終章

野狂

 奇妙な噂が流れていた。

 その噂とは、式部しきぶ少丞しょうじょうである小野篁が、夜な夜な六道辻に通っている、というものであった。

 六道辻には古い寺が一軒だけ存在していた。その寺の名は珍皇寺といい、寺の境内にある井戸は冥府と繋がっているとの噂だった。小野篁は、昼間は朝廷の役人であるが、夜になるとその井戸より冥府へと向かい、冥府の王である閻魔大王の片腕として働いている。

 そんな噂が大内裏の中で流れているのだ。


「誰か見た者がおるというのか?」

 

 そう言ったのは中務なかつかさきょうである賀陽かやの親王しんのうであった。

 賀陽親王は持っていた扇子で自らのことを扇ぎながら、噂話で盛り上がる宿直とのいばんの者たちに聞く。

 聞かれた宿直番の者は、何も答えられずにいた。

 もちろん、冥府で働く篁の姿を見た者などはいるはずもなかった。

 冥府に行くには死ななければならないのだ。

 ただ、という言葉もあるのだ。


 小野篁が変わり者であるということは、有名なことであった。

 野狂やきょう

 平安京たいらのみやこの人々は篁のことをそう呼んだ。

 武芸に優れ、漢詩や短歌においても、その名を轟かせている。だが、小野篁という人物はどこか普通の人とは違う。悪く言えば、狂っている。そのようなことを含めて、野狂と呼んだのだ。

 野狂というあだ名は、そういった篁に対する妬みのようなものも含まれているのかもしれない。

 きっと、噂話も誰かが面白おかしく語っただけのことだろう。


 いずれにせよ、根も葉もない噂だ。

 友人である賀陽親王は、そう思っていた。





 その夜、小野篁は太刀を腰に佩くと音を立てずに屋敷を出た。

 丑三つ時。辺りはしんと静まり返っている。

 向かう先は決まっていた。

 篁は何の明かりも持たずに暗い道をひとり歩いた。

 時おり、遠くの辻を牛車が通る。

 どこぞの公卿が出掛けているのだろう。

 篁は六道辻まで来ると、一度辺りを見回して誰もいないことを確認してから、珍皇寺の中へと入っていった。

 珍皇寺の境内の奥。そこには、小さな井戸があった。


「さて、行くか」


 篁は独り言をつぶやくと、その井戸の中へと飛び込んでいくのであった。




 ―――― TAKAMURA 完

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