𓏲𓎨 捨てた夜、拾った猫 I

 


 昼食を早めに終えて仕事に戻ってからも、美月の幸せそうな顔が何度も頭をよぎった。



 偏差値が平均の高校へ行き、先生に薦められるがまま合格範囲内の大学に進学して、福利厚生がしっかりとしているこの会社に就職した。


 普通に、人並みに生きているはずなのに、どうして"幸せ"と胸を張って言えないのだろう。


 自分が半人前なのは痛い程わかってるし、恋愛がすべてではないと思っているはずなのに、他人と比較して物足りなさを感じるだけで全部のバランスが崩れるから、恋愛は嫌いだ。


 考え出すと、負の感情が滝のようにあふれる。



 泣きたくなるのをなんとかこらえて、定時の時間の19時を迎えた。


 こんな日は、早く寝る、に尽きるか……。



 ◇



 会社から電車で10分以内にある鉄骨のアパートに、わたしは住んでいる。


 洋風な外装、新築の2LDK、家賃は安いとは言えないけど、福利厚生の家賃補助があるおかげでこのアパートに住む事が出来た。


「……ただいま。」


 ──ああ、今日はどうしてこう、嫌な事ばかり重なるんだろう。


 部屋に入った瞬間、ほのかに香るわたしが持っていないブランドの香水の匂いに、頭を鈍器で殴られたような感覚を覚えた。


 こういう時に限って"女の勘"というのはよく働くもので、洗面所にある洗濯機のふたを開けた瞬間、悪い予感が現実となったのを確信した。


 この間洗ったばかりのわたしのパジャマが、嫌味ったらしく入っていたからだ。


 しかももれなく、ファンデーション付きで。


 昨日実家に泊まったから、恐らく昨日家に相手の子を連れ込んだのかもしれない。


「………もう少し上手く隠しなよ。」


 こんなんじゃ、「バレてもいい。」って言ってるようなもんじゃん……。


 わたしが留守中、彼氏に愛されたであろう子が着たパジャマを力無く握って立ち尽くしていると、玄関から腑抜ふぬけた声がした。


「なぁ、さっき家の前に変な子が──」

「昨日さ、家に女の子連れ込んだでしょ。」


 彼の言葉をさえぎって怒りを込めてそう言うと、わかりやすく顔色が青く変わっていく。


「きゅ……、休日出勤した子が、終電無いって言うから泊めただけだよ。それくらい別にいいだろ、仕事で疲れてるんだ、後で話そう。」


 寝室へ逃げようとする彼の腕を、わたしは力強く引っ張った。


「……………出てって。」

「はぁ!?だから何もしてないって!」

「もう出てってよ!」


 悲しく、大きい声が部屋に響く。


 最早反論する気も失せたのか、仕事の鞄だけを持って、彼はあっさりと部屋を出て行った。


 しん…と、部屋がむなしく静まり返る。


 不甲斐ふがいなさと悲しさと怒りと、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、涙となってこぼれてきそうなのをぐっとこらえた。


「…………今日運勢、何位だったっけ。」



 ◇



 彼との関係は、こんなものだったのか。


 パジャマを入れたごみ袋片手に、近くのごみ捨て場に向かいながら、付き合ってから今日までの出来事を思い返していた。


「どうしてこうなったの……。」


 我慢していた涙が待ってましたと言わんばかりにこぼれそうになって、顔をうつむいた──瞬間、わたしははっと顔をあげて、右に視線をやる。


 ……………全然、気付かなかった。


 電柱の下に、男の子がうずくまっているのを。


 時刻はもう22時を回っている、見るからに学生っぽいし、こんなところに蹲っているのは明らかにおかしい。


「……死んでないよね?」


 おそおそる近付いてそう声をかけると、


「……死んでないよ。」


 男の子がゆっくりと顔をあげた。


 黒髪に長い睫毛まつげ、高い鼻、気怠けだるげな漆黒しっこくの瞳は、わたしをとらえて離さなかった。


 その絵に描いたような綺麗な顔を見て、一瞬、時が止まった感覚すら覚えた。


「俺………、お腹空いた。」


 そうぽつりと呟いて、男の子はまた力無くその場にうずくまる。


 重なる憂鬱に、この時のわたしはどうかしていたのかもしれない。


 素性すら知らない男の子のその言葉に、無意識の内にわたしはこう返していた。



「………家に来る?」




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所持金700円の猫 百瀬 @___momo46

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