銀札八畳敷

 江戸時代――徳川政権下において、「お金」といえば誰しも小判や文銭、即ち貨幣を思い浮かべるだろう。

 実際には、「藩札」とも呼ばれる条件付きの兌換紙幣「銀札」が発行されていたことは、あまり知られていない。


 徳川政権下の貨幣鋳造に関する権限は、須く幕府の支配下にあった。

 大判小判や一分金判、一朱金判の鋳造に用いられる金は佐渡や甲州、駿河や奥州の金山から産出された物が主流であった。

 また銀の鋳造も、日本各地で幕府の認定を受けた鋳造業者たちを集めた銀座で行われた。現在も東京でその名を残す「銀座」は、正しくは「江戸銀座」ないし「新橋銀座」である。


 近世中期からは、寛永通宝のような文銭の鋳造も行われた。

 当時は貨幣の価値や使用する金属の違いを問わず、何れも幕府による厳重な監視下に置かれていた。

 藩や個人が幕府の許可なく貨幣を鋳造する行為は重罪であり、貨幣の流通は常に徹底的な統制が敷かれていたのだが、早い段階で貨幣の供給不足という問題が生じた。

 日本全国津々浦々にまで貨幣統一を徹底させたうえで経済が活発になり、また貨幣の貯蓄も顕著になった結果、貨幣の需要が幕府の想定を大幅に上回ってしまったのは、ある意味皮肉とも言えよう。


 近世中期以降、幕府も含め諸藩の殆どは貨幣を礎とする財源の不足に苦しみ、保有する金銀の量を増やせずにいたが、さりとて勝手に貨幣を鋳造するわけにはいかない。「金」はモノを作る力でも買う力でもあり、幕府からすれば反幕倒幕の力を与える切欠にもなりかねない代物である。無許可の鋳造が発覚すれば、藩の取潰しは免れないだろう。

 そこで登場したのが、銀札という紙幣である――「藩札」という呼称もあるが、この話では「銀札」に統一する。

 銀札には、例えば表面にその札の金銭的価値と発行元。裏面には発行に至る詳細や発行日、さらには縁起物の絵が描かれている物が多かった。

 領内においては、これを貨幣の代用品として扱い、どうしても貨幣が必要になった時に、両替屋等で兌換する仕組みである。

 これにより、銀札を発行した藩は自領外への貨幣流出を、ある程度は阻止できたと言われている。


 銀札の兌換内容は、その名が示す通り銀が基本だが、中には金や銭、さらに変わったところでは米や乾物との兌換を示す札もあった。また、仙台藩伊達家のように紙ではなく鉄銭で発行した藩もあったが、これは異例中の異例と言えよう。


 銀札の利点は、藩や御用商人が発行し価値を保証している為、手元に実在の貨幣が無くとも代用品として取引が行える点にある。

 もう一つの利点は、紙幣であるが故に発行と持ち運びが楽になる事だろう。銀五匁と紙切れ一枚同価値であるならば、大概は後者を選ぶ。


 さらに、銀札の価値は基本的に発行した領内に限られているので、盗人や追い剥ぎが領民から奪い取ったとしても他領では使えず、うっかり兌換しようものなら不自然な挙動により正体を嗅ぎつけられる恐れが生じる。

 そのうえ、やろうと思えばいくらでも発行できるという強みもある。

 もちろん、藩内で保有している以上の金額を発行するわけにはいかないのだが、一時的なものであれ解決策が見つかると、ブレーキが効かなくなるのが政である。


 紙に印刷するだけという手軽さから、偽造される恐れもあった。偽造防止にと印判を複雑化したり透かしを入れたりといった手間を加える側と、それを見破り偽造しようと企む側とのイタチごっこは、ある意味現代とそう変わらないのかもしれない。


 銀札を発行し活用していたのは、特に近畿の摂津国や播磨国にある小藩が多かった。何処も財政難であり、決定的な打開策が見つからないまま、已む無く銀札の発行に頼らざるを得なかったと言われている。

 「忠臣蔵」で有名な赤穂藩でも銀札を発行しており、かの事件で改易となった際には銀札が全て無価値の紙切れになりかけたが、大石内蔵助の奮闘により六割での交換率で回収し、城下の混乱を抑えた。


 これらの実情から、銀札にはそれなりのデメリットが内在しており――過度に発行しない為のバランス調整を常に求められる――扱いが難しい紙幣であったことが窺える。


 さて。





 奥州の外様大名、杉谷すぎや家の財用奉行ざいようぶぎょうである珠宮八右衛門たまみやはちちうえもんは、懊悩していた。

 財用奉行とは、杉谷家の財務一切を取り仕切る役職である。

 従って、御家の苦しい台所事情を知る数少ない人物の一人であり、同時に杉谷家の抱える矛盾を解決しなければならぬ立場に置かれた人間でもある。

 先祖代々から、当主は「御屋形様おやかたさま」と称される杉谷家は名門であり、江戸開闢かいびゃくに伴い常陸から北へと転封を受けた身でもある。

 その際に、御屋形様を慕い同行した家臣の人数があまりにも多く、領内の石高だけでは全員を喰わせていくのは難しい、と転封当時から言われていた。

 ならば多すぎる家臣を放逐すれば良い、と考える武士もののふは、そういないだろうし、それを口にしただけでも周囲から「無能」の烙印を押されてしまうだろう。

 また家臣は家臣で、表立って現状に不満の色を見せてはならない。

 たとえ餓死しようと主君に仕えるのが、武士として有るべき姿なのである。

 それに、もし仮に家臣を放逐するにしても、それなりの大義名分が求められる。

 家臣を養い切れず追い出した――などと言われては、杉谷家末代までの恥。

 名門の出ということで普段から嫉妬と羨望を受けているであろう御屋形様が、江戸城控えの間で嫌味を言われるであろうことは、火を見るより明らかである。


 珠宮八右衛門は、幼少から俊傑と呼ばれていた。

 剣の腕前こそ他者に劣ってはいるが、小者同士の揉め事を何度も仲裁しては和解に持ち込んでおり、その評判により今の地位に抜擢されたと言っても過言ではない。

 その珠宮に課せられたのが、財務問題の解決であった。

 何しろ、金が無い。

 しかし、迂闊うかつに「放逐」などと口にすれば、その時点で同輩から「裏切り者」と罵られた挙句、闇討ちや押し込みで命を奪われかねない。

 そうかといって、領民から租税を吸い上げるにも限度がある。

 珠宮が見る限り、領民は狭い土地でも彼らなりに頑張っており、これ以上の負担を掛けるのは、かえって逆効果になる。

 急場を凌ぐという形で、家臣達の使う金が現状もう少し増えるだけで良いのだ。


 先細りする杉谷家の財政難を解決する策を求め、日本各地の情報を集めた珠宮が遂に見出したのが、銀札の発行だった。

銀札ならば、諸国の大名も行っているのだから、杉谷家の窮乏を詮索されることも無いであろうし、採用に差支えは無いだろう。


 それから珠宮は、領内での流通に適した額面の調査や主な流通範囲、そして銀札の発行と担保に協力してくれる商人の確保といった水面下での行動を迅速に行い、ようやく表立っての提言まで扱ぎつけたものの、ここにきて大きな壁が二つ、立ちはだかった。


 一つは、銀札により経済的に救済される筈の杉谷家家臣たちが、銀札発行に懐疑的な点である。

「まるで、我らが金に困っているようではないか」

困っているから商人に金を借りているような家臣ばかりで、その大まかな人数も金額も、珠宮は把握していた。

 その返済を如何にするつもりかと問い詰めるには、珠宮はあまりにも若く、また軽んじられていた。

 我々の為ではなく領民の為である――と誤魔化せば

「我々が銀札とやらの金額を保証したところで、紙切れ一枚を銀や銭と同じに扱うと言って、民草が信じるものか。狐や狸に化かされるようなものだ」

 頭から否と決めてかかっているのだ。

 特に家老の小園大三こぞのだいぞうは、銀札発行に真っ向から反対している。

「金が出せる、出せないというのは一時凌ぎの話にしかならぬ。それより田畑になる土地を広げ、百姓らが心血を注ぎ作物を育てるのが最善である」

 この説には一理ある、と珠宮も納得している。

 しかし、小園の主張を実行に移すだけの地力――即ちその為の費用が無いのだ。

 元々、小園と珠宮はそりが合わない。


 たまみやはちうえもん。


 この名には「まみ」の二文字が入っており、それを「まみ」つまりアナグマを重ね合わせてからかわれるのは、幼少の頃からの悩みであった。

 珠宮が財用奉行に任命されて以降、彼の名を知った小園は、事あるごとに珠宮を

「貒ではなく狸だな」

と愚弄するだけに止まらず、直接顔を合わせずとも彼に聞こえる大音響で

「貒の金玉、八畳敷はちじょうじきであるな!」

と言いふらした。

 この陰口と武芸の未熟、加えて今度の銀札発行案により、領内での珠宮の扱いは、鵞毛がもうの如き軽さである。


 一時的なもので良い。

 それでも不首尾に終わったならば、責任を取って腹を切る。

 至る所で平身低頭を繰り返し、主家の為にと懇願を続けた結果、発行の許可が降りるまであと一歩のところまで進めてきたが、ここに来て第二の壁が立ちはだかった。

「たかが紙切れと大事な銭コを換えるなんて、とんでもねぇこった」

 小園達反対派の指摘通り、銀札の仕組みを理解しない領民たちは、こぞって反対の意を示した。

 珠宮がいくら言葉を尽くし筋道立てて丁寧に説明しても、頑として突っぱねる。

 理解が足りないというより、いざ発行されたなら銀札の制度を悪用され、今以上に銭や年貢を吸い上げられるのではないか――という不安があるのだろう。


 課題が多すぎる。


 屋敷とは名ばかりの、粗末な一軒家。

 書斎にて頭を抱えていた珠宮に、来客の知らせが届いた。


鯖田さばた大膳だいぜん


 聞き覚えがある名を口中で三回繰り返すと、ようやく珠宮の脳裏にその人物の評判が浮かび上がってきた。

 鯖田大膳万利ますとし

 杉谷家とは領地を接する、いわゆる隣国の大名家に仕えていた家老の名である。

 仕えていた――というのは、当主と喧嘩別れし今は流浪の身であるからだ。

 少なくとも、珠宮はそう聞いている。

 学に明るく、また武芸にも秀で、特に居合と小太刀、砲術にかけては奥州屈指の達人。

 当主と揉めた原因は、彼の諌言かんげんが度を越していたとも、当主に謀反を企てたからとも言われているが、真相ははっきりしない。

 少なくとも後者ではないだろうと、珠宮は考えている。

 謀反の張本人が、その名を知られながら、のうのうと放浪の旅を続けていられるはずがない。ましてや隣国に足を運んだりするものだろうか。

 主家を追い出されたとはいえ、元は家老の身分である。

 しかも珠宮家を訪れたのは、杉谷家の家老であり御屋形様の従兄弟でもある杉谷図書ずしょの紹介によるものだという。

 会わないわけにはいかない。


「鯖田大膳にございます」

「珠宮八右衛門にござる」

 図書の屋敷を訪れた時点で、身だしなみは整えていたのだろう。

 奇麗に剃り上げた月代に堂々とした体躯は、とても放浪の旅を続けている人間とは思えない。

 ただ一点、口髭を剃らずにいるのは少々無作法に見えるだが、老獪ろうかいさを想起させる鉤鼻と鋭い眼光が、顔を顰めようとする珠宮を威嚇していた。

 もっとも、いくら過去の地位とはいえ向こうは元家老であり、こちらは現職とはいえ奉行の身である。

 横柄な態度に出る事ははばかられた。

「やはり、まつりごとには時代に合わせた変革というものが必要でございましょう」

 形式的な挨拶をかわし、諸国の流行や四方山話をひと通り語り終えると、鯖田の方から本題を切り出してきた。

「実は某も、変わりつつある時代の流れに合わせた当主の心得を我が主君に申し上げたところ、御不興をこうむり御覧の有り様というわけでございまして」

 うとまれた、という事か。

 大名に仕える苦労は、何処どこも同じらしい。

「やはり、領内でのしきたりを変えるには並ならぬ力、それも周囲の反対を押し切ってでもやり遂げるだけの力が必要であろうことは、存じ上げております。図書殿の御屋敷にてその話をいたしましたところ、珠宮殿の力になってくれぬかと仰られまして」

「私の……力に」

 杉谷図書は、珠宮の銀札発行案に賛同してはいるのだが、小園率いる反対派との対立が御家おいえ騒動に繋がることを恐れ、静観しているという。

「無論、協力は某の利になる事でもございまして」

 言いながら、鯖田は懐から一帖の折本を取り出し、珠宮の膝前に据えた。

 表題には『養生行路ようじょうこうろ』と記されている。

「実のところ、某は我が殿に上梓じょうしいたしましたこの折本、当主たるべき者が身に付けるべき心得を、旅の合間に研鑽し練り上げ、生存術として完成させることが、残り少ない人生の目的となっておりまして」

「残り少ない人生とは、また殊勝な」

 確かに白髪まじりではあるけれど――と珠宮は心の中で付け加えた。

「拝見してよろしいか」

 鯖田の承諾を得たうえで、珠宮は折本を手に取り内容を検める。


「初対面の相手を信用するべからず。肉親でも騙す時は騙す」


「決断を神仏に委ねるな。成功しようと失敗しようと、己の成長に繋がらない」


「世の為、人の為と思って動くな。全ては己の利益の為と思えば、困難な仕事でも自然と体が動く」


「忠義と保身は両立せず、賢者は常に後者を尊ぶ」


 あっという叫びを、珠宮は寸前で呑み込んだ。

 生存術というより、武士に対する罵倒術である。

 しかし、珠宮は半ばまで――時間を掛けて読んでいたのでは、眼前の客に失礼である――しっかりと目を通した。表現は乱暴だが、これぐらいの覚悟と思い切りが無ければ、政の変革など成功しないのかもしれない。

 折本を閉じてから、珠宮は感想を述べた。

「内容には、賛同すべき点が多いように思われます」

 内容には、であるが。

「それで、私の悩みについて、図書様から何かお話は」

「銀札の発行、とまでは」

「左様ですか……実は」

 珠宮は、杉谷家の内情を包み隠さず打ち明ける事にした。

 図書とて、こうなることを予測したうえで鯖田を寄越した筈である。


 全てを聞き終えた鯖田は、鷹揚に頷いた。

「なるほど。確かにそのような状況であるならば、銀札の発行は有効でございましょう。某も旅路の間、西にて似たような境遇の大名家が銀札により窮地を脱した、という話を幾度か耳にしております」

 やはり、銀札は有効な手段なのだ。

「しかし、それもやはり一時凌ぎの膏薬に過ぎぬもの。ご領地が息を吹き返したうえで、次は臣下の方々が率先して農地の開墾と耕作を働きかけねば、同じ事の繰り返しになりますぞ」

「それは重々承知の上、しかし、その前に彼らを貧困から救わねば、杉谷家はこのまま滅びてしまいます」

「貴方の出世にも響きますな」

「しゅっせ……」

 その言葉を聞いたのは、いつ以来だろう。

 財用奉行に就任してからというもの、杉谷家の財務問題にかかりきりで、自分の将来について考える暇など微塵も無かったのだから。

「差し当たっての問題は、御同輩と領民の説得でしょうな……これをご覧くだされ」

 言いながら、自著を手に取り捲っていた鯖田は、そのうちの一面を広げたまま指先で文章を指し示す。

「珠宮殿には、これを実践していただきとうございます。成功すれば、鯖田流生存術の実例として記録し、後世に伝え残せます」

 その一面には、こう記されていた。

「人を信用させる術に上中下あり。上は、彼を害するものを除く。中は、彼の利となるものを与える。下は、言葉を尽くして説得する。腕力をもって成そうとするは、素手で燕を捕えんとするが如し」






「信用とは、理屈や正論ではなく行動で得るものである」


「理屈よりも相手の行動で判断する人間は多い」


 鯖田大膳の著書『養生行路』には、こうも記されていた。

 さらに、当の鯖田は珠宮を正面に据えたまま、弁舌を始める。

「人は、正しいことを言っているかどうかより、誰がそれを言っているかを重視するものにございます。浅薄無学せんぱくむがく破落戸ごろつきと、大名家の家老や奉行とでは、どちらが正しいことを言っているように思われましょうや。また、その日初めて顔を合わせただけの学者と、肉親や付き合いの長い友人とでは、どちらが信用に足ると思われましょうや。某には、いずれも後者であろうと思われるのでございます」

「仰る通りと存じ上げます」

 しかし、それならば尚更領民の説得は難しいのではあるまいか。

 珠宮八右衛門は、杉谷家の財用奉行という地位にありながら、領内で「貒」だの「八畳敷」だのと馬鹿にされ軽んじられているのだ。

「故に、まずは彼らの信用を得るところから始めるのです」

 それは、わかっているのだ。

 問題は、方法だ。

 まさか、これから鯖田が領内を行脚して、領民一人一人を説得して回る――というわけでもあるまい。『養生行路』によれば、それは下策である。

 ならば、中の策になるのだろうが――

「鯖田殿。この書に従うならば、それは次善の策になるのでございましょう。しかし当家には、領民に米や銭を与えられるような余裕はございませぬ」

 厳密に言えば、米だけは備蓄している。

 しかしその米は凶作時の備蓄米であり、言うなれば有事の際の非常食だ。迂闊に手をつけてしまえば、それこそ天災が起こった時に杉谷家は滅びてしまう。

 戸惑う珠宮に、しかし鯖田は――にぃっと歯を剥き出してから――頭を振った。

「珠宮様が仰いました通り、与えるのは次善の策にございます。今回は上善、即ち民を害するものを取り除くべきかと」

「民を害するもの」

 それは我々、侍だろうな――と珠宮は胸中で自嘲した。

 杉谷家は、抱えている家臣が多すぎるのだ。

 面と向かっては言えないが、この泰平の世に武辺ばかりで大根一本まともに作れず、良質のふきも採れぬくせに威張っている無駄飯ぐらいばかりである。

 しかも、財用奉行としての己が成すべき仕事は、彼らの食を賄う為に領民から年貢を搾り取る事なのだ。

「それでは本末転倒になりませんか」

 珠宮の、呻き声にも似た重苦しい言葉に、鯖田はその言わんとするところを察したらしい。

「いやいや。そちらはたとえ害と思われようと、政という大器を伴うが故の害。言うなれば必要悪でござる。今回取り除くべきは何も伴わない害。民に直接危害を及ぼす、悪党の類にございます」

「悪党、ですか」

 そうは言われても、ここしばらくは領内を荒らす大規模な山賊の話など聞いてはいない。

 侍の数は多いのだ。賊が出たという噂が立とうものなら、手柄を求め我先にと単独無断で駆け出す輩が、掃いて捨てる程度にはいる。

「左様。しかし悪党と一口に言っても様々にござる。その中には人ならざるもの、即ち畜獣怪異ちくじゅうかいいの類も含まれております」

「拙者に、妖怪退治をせよと申されるか」

「いえ、御領内で噂になっている畜生の話でござる。ご存知ではございませんか」


(いたかなぁ)


 まさか「貒」とあだ名されている珠宮自身の事ではあるまいと、しきりに首を傾げ思い出そうとするも、出てくるのは領内の財務問題ばかりである。

「某が耳にした噂では」

 正解に辿り着きそうにないと悟ったか、鯖田の方から切り出してきた。

「御領内の山地にて山の主なるものが現れ、付近の農作物を食い荒らし、領民ははなはだ難儀しているそうではございませぬか」

「ああ、もっこさまですか」


 もっこさま。


 領民からは、そう呼ばれている。「もっこ」とは、領民の間で「恐ろしい」を意味している――つまり「恐ろしい御方」という名を付けられた、化け物だ。

 熊ほどの身の丈でありながら、野犬の如き素早さで山中を駆け回る。

 全身が毛むくじゃらで、悪鬼さながらに反り返った牙で咬みついてくるという。

 その証言通りだとすれば、どう見ても熊や鹿や狼の類ではない。容貌が最も近いのは狼だろうが、その足は太く短く、また頭と耳の見分けもつかないらしい。

「熊とも狼とも違う、山の暴れものだそうで。左様、当家の腕自慢が二人ほど退治に出て、返り討ちに遭ったと聞いております」

 賊でもない畜生相手に刃が振るえるものか――というのが家臣たちの言い分ではあるのだが、そのうえで敢えてもっこさま退治に挑みながら、返り討ちに遭ったものが二人も出たことで、彼らは完全無視を決め込んだ。

 敗北する武士に価値は無いらしい。


 忘れていたのは、自分とは関係ない話だと聞き流していたからだろう。

 山の主だろうが川の主だろうが、城下に出没するような化け物ではないし、そのような与太話に耳を傾けるより優先しなければならぬ使命があると、常に財務を優先してきた事も理由になる。

「あれは」

「猪にござる」

「えっ」

「イノシシ。この地より南の山中では頻繁に見かける畜生にござる」

 イノシシ、と珠宮はその言葉を繰り返した。

 初めて聞く名である。

「左様。山中で馬の如く疾駆するうえ、暴れ馬以上に気性が激しく、また双牙と呼ぶにふさわしい巨大な牙を持っているとなれば、猪以外には考えられませぬ。某は時として山中に足を踏み入れ、時として板一枚下は地獄の船底に尻を据え、諸国を行脚してまいりました。特に山中、かの猪が木の根をかじる様を目撃したこともあれば、仕留めた猪を担ぐ猟師に出会ったこともござる」

「仕留められるものでございましたか」

 もっこさまとは神のようなもの、と勝手に思い込んでいた珠宮の口から、我知らず感嘆の音が漏れ出る。

「安心しました。あまりにも大袈裟に語られるものですから、てっきり人の力ではどうにもならぬ程に恐ろしいものであろうと」

「熊や人よりは、余程ましでござる」

 人の方が、恐ろしいというのか。

「猪ならば、如何に大きかろうと精々三尺か四尺。五尺六尺の熊に比べれば小物にござる。恐らくは、これまで見た事も無い畜生の姿に怯えるあまり、実際よりも巨大に見えたのでございましょう」

「つまり、もっこさま……いや、猪を退治できそうな勇士を募るべき、と仰るわけですな」

「募るのではございませぬ」

 それまで朗らかな笑みを浮かべていた鯖田の表情が、一転してきりりと引き締まる。


「珠宮様ご自身の手で、討ち果たすのでございます」

 

 はあっ、と珠宮は頓狂な声を上げた。

「無理を申される」

「何故」

「拙者には、そこまでの技量はござらぬ」

 無論、珠宮八右衛門も武士の端くれだ。武芸十八搬はひと通り習っているものの、その腕前はからっきしである。

 一対一では、もっこさまどころか野良犬一匹倒せるかどうかも怪しい。

「馬を使うべきでしょうか」

 馬ならば、猪を上回る速さで駆けるだろうし、近づいて蹴り飛ばせるかもしれない。

 しかし、鯖田の返答は珠宮の期待を裏切った。

「猪の突進は、馬を怯えさせます。ただ追い回すだけならばともかく、反転し突撃を受けようものならば、馬はたちまち怯えさお立ちになるでしょう。振り落とされないよう乗りこなせますかな」

 珠宮に、そこまでの自信はない。

「事前に罠を仕掛けるのでなければ、やはり鉄砲が最善でございましょう」

 そちらにも自信は無いが、そもそも珠宮は鉄砲そのものを持っていない。

 家老の杉谷図書に相談して、御屋形様所蔵の鉄砲を借りるしかないのか。




 斯くして当日。

「それではお奉行様、行ってらっしゃいませ」

 もっこさまによる被害が最も大きいと言われている村へと赴いた珠宮八右衛門一行は、村の肝煎きもいりに見送られ出発した。

 鯖田の提案を蹴ることも考えた珠宮だが、では他に領民の信用を得る方法があるのかと自問し、引き受けるしかないことを自覚しただけであった。


 同行者は五名。

 一人は、側近の国見半太夫くにみはんだゆう

 一人は、案内役の猟師。

 言い出しっぺにして助っ人の鯖田大膳も、弟子亀吉かめきちと称する髭男を連れて同行している。

 残りの一人は、同行者であっても仲間とまでは言えない。

「まったく……どうして拙者がこんな山奥まで来なければならんのか」

 珠宮と対立する小園派の、田無吉之助たなしよしのすけ

 珠宮がズルをせず、もっこさまを自力で退治したかどうかを見届けるよう、小園に命じられたらしい。


「それで、もっこさまが出たという場所までは、まだまだ掛かるのか」

「そら、山ん中ですから、もう少しかかりますだ」

 先導していた漁師は、ふと立ち止まって珠宮の方へと向き直る。

「でもな、お奉行様……ええっと」

「珠宮だ。珠宮八右衛門」

「貒の八右衛門だ」

「ああ、八畳敷の」

 当の本人を前にしながら、割り込んできた田無の侮蔑に、ぷっと吹き出す猟師。

 不愉快なのは、彼の態度だけではない。

 主人を愚弄されても、怒るどころか何ひとつ言い返さない半太夫にも腹が立った。

 鯖田師弟も、また然り。

 鯖田大膳は「お前にやれるものならやってみろ」と珠宮を見下しているようだし、亀吉に至っては、むさ苦しいの一語に尽きる。

 羽織袴で、如何にも侍らしい恰好の鯖田とは対照的であり、田夫野人でんぷやじんという表現がぴたりと当てまる男である。

 えへんと空咳ひとつしてから、珠宮は話を元に戻した。

「でも、なんだというのだ」

「もっこさまば討ち取ろうとか、そっだらおっかねぇこと、やってけるんでさ」

 同じ領内だというのに訛りがきつい。

「もっこさまは、とんでもねぇ勢いで、ばっと来ますぞ」

「知っておる」

 正確には、そう聞いている。


「猪退治には、上善の策から下策までございます」

 屋敷にて、もっこさま退治をけしかけてきた鯖田は、珠宮の前で己の掌を広げてみせた。

「上善は罠。餌で誘き出し、挟み罠で足を封じるか疲れさせる」

 言いながら、親指を折りたたむ鯖田。

「次善は鉄砲。足を狙って当てるのは難しいので、頭を狙います」

 鯖田は、人差し指を折り曲げる。

「中は弓矢、それも毒矢が望ましい」

 中指。

「次は槍」

 薬指。

「下策は、刀や素手で正面から挑むことにございます。こうなると、もはや勝ち目はございませぬ」

 小指を折りたたみながらの助言に従い、珠宮は御屋形様より借り受けた火縄銃を携え、半太夫には伝家の鉤槍かぎやりを持たせていた。

 一方、そのような助言などまるで知らない田無は、腰に大小を差したのみである。

 鯖田師弟はといえば、鯖田自身は珠宮から借り受けた六尺余の素槍を持ち、弟子亀吉は巨大な荷を背負いながらも、苦しそうな表情は見せない。

 二人とも、珠宮ら四人から少し遅れているのは、やはり師匠たる鯖田のとしによるものなのであろうか。

 

 珠宮八右衛門一行を見下すかのように並び立つブナの間。

 人でも歩ける程度の平坦な道を先導していた猟師が、急に足を止めた。

「あった、あった」

 己の猟銃を縦にしながら、猟師は地面に片膝をつき、片手で落ち葉を取り払う。

「もっこさまの足跡だで」

 だで――と言われても、珠宮には地面の何処に蹄の跡が残っているのか、判然としない。

「おう、ここにも跡さ残ってる」

 猟師は、大木の根元に手を当てる。

 そこには、斧か何かで幹を抉ったかのような跡が残されていた。

「珠宮殿。本当に、もっこさまは只の畜生なのだろうな」

「ああ」

 田無のいぶかしげな声に力強く頷いたものの、珠宮としても未だ半信半疑である。


「猪の肉は、牡丹とも山鯨とも呼ばれ、関八州より西では滋養強壮の薬として食されております」

 屋敷で聞いた鯖田の言葉は、未だに珠宮の脳裏にこびり付いている。

「また、随分と野蛮な風習ですな」

「あくまでも、薬でございます。まだお若い珠宮様には無用の長物でございましょうが、獣肉を喰らう事で精を蓄えようとする者は、世の中に大勢いるのでございます」

 確かに、鯖田と珠宮では親子程の年齢差があるのだろうが。


「それにしても、もっこさまみてぇなのが他にもいるなんてなぁ」

 鯖田から詳細を聞いていた猟師も、俄かには信じられないのだろう。盛んに首を傾げる。

「これからは、もっこさまと同じもんが出たら、どう呼べばよかんべぇ」

「猪だろう。他所ではそう呼んでいるのだからな」

 素っ気なく答えながらも、珠宮はもっこさまに対し複雑な感情を抱いていた。


 そんなにも簡単に、呼び名が変わるものなのか。

 だったら「貒」という自分の渾名も変えられぬものか。


「ところで珠宮殿、銀札の件――」

 珠宮の方へと顔を向けた田無の声が、半太夫の絶叫に掻き消される。

 山道の右手側、なだらかな斜面の上に現れた黒い影は、旋風の如き勢いで坂を駆け降りるなり、猟師の身体を中空高く突き上げた。

「ぐえっ!」

 空中で木の葉のように回転し、肩口から地面に叩きつけられた猟師が呻き声を上げる。

「あっ!」

 どこが、三尺四尺だ。

 猟師を弾き飛ばした「それ」――もっこさまの丈は、優に七尺を超えていた。

 ひょっとして、この辺りの熊は軒並みこいつに喰われてしまったのではなかろうか。

「いかん、今まで見てきた奴より桁違いにでかい!」

 鯖田にとっても予想外だったようだが、手遅れである。

 猟師を撥ね飛ばしたもっこさまの勢いは止まらず、そのまま珠宮と田無の視界を一直線に突っ切る。

 その身にまとう、銀とも灰色とも見分けがつかぬ獣毛は、鯖田のびんを彷彿とさせる。

「亀吉、用意を!」

 背後で叫ぶ鯖田。

 一体何を用意させようというのか。

 それについて考察する余裕など、今の珠宮には持つことも許されない。

 くるりと踵を返したもっこさまが、再びこちらへと突進してきたからだ。

「おおっ!」

 抜刀した田無が、突きの構えを取ったまま――こちらももっこさまへと突撃する。

「がっ!」

 やはり、刀は下策だった。

 自分から勢いをつけていたこともあるだろう。

 田無の身体は、猟師よりも高く派手に宙を舞った。

 鉤のように反り返った牙で掬い上げられたのだと、ようやく珠宮は理解したが、それはこれから襲い掛かってくるであろうもっこさまへの対策にはつながらない。

 逃げようと決断を下したものの、両足は凍りついたかのように動かない。

 最早もはや、鉄砲を杖代わりにして、どうにか立っているようなものである。

 半太夫はといえば、早々と喪心そうしんし地面に転がっていた。

 立っているのは自分と、遥か後方に控えている鯖田師弟のみ。


 どうしてこうなってしまったのか。


 銀札発行などという一時凌ぎの為に、ここで畜生相手に短い生涯を終えてしまうのか。


 もっこさまが、再度踵を返した。


 狙いは、明らかに珠宮。


 せめて相討ちを狙いたいところだが、火縄銃には火縄も点いていなければ弾も込められてはいないし、半太夫が手放した鉤槍には手が届かない。


 もっこさまが駆ける。


(もう駄目だ)


「動くな」


 覚悟を決めた珠宮の背後で、声が聞こえた。


 声の主が、珠宮の頭上をひらりと跳び越え正面に降り立つ。


 鯖田大膳。


 その手に構えているのは、珠宮のものより銃身が短い火縄銃――短筒たんづつ


「直接取らせたかったのだが、背に腹は変えられん」


 片膝をついた鯖田が、両手で短筒を構える。

 

 もっこさまの眉間に、照準を合わせているのか。


「鯖田流生存術……貸しは覚えて借りは忘れろ」


 深山に銃声が鳴り響いた。







 登竜門――鯉の滝登りとは、まさに自分のような成功者の為にある言葉なのだろう。

 城門を潜りながら、珠宮八右衛門は己の成功に満足しながらも、与えられた報酬には半ば驚嘆していた。


「儂らの為に、命懸けでもっこさまを退治してくだすった珠宮様が、儂らの損になるような事をするわけがねぇ」

 肩から地面に叩きつけられた猟師は、僥倖ぎょうこうにも打ち身だけで済んだものの、頭から落ちた田無は首の骨が砕けており、そのまま不帰ふきの人と成り果てた。

 怪我人の猟師を除いた四人で、もっこさまの骸を引きずり村まで持ち帰ると、村人たちは慌てながらも態度を一変させ、珠宮を褒め称えた。

「さすが珠宮様だ。もっこさま相手でも慌てず騒がず、一発で仕留めてきなすったわい」

「やたら大声上げて返り討ちに遭ってきた連中とは、月とスッポンじゃあ」

 どうせ失敗すると小馬鹿にしていた村人が、如何に多かったか。

 仰向けになったまま、ぴくりともしないもっこさまの死体を取り囲む村人の数は、見送りに出た時の人数より明らかに多い。

「おう、見てみい。正面から眉間を一発じゃ。こんなもん、鉄砲の腕前以外にも度胸がねぇと、とても出来るこっちゃねぇ」

 その一発が珠宮によるものであると誰もが信じており、疑う者は一人もいない。

 実際にそれを撃ち込んだのは鯖田大膳だ。

 そして、珠宮が仕留めた事にしようと言い出したのも鯖田大膳である。


「いや、これは明らかに某の落ち度でござる」

 あの直後。

 眉間に銃弾を受けたもっこさまの身体が大きく跳ね上がり、地響きを立てて地に倒れ伏してから。

 腰を抜かして震える珠宮の方へと顔を向けた鯖田は、沈痛な面持ちのまま頭を下げた。

「猪ならば所詮は三尺四尺、簡単に仕留められると嵩を括り、完全に相手を見誤っておりました。まったく、自分の経験だけでものを推し測るべきではありませんでしたな」

 その点については、珠宮にも抗議の意があった。

 出遭ってみれば、およそ倍はあろうかという身の丈である。

 頭を下げた鯖田は、短筒を持たぬ方の手でもっこさまを指さす。

「詫びといえばなんですが、この化けものは珠宮様が仕留めた、という事になさっては如何いかがでございましょう」

「えっ」

「流れ者の某には、過ぎたる手柄でござる。それよりかは、珠宮様のお手柄という事にした方が、後々の為になるというもの。如何でございましょう」

 地面に叩きつけられたまま呻いている猟師と、喪心した半太夫は、もっこさまを仕留めたのが鯖田であることを知らない。

 幸か不幸か、それを疑いそうな田無は、もっこさまにより息の根を止められてしまった。

 当の鯖田がそうすべきと言っているのだし、彼の弟子である亀吉が口を滑らせるとは思えない。

 まるで、珠宮の為に用意されたお膳立てのようである。

「わかった……わかりました」

 利を求めたというより、一刻も早くこの場から逃げ出したかったという気持ちの方が、肯首の後押しになった。


 くして英雄として迎えられた珠宮は、家臣と領民からの圧倒的な支持を後ろ盾とし、銀札発行に着手した。

「私がもっこさま討伐に成功した理由は、その正体について各地から情報を掻き集め、かの化けものの正体を看破したうえで対策を練っていたからでございます。銀札もこれと同様。採用している地からの情報を基に、利点と欠点の双方を検討したうえでの発行にございます。失敗はございませぬ」

 実戦での成果は、御屋形様の承認を得るに十分すぎる説得力があった。


 必要とされる条件は揃い、銀札が発行されたのが翌年の初夏である。


 杉谷家で賄い切れない不足分を、札元として肩代わりするのは、指名を受けた地元の豪商、相模屋箕左衛門さがみやみざえもん

 発行されたのは銀十もんめ、五匁、三匁、一匁の四種類。

 銀札は、本来ならば銭百文で銀一匁として換算されるべきところを、七十文で換算している。つまり銭より銀札を購入して使った方が、使う側に少しだけ利がある。

 この僅かな得と領内全体の所持金不足、そして事業の資金不足とが上手く噛み合い、当座の救世主となった。

 さらにこの数年では珍しい程の豊漁で、苦しかった杉谷家の台所事情も、どうにか持ち直す兆しを見せた。


 降って湧いたかのような好景気に、家中一同並びに領民は、往来で「銀札万歳」を連呼する有り様。

 銀札の発行と同時に「銀札奉行」が設置され、初代は――当然ながら――珠宮が財用奉行と兼任していたが、間もなくどちらも交代させられた。

 無役に格下げされたのではなく、その逆である。


 家老。


 目の前の財務問題解決に悪戦苦闘の日々を送っていた珠宮にとって、まさに望外の席であった。

 出身としては下級に近い身であり、齢もまだ若い。

 本来ならば見送られるであろう家老への昇進が認められたのは、銀札発行とそれによる経済安定という功績があったからに他ならない。

 また、珠宮のような家臣の急な家老昇進に前例はなかったものの、杉谷家にはそれをせねばならぬ一応の理由があった。

 先日、家老の真木某まきなにがしが急逝したのだが、彼の嫡子は数えで十一と若すぎて家老職を継がせるのは難しく、代理に近い形で認められた――とも言われている。


 銀札発行に最後まで反対していた小園大三らは、今となってはすっかり弱体化し、掌を返して珠宮におもねる者まで現れた。

「貒が化けよったわい」

 小園は未だに己の屋敷内で陰口を叩いているそうだが、もはや時の運は彼に味方しない。病気と称して滅多に登城せず、顔を出したとしてもその発言は半ば無視されている、という有り様である。


 下々しもじもの心というものは、斯様かようにも単純なのか。

 これでは、銀札発行の有用性を語り続けてきた自分が馬鹿みたいではないか――と、珠宮は彼らの単純さに呆れ返った。

 同時に、運というものは一旦良い目が出ると、こうも追い風が吹くものなのかと、努力の虚しさ、不毛さに落胆もした。

 ただ――この運は大事にしなければならぬ。

 銀札発行により家臣や領民たちが力を取り戻したのは事実だが、珠宮自身これが一時凌ぎの策に過ぎないことは理解している。

 財政的に余裕が出来た今こそ、産業の底上げを行わなければならない。

 上手くいっている時こそ油断と寛容は禁物なのだ。

 鯖田から買い取った『養生行路』には、そう記されていた。

 一帖五両と高くついたが、大金を払うだけの価値はあったと言える。


 その『養生行路』には、こうも記されていた。

「言わぬ漏らさぬは、その場限りの口約束と思え」


 その通りである、と読み終えた珠宮は賛同した。

 故に、礼を言って領内から立ち去った鯖田師弟に刺客を差し向けた。

 刺客には、鯖田師弟を討つ理由までは教えなかった。教えてしまっては本末転倒である。

「生かしておいては、御屋形様の為にならぬ者である」

 刺客の面々も、それだけで納得するのだから、珠宮の信用も相当なものである。

「某が得た報酬は、自説の証明と記載する実録にございます」

 珠宮の屋敷を立ち去る際に意気揚々と語っていたが、よもや自著の内容にならって殺されるとは、如何いかに鯖田大膳といえども予想だにしなかったであろう。

 だが、もっこさま退治の真相を他者に漏らすわけにもいかないのだ。


 念には念を入れ、半太夫にも罪を被せて領内追放という形で処分した。命までは取らずに済ませたのは、これまで忠実に仕えてきた者への報酬でもある。


 御屋形様による破格の扱いは役職だけに止まらず――本来ならばあり得ない――所領の分与まで行われた。

 これにより、家老としては末席の新参でありながら、古参の杉谷図書や小園大三と肩を並べたも同然と、周囲から認められるようになった。

 昇進が決まってからの珠宮は、支度に忙殺された。

 まずは狭い我が家から、家老の屋敷に引っ越さなければならなかったし、昇進した身に合わせて家来の数も増やさなければならない。与えられた所領も検分しなければならないし、買い揃えなければならないものも多い。

 ひと月の間に登城しなければならぬ回数も、格段に増えた。

 当然、費用は珠宮持ちである。珠宮はこれを出来る限り切り詰めたが、それでも最終的な総額には眉を顰めた。

 何事にも金が掛かる。それも、ただ浪費するだけで利に繋がらないものが多い。

 この問題を解決しない限り、いくら領民に増産を奨励したところで焼け石に水。御屋形様以外の全員が倹約に努めなければ、事態は好転しないだろう。


 破竹の勢い、という言葉がある。

 末席で喜んでいる場合ではない。杉谷家家臣一同に対し厳格な倹約令を敷く為には、この機を逃さず、さらなる出世を繰り返し、政敵を殲滅してでも家老筆頭の座に就かなければならぬ。

 城の大広間で、御屋形様の御尊顔と他の家老たちの背を交互に眺めながら、珠宮は強く決意した。


 まずは、家老になった自分の後任として銀札奉行に就いた勝田増之進かつたますのしんと共謀し、小園派の代官、大屋陣兵衛おおやじんべえを罠に嵌め、不義密通の罪を被せて切腹に追い込んだ。

 未だ銀札を認めようとしない小園派への、恫喝どうかつである。

 一旦弓を引いてしまえば、もはや収拾はつかない。

 元上役である杉田図書と、同じく家老の竹沢内記たけざわないきと手を組んだ珠宮は、家臣と領民多数からの信用を盾に、ある計画を進めていた。


 杉谷家家臣およそ半数の放逐。


 杉谷家が抱える財政難は、家臣の数が多すぎて支給する扶持米ふちまいが足りないところに本質がある。

 何かしら理由をつけ、大半を放逐という形で処分しなければ、杉谷家は十年と持たずに主従揃って借金で首が回らなくなってしまうだろう。

 成功させる為には、家臣間の対立を招いて一方に非があるとして処断するのが最善だろうが、それは秘密裏に行わなければならない。発覚すれば、放逐されるのは珠宮たちの方になる。

 尤も、図書や内記がそこまで珠宮を信用しているとは思えないし、珠宮もまた二人を完全には信用していない。

 いつかは二人を追い抜き、支配下に置きたいとさえ考えている。


「お帰りなさいませ」

 家老屋敷に戻り寛いでいると、女房が客の訪問を知らせに来た。

 現在、珠宮家には一男一女が居る。

 出来れば男子がもう一人欲しいところだが、昇進してからは昔以上に忙しくなり、家族を顧みる事が少なくなってしまった気がする。

 しかし、杉谷家と家族のどちらを取るかと問われたならば、珠宮は間違いなく前者を取る。

 これは、何も珠宮に限った話ではない。領内の政を司る者ならば、己の家族よりも御家を大事にするというのが、武家の習わしなのである。

 二人の子供のうち、息子は珠宮家の嫡子である。

 御屋形様の従弟である杉谷図書のところへ娘を嫁がせてしまえば、珠宮家は――血縁上は――御屋形様の一族という事になる。

 あくまでも、おぼろげな計画に過ぎないのだが。


「これは、ご家老様」

 屋敷の客間には、札元の相模屋箕左衛門が下座に座していた。

「家老は止せと言っておるではないか」

 それを承知で揶揄っていることは、珠宮も承知の上である。

 銀札発行の札元として大いに株を上げた相模屋は、珠宮とは長い付き合いになる。

 親子ほども年が離れてはいるが、武士である珠宮の方が地位は上である。

 それでも珠宮にとっては銀札発行に至るまでの艱難辛苦を共有した戦友であり、現在でも気兼ねなく付き合える相手であり、これから起こるであろう内紛に備えた後ろ盾でもある。

「もう日も暮れたというのに訪ねて来るとは、それほど急ぐ問題でも起こったか」

「はい」

 上座で胡坐を掻いた珠宮の傍らには、新たな側近として雇い入れた北崎裕兵衛きたざきゆうべえが控える。

 杉谷家でも一、二を争う剣の達人である。

「実は、二匁銀札のことで」

「あれか」

 領内で発行した銀札は、銀十匁と五匁、三匁そして一匁の四種類のみである。

 ところが、最近になって新たな銀札――「二匁銀札」なるものが市井に出回っていた。

 無論、珠宮には発行を許可した覚えは無いし、問い合わせた銀札奉行、勝田の返答もやはり「否」である。

 銀札の発行は、大名家が独断で設定して好きなように発行できるものではない。

 どの様な銀札を幾ら用意するかを予め公儀に申請し、許可を受けなければならないのだ。

 つまり、二匁銀札は公儀不許可の「偽札」である。

 これが、不思議なまでに出来が良い。表面には「銀二匁」の表記と共に偽造された相模屋の印判が捺されており、裏面には発行日が書かれ鶴の判がされている。

 本物の銀札四種類に引けを取らぬ出来である。銀札を十枚以上持ち歩いていれば、その中に紛れ込んでいたとしても気づかれないだろう。

「出所を突き止めたのか」

「いえ」

「出回るのを防ぐ手立てでも思いついたか」

「何も」

「では、一体なんだというのだ」

 珠宮は、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。

 家老筆頭の座に就く為には、やるべきことが多すぎる。

 訪ねてきたのが相模屋でなければ、追い返しているところである。

「実は、ご相談したき事がございまして」

「言えば良い」

「いえ、その」

 愛想笑いを浮かべながら、ちらりちらりと北崎の方へと視線を飛ばす相模屋の姿に、珠宮は彼の意を悟る。

「北崎、下がれ。相模屋の事は気にするな」

 珠宮の命を受け、側近は無言のまま客間を立ち去る。

「それで、どうした。何か秘策でもあるのか」

「はい。くだんの二匁銀札でございますが……こちら秘かに同じものを刷る、という手は如何でございましょう」

 相模屋の突拍子もない思い付きに、珠宮は一瞬己が耳を疑った。

「何を言い出すのだ、相模屋。お前までもが悪事の片棒を担いで、どうする」

「珠宮様」

 対峙する相模屋の顔は、真剣そのものだ。

「お聞きください。そもそも無許可の二匁銀札が出回っているのは、便利だからでございます。例えば銀七匁と言えば、五匁札一枚に一匁札が二枚。もしくは三匁札二枚に一匁札一枚と、最低でも銀札が三枚必要になります。しかし二匁銀札があれば、五匁札と二匁札が一枚ずつで済むのでございます。斯様に使い勝手の良い札ならば、むしろ浸透させてしまうのも一つの手段ではないかと」

「しかし、求められたならばそれを銀に換えねばならんのだぞ」

「換えません。偽札ですから」

 身を低くしながらも、相模屋の眼だけは挑むような鋭いものに変わった。

 彼が時折垣間見せる、ずるさを含んだ目つきである。

よろしゅうございますか。二匁銀札は無許可の銀札であると、奉行所はこれまで高札にて幾度も触れ回っているのでございます。従って、民草にまで使用禁止が広まっていると考えるのは当然のこと。使ってはならぬものを使う方が、おかしいのです」

「それはそうだが」

 それをわざわざ自分たちで刷ろうという発想は、一体何処から出てきたのか。

「故に、二匁銀札に限り銀との交換は致しませぬ。それで奉行所に訴えられたとて、悪いのは二匁銀札を使った側。こちらに非はございませぬ」

「見逃せ、というのか」

「そればかりではございませぬ。今のところ、一匁銀札の相場は一枚につき銭七十文。即ち二匁銀札ならば相場は百六十文前後にございましょう。こちらは、正規の販路を使わずに一枚百四十文の値で配るのでございます。さすれば、元々闇にて売り捌かれていた二匁銀札は誰も買い手がつかなくなり、我々が刷ったもの以外の二匁銀札は自然と消えてしまいしまょう。そうなってから、こちらも二匁銀札の発行を取り止めるのでございます」

「そう上手く行くのであろうか」

「行かなくとも、それはそれ。二匁銀札を売った儲けは、秘かにこちらの懐に入って来るのでございます」

 それが、相模屋の魂胆か。

 財用奉行だった頃の珠宮ならば、ふざけるなと一喝していただろう。

 しかし――


「相模屋……儂にも取り分はあるのだろうな」

 今の珠宮には、勝ち残り家老筆頭にのし上がる為の金が要るのだ。

 ここで自分が政争に敗れようものなら銀札の統制が滅茶苦茶になり、誰もが無きを見る破目になる。それだけは、なんとしても食い止めなければならない。

 それに、領民は現行の匁銀札以外に、匁の十分の一である「分」の銀札発行を求めているが、発行にはそれなりの費用が要る。

 偽の二匁銀札を黙認することで、また一つ下々の要望に応えることが出来るのだ。

「しかし、味方につける必要があるのは儂だけではないぞ……少なくとも、銀札奉行の勝田増之進は」

「実は、勝田様からは既に色よいお返事をいただいておりまして」

 相模屋箕左衛門が、にやりと笑った。






 瓦解は怒涛のように押し寄せてきた。


 珠宮と相模屋、さらには仲間に引き込んでいた銀札奉行の勝田増之進らの暗躍により、公認されている一匁銀札と同じ工程で版型が彫られ、大量の二匁銀札が領内に出回った。

 本物を発行している組織で作られた、偽物である。出来が良いのは当たり前で、何も知らない――知っていたとして意にも介さない――地元の領民たちは、便利だ便利だと連呼しながら使用した。

 しかし、その実態は無許可未公認の銀札なのだ。

 銀札奉行は、一切関与していない体を装いつつ、公務として「偽」銀札を取り締まり、使用禁止を触れ回る。

 珠宮一派が発行した二匁銀札は、百五十文売り値で流通していたが、その正体は兌換だかんが認められていない偽銀札である。

 従って札元の相模屋は、この二匁銀札については一切の責任を問わず、何も知らずに――或いは知ったうえで――銀に換えてくれると楽観していた人間だけが取り締まりの対象となった。

 札元とは無関係と銀札奉行が断じている以上、珠宮一派が刷ったものであろうと、それ以前に出回っていたものであろうと、全ての二匁銀札は交換不可の紙切れに過ぎない。

 珠宮一派は裏で偽銀札を刷りつつ、表向きは「領内の政を混乱させる悪疫あくえき」と称して二匁銀札の取り締まりに力を注いでいる――ように見せかけた。

 一応は、自分たちが発行しているもの以外の二匁銀札を駆除する、という目的もある。民間で売り捌いている連中は何度か捕え酷刑に処したものの、肝心の版型を持っているであろう首魁には辿り着けずにいた。

 珠宮一派の二匁銀札が市井に出回り、濡れ手に粟の大儲けが続いている間は、それでも構わぬとすら珠宮は思っていた。

 悪いのは、自分に無断で二匁銀札を刷っている連中であり、その状況を少々利用させてもらっているだけの自分たちは罪が軽い、とまで錯覚していた。


 公で銀札を発行している奉行が、直々に偽の銀札まで刷っている。

 この絡繰りに気づく者など、いるはずがない。

 その過信と、ぬるま湯にも似た環境に浸り続けて生じた慢心が、鬼子と化して珠宮たちに襲い掛かってきた。

 二匁銀札に騙され損をした武士や商人、領民の間から、銀札そのものに対する不信感が生じ始めたのである。

「二匁銀札は偽物だから銀に換えられないというが、ひょっとしたら他の銀札にも偽物が混じっているのではあるまいか」

「他の銀札も、いざ銀に換えようとしたら、同じように難癖つけられて換えてもらえねぇんでねべか」

 もし銀札奉行の勝田に直接尋ねたならば、叱責と共に交換を保証されたであろうが、奉行相手にそこまで思い切った行動を取るものは、そうそういない。

 嘘か真か確認するには、実際に銀への交換を申し出るのが一番である。

 かくして銀札の価値と信用が揺らぎ始め、領内の人間誰もが一斉に銀札の交換を申し込んできた。

 これにより、杉谷家と相模屋が保有していた銀は忽ち底を尽いたと言っても、過言ではない。

 困惑する珠宮一派に、決定打となる追い討ちが掛かった。


 豊漁により銀札が褒め称えられた翌年。

 今度は度重なる大しけと凶作が領内を襲った。

 杉谷家は米蔵を解放し領民に配り急場を凌いだものの、それでも家臣に配給しなければならない扶持米が足りず、不足分を江戸の米問屋から買い取る事になったのだが――


 肝心の、費用が無い。


 こういう時に金を出してくれると期待していた相模屋も、相次ぐ交換の申し出により財を吐き出してしまい、今では他の商家に借金を頼み込むという有り様である。

 村の肝煎や格下の商人が相手ならば、理由をつけて銀への交換を先延ばしできる。

 しかし、杉谷家の家臣である侍が相手となると、屁理屈を押し通すわけにはいかないのが、御用商人の辛いところだ。

 銀札の交換は控えるようにと、いくら珠宮や勝田が口を酸っぱくして触れ回っても効果が無い。彼らにとっては、銀札一枚が死活問題に繋がりかねないのだ。

 むしろ、家老である珠宮までもが銀札交換に意見したことが、かえって悪循環を加速させる結果となってしまった。


 利用者たちが一斉に手のひらを返し、一気に下落した銀札の信用は、珠宮たちが幾ら手を尽くしても回復の兆しを見せることは無く、それに合わせるかのように、彼らの取り巻きも徐々に離れていった。

 その取り巻きを味方に引き込むことで息を吹き返したのが、小園大三率いる銀札反対派だった。

「銀札奉行の勝田増之進は、銀札を発行するばかりで二匁銀札の取り締まりもおざなりである。我々ならば、二匁銀札をばらまいている連中など、たちどころに捕えて磔にしてやれるというのに」

「あれは、珠宮の言いなりで、自分では何も考えられぬ木偶よ」

 ある時期までは身内だっただけに、小園派についた裏切り者たちは、勝田の短所と取り締まりの急所を的確に突いてきた。


 銀札の信用下落についても、また小園一派の追及に対しても明確な反撃の糸口を見出せぬまま、ずるずると言い訳ばかりを唱え続けていた珠宮一派への止めとなったのが、勝田が人を介して小園に献上した、二匁銀札の版型だった。


「我らが独自に調べておりましたところ、高尾の山中にて斯様なものを拾いましてな。よもやと思うて銀札奉行に見せたところ、世間に出回っている二匁銀札の版型ではないか、と申しておりました。さしずめ、二匁銀札を刷っていた連中が、これ以上は儲けにならぬと見越して打ち捨てたのでございましょうなぁ」


 何が「よもやと思うて」か。

 勝田に保管を任せていた版型が山の中で見つかるなど、あり得るはずが無い。


「ただ、この版型についてはおかしな話がござって……裏面に彫られている鶴、これと同じものを珠宮殿の御屋敷にて拝見した覚えがある、と勝田が申しておるのでござる」


 当たり前だ。その画を基に彫らせたのだから。


「いやはや……連中が如何にして領民から信じ込まれるような出来の良い二匁銀札を作り上げたのか、珠宮殿の御屋敷にある鶴の画そっくりの版画を彫ったのか、某には全く見当がつきませんなぁ」

 小園が、何もかもお見通しであると言わんばかりの顔つきで語ったのは、勝田が病気と称して珠宮との面会を断った翌日の事である。


 まさかの裏切りに狼狽した珠宮は、白々しさを承知の上で病気と称して欠勤を続けていたが、その間に勝田は御屋形様に願い出て銀札奉行の座から退き、今ではすっかり小園の飼い犬である。

 商人である相模屋を別として、最も信頼を置いていた配下の裏切りに、珠宮の不安は募る一方となった。

 新たな銀札奉行を誰にすべきかという、杉谷図書からの相談も突っぱねた珠宮は与えられた所領に「病気の療養」という名目で引き籠り、時が騒動の悪評を押し流す事を期待したが、しかし日が経つにつれ状況は悪化する一方であった。


 まず、女房が子供二人を連れ実家に逃げた。

 栄華を極めていた頃は、やれ友禅が欲しいとかもっと人を雇ってくれとか贅沢ばかり求めていた女房が、こうもあっさり自分を捨てて、しかも子供たちまで連れ去ってしまったのか。

 なんと身勝手な事か、と己の所業も忘れ怒り狂う珠宮であったが、銀札と共に権威も失墜した今の珠宮では、彼女の実家に出向いたところで門前払いを食らうだけだろうし、万が一そこで小園一派の人間に見つかろうものなら、御屋形様にどんな悪評を吹き込まれるものか、知れたものではない。


 落胆する珠宮を、さらなる不幸が襲う。

 ほぼ唯一の味方であった相模屋箕左衛門の訃報が届いた。

 敵となった勝田により二匁銀札発行の尻尾を掴まれ、詮議を受ける前に自ら首を括ったものらしい。

 しかし珠宮には、悲嘆にくれる余裕すら与えられなかった。

 相模屋に疑惑の目が向けられたという事は、彼と親しかった珠宮の追及が、いよいよ本格的なものに変わるという合図に他ならない。

 庇い立てしてくれそうな味方は、もはや一人も居ない。協力的だった杉谷図書も、今となっては珠宮の呼びかけに完全無視を決め込んでいる。


 敵に回ったのは、武士だけではない。

 高札は読まないくせに噂話には耳を聳てる領民たちも、二匁銀札の正体を聞いてからは態度を一変させた。

 銀札が好調だった時には、これでこの地も潤うだの中央の大名たちと肩を並べただのと笑っていた商人たちも、今では銀札を疫病神扱い。

 手のひら返しが極端すぎて、ひょっとして狐か狸に化かされているのでは、と疑いたくなるほどである。


「殿」

 北崎祐兵衛が、顔を強張らせたまま姿を見せる。

 今となっては、この男だけが唯一の配下と言っても過言ではない。

 如何に追い詰められても、この男だけは手放さなかったのは、その剣の腕前を珠宮が頼りにしているからに他ならない。

「外が騒がしゅうござる」

「小園か」

「いえ、百姓共ではないかと」

「そっちが先に来たか」

 新たな領主である珠宮を快く迎えてくれた領民の姿も、今となっては遠い昔の出来事のように感じられる。

 銀札の価値が下落してからというもの、この時点で銀札政策の発案者である珠宮への憎悪が最も強いのは、皮肉にも彼の所領に住む農民たちだった。

 それでも珠宮が療養に訪れた時には、上辺だけとはいえ丁寧にもてなしてくれたものだったが、二匁銀札の版型が小園の手に渡ってからは、すっかり杉谷家の敵扱いである。

 さらに、信用が下り坂になっていた銀札の失地回復にばかり目を向け、凶作だというのに領民に対し明確な救済の手立てを取らなかったことも、恨みを買った一因なのだろう。

 しかし今の珠宮には、この地以外に腰を据えていられる場所など存在しない事も、また事実なのである。

 その安息の地も、遂に失う日が訪れたというのか。

「数は」

「少なくとも、三十名は超えるかと」

 珠宮自身に、応戦するだけの力は無い。

 北崎一人に縋るとしても、珠宮を護りながらの籠城では圧倒的に不利だし、屋敷に火を点けられたらお終いである。

 屋敷内で働いていた連中も、日を追うごとに一人また一人と逃げ出しており、今では飯炊きの老婆と庭掃除の亭主、腰抜けで役に立たぬ門番ぐらいしか残っていない。

 勝ち目は無いのである。

 逃げよう、と珠宮は早々に決断を下した。

 問題は逃亡先だ。

 城下に舞い戻ったところで、待っているのは小園による責任追及からの切腹だろう。勝田が向こうについた以上、ありとあらゆる証拠が小園の手に渡ったと見るべきである。

 それを承知で戻るのは、愚行以外の何ものでもない。

 そうかといって屋敷に留まり、領民相手に不毛な戦いを繰り広げるつもりも無い。

「北崎、馬を用意せよ」

 逐電ちくでんしかない。

 他領に逃げ込めば、如何にこの先小園が力をつけたとしても、追ってはこないだろう。罪状は無許可未公認銀札の発行だけであり、それ以外の銀札発行については公儀の認可を受けているのだ。

 近隣の大名に捕縛を要請するのは、身内の恥を晒すのに等しい。


「何時如何なる時でも、逃げ出す準備を怠るなかれ」


 記憶の片隅に残る『養生行路』の教えに従い、秘かに蓄えておいた千両箱を地袋じぶくろから引っ張り出した珠宮は、蓋を開け中の小判を撫で回した。

 これだけの金があれば、何処どこかで再起を図れるだろう。

 老夫婦と門番も、鬼と化した領民たちが押し寄せれば、家具に屋敷を捨てて逃げ出すだろう。逐電の道連れは、足手まといになりかねない。


 こうして迎えた夜半過ぎ。

 千両箱を乗せた馬を北崎にかせ、秘かに裏門から脱出した珠宮だが、彼に許された逃げ道は南にしか存在しない。

 北は城下に続き、東は断崖絶壁。西からは武装した領民たちが押し寄せているのだ。

「北崎、まだか。まだ国境に着かぬのか」

 珠宮一人が馬で先行したのでは、万が一の場合の護衛が居なくなってしまう。


 どうして、こうなってしまったのか。

 珠宮は、馬上で一連の流れを思い返す。


 銀札は、あくまでも一時凌ぎにしかならず、金があるうちに開墾や品種改良、何より杉谷家の侍共が自らの手で田畑を耕すよう促すのが真の目的ではなかったのか。

 自分は、その為に動き回っていたはずだ。

 家老筆頭の座を狙っていたのも、元はと言えばそれらを制度として確立させるだけの力を欲していたからであって、決して私利私欲が原因ではない。

 それに、自分の所領では増産を奨励していたし、寒さに強い稲を作るよう命じてもいた。

 成功に繋がらなかったのは、ひとえに民の怠慢故であろう。

 はやる気持ちを抑え、生い茂る足をかき分けながら馬の歩を進めていた珠宮は、突如として現れた光景に己が目を見開いた。

 川だ。

 それも幅広く、深さはそれほどでもないが流れは速そうな川である。

 珠宮は馬から降りて川べりに近づいた。

 月明かりを受け透明感を増す川の水は、見るだけでも冷たさを訴えてくる。

 夏場ならともかく、ようやく雪解けを迎えたばかりのこの時期に素足を浸そうものなら、魂まで凍えてしまいそうである。

「舟だ。北崎、舟を探せ」

「はっ」

 川を渡る為の舟を求め、ひたすらにあしを掻き分ける珠宮と北崎だが、延々と続く川辺には舟どころか板切れ一枚、そして人の姿も見当たらない。

「くそっ」

 悪態を吐いた珠宮の視界――川の向こう岸から、静かにこちらへと近づいて来る黒い影。

 舟だ。小さいが、確かに舟である。

 乗っているのは、男が一人。

 月明かりの下に照らし出されたその顔を見て、珠宮は悲鳴に近い声を上げた。


「さ、鯖田!」


 鯖田大膳。

 刺客を放って殺した筈の男が、月夜に一人、舟の上で竿を手繰っているではないか。

 その姿は、濡羽色の打裂ぶっさき羽織に同色の野袴。手甲に脚絆。肩に掛けたる黒鳶くろとび色の三角笠に二本差しと、明らかに旅装束である。

 戻ってきたのか、地獄から。

「これはこれは、珠宮殿」

 川に沿って、ゆらりゆらりと舟を動かしながら、声は届けど手は届かぬ距離を保ちつつ、先に声を掛けてきたのは鯖田の方だった。

「そのお顔、如何なさいました。まるで幽鬼にでも出会ったかのように真っ青ですぞ」

 生きていたのか。

「そういえば、以前こちらを離れた直後に、二本差しの賊に襲われましてな。殺すのも可哀想だったので、適当に痛めつけてから金を与え、噓の報告をしておけと諭してやりましたわい」

 明らかに、誰の差し金であるかを承知したうえで挑発する鯖田に、珠宮は胸中で舌打ちした。

 北崎も腰の愛刀に手を伸ばしたが、相手が舟の上では手が出せない。

 それに鯖田には、もっこさまを仕留めた短筒がある。

 遠くからあれ・・を使われたのでは、お手上げである。

「人を欺くのには慣れたようですが、欺かれるのにはまだまだ慣れておらんようですな、珠宮殿」

 小馬鹿にしながら、鯖田は徐々に舟を川辺へと近づける。

 一気に斬りかかろうとする北崎を、珠宮は目で制した。

 仕掛けるなら、鯖田の両足が地に着いてからだ。舟に乗ったままでは、勘づかれた時点で川へと逃げられてしまう。

「まあ、そやつらと黒幕は放っておこうと思ったのですが、旅先で耳にした噂話に、杉谷家の銀札に偽物が出たという話がありましてな。気になって戻って来たのです」

「それだけではないでしょう」

 珠宮は、鯖田の肚の内が読めた気がした。

「銀札の成功に乗じて二匁銀札をばらまいたのは、貴方ですね」

 あの『養生行路』の著者である。それぐらいの悪事は平気でやるだろう。

 しかし、鯖田は動揺の色を見せず答えた。

「見当違いの大外れですな。二匁銀札の犯人は、某ではございません。まあ、見逃してやりましたが」

 鯖田の口調は、以前に比べてぞんざいになっている。

「誰なんです」

「国見半太夫」

「えっ」

 口封じとして領内から追放した、かつての側近である。

「落ち度が無いのに追放した事で、恨みを買いましたな。尤も、今は版型を廃棄して北陸へと逃げたようですが」

「貴方が手引きしたのではないのですか」

「潮時だろう、と伝えはしました」

「どうして捕えてくれなかったのですか」

「死人だったものですから」

 ぐっ、と珠宮は言葉を詰まらせた。

 ひょっとすると、勝田を寝返らせたのも、この地の領民が珠宮を襲うように仕向けたのも、この男なのかもしれない。

「珠宮殿……いや、珠宮さん」

 鯖田の口調が、さらに砕けたものへと変容する。

「俺は、あんた・・・を窮地から救いに来たんだよ。それも、今回で二度目だ。一度目は、あんた・・・の代わりにもっこさまを仕留めたうえ、あんた・・・の手柄という事にした。これは敵の大きさを見誤った俺の落ち度が原因だ。今度は、隣の領へ逃げようとするあんた・・・に、この舟を献上しに来た。信じて欲しいね」

「ならば、早く乗せろ」

 鯖田につられて、珠宮の口調も横柄なものへと変わる。

 言われずとも、とばかりに舟は川辺に乗り上げ、鯖田も陸に上がった。

 口の端を吊り上げた珠宮は、慌ててそれを元の位置に戻す。

 馬から下ろした千両箱を抱え、入れ替わるように乗り込もうとした珠宮の身体を、鯖田の握る竿が押し止めた。

「何をする」

「乗るのは勝手だが、その千両箱は置いていってもらう」

「なんだと」

「命の値段が千両箱一つなら、安いもんだろう」

「貴様……」

 やはり、金が目当てだったか。

 北崎――と声を掛ける前に、当の本人は動いた。

 目にも止まらぬ速さで抜いた刀を振り上げる。

 だがそれを振り下ろすより速く、鯖田の刀が彼を正面から唐竹割りにした。

生憎あいにくと、得意なのは鉄砲と悪知恵だけじゃねぇんだ」

「ひいっ!」

 悲鳴を上げ腰を抜かした珠宮と、縦一文字に血を流す北崎の身体は、ほぼ同時に地に伏した。

 抜刀は北崎の方が先だったし、鯖田は竿を握っていたはずである。

「で……どうするんだい」

 珠宮は悟った。生き延びる道は、一つしかない。

「わっ、わかった! 千両箱はくれてやるっ!」

「よし、商談成立だな」

 商談どころか、ただの脅迫だ――

 そう言い返す度胸すら、今の珠宮は持ち合わせていない。

 這うようにして舟に転がり込んだ珠宮の頭上を、何か長いものが通過する。

 鯖田が握っていた、舟の竿。

「川を渡れば国境は目の前だ。あとは何処どこにでも逃げれば良いさ」

 逃げる、と言われた珠宮の肉体に、ほんの僅かながら活力が湧き上がってきた。

 逃げよう。川へ、鯖田の刀が届かない場所へ。

 拾い上げた竿に力を込め、舟を陸から遠ざける。

「そ、その千両箱はどうするつもりだ。家中の者や領民たちに見つかったら、ただでは済まんぞ」

 跳んだとしても届かないであろう距離まで離れてから、珠宮は鯖田に声を掛けた。

 逃げる事に精一杯だった珠宮に残された、唯一の疑問である。

「心配ご無用。年寄りの六部に化けた亀吉を北に待機させている。金は奴が背負った厨子ずしに移して、親切心から同行を申し出た俺と連れ立って領を離れるって寸法よ」

 珠宮は舌を巻いた。

 呆れるほど悪知恵が働く男である。

「そうそう、言い忘れてた」

 今度は、鯖田が珠宮に声を飛ばしてきた。

「鯖田殿、何か」

「その舟、底に穴が開いていたんだった」

「えっ」

「泥と苔を栓代わりにしといたんだが、そう長くはもたないだろな。そろそろ水が入ってくるだろうから、さっさと渡らないと沈むぞ」

「うわっ!」

 鯖田の言う通りだった。

 船底の一点から、溢れるように川の水が入ってくる。

 舟が沈むまでに、果たして向こう岸に辿り着けるかどうか――

 大慌てで竿を動かす珠宮の耳に、鯖田の楽しげな声が入り込んできた。


「金も捨て、仲間も捨てた逃げ狸、届かぬ彼方へ漕ぎ出せ泥舟でいしゅう!」



                                   (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

在郷悪党伝 鯖田 木園 碧雄 @h-kisono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ