないらしい。あっても下心むき出しの人)。私が、たまたま隣の席だった本多ちゃんに声を掛けると、彼女は想像通りのカナリアのような声で、「おう」と言いました。カナリアの鳴き声が「オウ」なら、きっと本多ちゃんがアテレコをしたのでしょう(そもそも、カナリアの声色を私は知らないのですが)。その日を境に、私と本多ちゃんは徐々に会話をするようになりました。本多ちゃんは見た目よりも、いや大分、綺麗な人でした。私がそういうことを言うと、本多ちゃんはきっと言われ慣れているだろうに、バラの花一本もらったみたいに喜んでくれます。そして私に、「あんたはそのままでいて」と言うのです。
「どういう意味?」と、私は訊いたことがあります。私は、私以外の何者にもなれるはずがないのです。プリキュアじゃあるまいし。本多ちゃんは少しの時間言葉を探して、「毒されんなってこと」と、一言いいました。きっと、お酒に。
おめざを吐くことに何か意味があるのかもしれない。そう思い始めたのは十二月に入ってからで、私はもうもともとそういう機能を持った生物のように、おめざを吐き出すことに何の苦労もしなくなりました。いちいちリアクションを取っていたら、日常になりえないですから。
「おめざを吐き出すことに何か意味があるのかもしれない」
私がそう言うと、本多ちゃんはそんなこととっくに分かっていたように、こくりと頷きました。
「アルコール飲んで吐くみたいなことでしょ。アルコールが原因」
「そうかも」
私は一目ぼれして買ったキキララの缶の筆箱から、水色のシャーペンを取り出しました。次の講義までは、まだ十分もあります。
「原因ねえ。なにか思い当たる節ないの?」
本多ちゃんに訊かれ、私はおめざを吐くようになった日々をざっと思い返してみましたが、これといって有用な手掛かりは見つかりそうにありません。昨日吐き出したおめざも、今ではもう思い出せなくなっていました。
「ない」
「私、考えたんだけどさ。一個あるよ。原因」
本多ちゃんは、マジックの手品を披露する前置きのようにそう言いました。
「なに? 教えて」
私が本多ちゃんに微かに体を寄せると、本多ちゃんは微動だにせずに「教えるから、この後飲み行こ」と言って、微笑みました。
「それで、なんなの。おめざを吐き出しちゃう原因」
講義後、私と本多ちゃんはいつもの居酒屋に行きました。居酒屋で、私はウーロン茶を頼みましたが、本多ちゃんは、なぜかビールを二杯注文しました。いつもすぐ飲んでしまうから、一杯余計に注文したのだと、私は解釈しました。
「今に分かる」と、本多ちゃんが言い終わると、タイミングよく店員さんがウーロン茶とビール二杯を運んできました。机に置かれたグラスの中で、照明を浴びて煌めく水面が微かに揺れました。
「今に分かるってどういうこと?」
私は届いたウーロン茶を手に取り、一口飲みました。ウーロン茶って結局なんなのか、私は未だによく分からずにいます。見た目は麦茶なのに。本多ちゃんは二杯届いたうちの、ジョッキの一つに手を伸ばして、繊細な指で取っ手を掴みました。ミントグリーンのネイルがきめ細やかな肌の恍惚感を、さらに引き出していました。
「これ」
「これ? ビール?」
「そう」と、本多ちゃんは小さく頷きます。私には、彼女の言わんとしているところの少しも理解することができませんでした。
「ビールが原因ってこと?」
「違う。あんた、ビールなんて飲んだことないでしょ」
私は首肯しましたが、それの何がおめざと関係しているのか分かりません。むしろ、おめざとビールは対極にあるような気がします。私が不思議に思っていると、本多ちゃんはおもむろに、私にジョッキを渡してきました。私は差し出されたジョッキを、両手で受け取ります。ジョッキの温度が掌を覆って、表皮がこのまま貼りついてしまいそうです。私にジョッキを渡した本多ちゃんは、「飲んでみ」と告げました。
「え」
私は呆気に取られながら、なんとか一音だけ返事をしました。受け取ったジョッキは重く、ビールは毒とは思えないくらい鉱物的なきらめきを宿していました。幼少期、おばあちゃんがよくくれた黄金糖の色です。私はその自然な甘みを舌の上に思い出しながら、本多ちゃんに問いました。
「なんで? ビールを飲むってこととおめざを吐くってことが関係してるとは、到底思えないんだけど」
「私も百パーセント正解だとは思っていないよ。でも、たぶん、そうだと思う」
「飲みたくない」
私は言いました。お酒を飲んでしまったら、私はもう私のままではいられない。そう思うのです。この液体に配合された毒が私の胃腸から体内に沁み込み、血管を通り、心臓に達し、肝臓が分解してくれるというのはもちろん理解しているのですが、そういう問題じゃないのです。頭で理解はできても、怖いのです。お酒を飲むって、きっとそういうこと。
本多ちゃんは、自分の分のビールを飲んで、細く息を漏らしました。いつもはあまり感じない彼女のアルコール臭が、今日は確かに鼻腔を突きました。
「私たちは、いつまでも子供じゃいられないんだよ」
「それは分かっている。分かってるけど」
「ううん、あんたは分かってない。そこが利点でもあるし、欠点でもある」
「利点だよ。確かな利点」
「でも、頑固なのはよくないよ」
「頑固なのはいけないこと? 自分の価値観を愛でるのはいけないこと?」
「なにも自分を捨てろなんて言うつもりはなくて。今までの自分とこれからの自分は両立できるんじゃない? って話」
私はあまり釈然としませんでしたが、一応は頷いてみせました。本多ちゃんの言うことの全ては理解できなくても、ひとかけら、鳥の体羽の一本分くらいは理解できるような気もしたのです。
「それで、それがビールと関係する理由は?」
「接着剤だよ」と、本多ちゃんは言いました。「接着剤?」と、私は繰り返します。
「煙草でもいいかもしれない。大人になったって物理的に分かるものならたぶんおーけー。ようはさ、あんたはマージナルマンなわけ」
「境目にいる、と」
私の発言に、本多ちゃんは軽く頷きました。
「体は大人なのに、中身が成長を拒んでるんだと思うよ。小さい水槽を好むサメみたい」
「私、そんなんじゃない。自分がちゃんと大人だって分かってる」
「じゃあ飲んでみなよ」
本多ちゃんはカナリアみたいな声で挑発的にそう言い、私の持つジョッキに視線を向けました。皮膚と背骨の隙間から、しくしくと冷や汗が滴っているような気がします。私がためらっていると、「飲めないの?」と本多ちゃんが煽ってきたので、私は強がってジョッキを口に当てて、ほんの少しだけ黄金の液体を口に含みました。
「まず」
私が渋い顔をすると、本多ちゃんはクスクスと笑って、私のジョッキの私が口を当てた部分に、優しく口づけをしました。
エマージェンシーエマージェンシー。いや、どちらかというと解除されたのだけれど。
今朝食べたシフォンケーキ。チョコレートのシフォンケーキ。母が作ったというシフォンケーキ。私はそれを、吐きませんでした。ひとかけらだって吐き出しませんでした。
私はお腹のグルグルがないことに、初めておめざを吐いた日くらい驚いて、朝の八時半を過ぎたころ本多ちゃんに電話を掛けました。三コール目で、本多ちゃんと繋がりました。電話を通して耳元で聞こえる声は、いつだって加工食品みたいなもったいなさを私に感じさせます。
「どうした?」
「吐かなかったの。おめざ」
私がそれとなく言うと、本多ちゃんは「よかったじゃん」と一言だけ言いました。私は本当によかったと、心の底から歓喜して返すことができませんでした。
「よかった、のかな」
「よかったでしょ。悩んでたじゃん」
「いや、そうなんだけど。貯蓄してたお菓子が、なくなっちゃったような気分」
「また買い行けばいいじゃん」
電話越しに、本多ちゃんはきっと口元を隠しながら笑いました。
翌日の朝、私は学校のトイレに駆け込みました。腹部を押さえつけるような圧迫感を感じながら口を開いて待っていると、喉の奥から固形物が込み上げてきます。私は口元に器型にした手を当てて、喉元あたりにぐいと力を込めました。すると、逆流してきた物質は喉の表面を傷つけることなく、つるんと口外へ飛び出しました。手元を見ると、唾液か胃液(あるいはその両方。あるいはプラスα)に浸された、離乳食みたいに磨り潰されたシュークリームが出てきました。偶然か、私が最初に吐き出したおめざも、シュークリームだったと思います。手の中のシュークリームは(もうシュークリームなんて呼べないのかもしれない)、ほんのり温かく、ひどく甘ったるい匂いがしました。
私はそれを大事に掌に乗せたまま、トイレを駆けだしました。そして講義室に本多ちゃんの姿を見つけると、一目散に駆け寄って、彼女の名前を呼びました。私に名前を呼ばれた彼女は、不思議そうな双眸で私を見返しました。
「どうした?」
「吐いた」
私は言いながら、万華鏡を覗く時みたいな高揚と慎重さを持って掌を開き、今朝のおめざであるシュークリームを本多ちゃんに見せました。本多ちゃんは、シュークリームと言われてもシュークリームと分からないであろう、びちゃびちゃに引き伸ばされてもんじゃ焼きのようになったシュークリームを、子供がおもちゃの宝石を見つめるような視線で見つめていました。
「たぶん、最後。これが最後」
本多ちゃんはシュークリームを見たまま暫く閉口していましたが、やがて、その微熱を孕んだトパーズの眼で、私と視線を交わしました。
「これ、食べていい?」
私の「うん」とか「いや」とか、そういう返事を待たずして、彼女は私の手を自身の小ぶりでうんと柔らかな桜色の下唇に当てて、ビールを流し込むように私の手の盃を傾けました。重力で、シュークリームは傾斜を下り、本多ちゃんのブラックホールへ吸い込まれ、やがてごくりとみっともない嚥下音が耳朶を掠めました。私は唖然として、「おいしい?」なんて、見当外れな言葉を言いました。
「ビールよりよっぽど」
本多ちゃんはそう言うと、口元を隠さずに笑いました。
了
おめざを吐く ひかる @hikaru_umu
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