大嶽丸(3)
空の雰囲気が怪しかった。
これは降るな。馬上で篁は東側に垂れこめている鉛色の雲を見上げながら、そう思っていた。
急ぎ鈴鹿山へ向かう必要がある。鈴鹿の訪問を受けた篁はそう感じ取ったのである。
篁の隣には、同じように馬に乗った鈴鹿の姿があった。狩衣という男装姿であるが、馬の乗りこなしは見事であり、普段から馬に乗り慣れている様子もあった。
鈴鹿は自らを天女であると篁に語った。元は立烏帽子という者と同一の存在ではあったが、そこから大嶽丸を含めた三人に分裂したそうだ。すべてが信じがたい話ではあったが、いまはこの話を信じるしかなかった。
しばらく街道を進んでいくと、雨が降りはじめた。
どこか雨宿りができる場所が無いか篁は探し、街道沿いにあった洞穴へと足を向けた。
苔むした洞穴の中はどことなく気味が悪かったが、贅沢は言っていられなかった。雨を凌ぐことができるだけでもありがたく思い、篁は馬を洞穴の入り口の近くに繋ぐと、少し奥まったところで火を焚いた。
鈴鹿は馬に近い場所で空を見上げている。無表情のままであるため、感情は読み取れないが、そこに美しい顔があるということだけは確かだった。狩衣姿に男装した天女。ぱっと見は男のようではあるが、その美しさを抑えきることは出来てはいない。さらに雨で濡れたせいで狩衣が濡れており、肌に張り付いた狩衣のせいで体の線がはっきりと見て取れ、鈴鹿の
「少し、体を乾かした方が良いのでは」
火に当たることを篁は鈴鹿に勧めたが、鈴鹿はちらりと篁の方を見て首を横に振った。
これは困ったな。内心、篁は苦笑いをした。
雨は止むどころか、次第に強さを増していく。遠くで稲妻が走り、一瞬空を明るくする。
「まるで、我らの行く手を阻もうとしているようだな」
体が乾いた篁は鈴鹿に近づき、空を見上げていう。
「これも立烏帽子の仕業にございます」
「なんと、立烏帽子は天候も操れるのか」
鈴鹿の言葉に篁は驚きを隠せなかった。
平安京には陰陽師という天候に関する物事を決める者たちが存在しているが、その陰陽師たちの頭である
「……しばらくすれば、この雨は止みましょう」
空を見上げたまま、鈴鹿はいう。
そして、鈴鹿の言葉通り、雨は止んだ。
火を消し、洞穴を出た篁と鈴鹿は馬にまたがると再び街道を進んだ。
「先ほどの雨は立烏帽子の仕業と申したが、立烏帽子は我々の動きに気づいているということか」
「はい。
「そうなのか」
篁は思わず鈴鹿の目をじっと見つめてしまった。いまも立烏帽子は鈴鹿の目を通してこちらを見ているのだろうか。そう思うとなんだか妙な気分だった。
街道から山に入った。この先にあるのは、鈴鹿関である。鈴鹿関は近江と伊勢の境にあり、関を守る兵は両国から出されており、守りが固いことでも有名である。
しかし、まったく人の気配が感じられなかった。関といえば、武装した兵が守っているはずである。それにも関わらず、誰もいないのだ。
なにかがおかしい。そう気づいたのは篁だけではなく、鈴鹿も同じだった。
「篁様」
「ここはすでに立烏帽子の領域内ということか」
篁の乗る馬の脚が止まった。何かに怯えているようで、そこから一歩も動こうとはしない。
仕方なく篁は馬から降り、自分の足で山道を登ることにした。
鈴鹿の馬も同じであったようで、鈴鹿も篁の後をついて歩きはじめる。
無人の関を通り、近江の国から伊勢の国へと入ろうとした時、篁は人の気配を感じ取り、ゆっくりと腰に佩いた太刀へと手をのばした。
「篁様、お待ちください。これは私の手の者です」
鈴鹿がそう言うと、木の陰から水干を着たふたりの
「お待ちしておりました、篁様」
「おかえりなさいませ、鈴鹿御前」
ふたりの女童が声をそろえて言う。ふたりは顔も服装もすべてが瓜二つであり、まるで同じ女童がふたりいるかのように錯覚してしまうほどだった。
「大嶽丸はどうしていますか」
鈴鹿が女童に問う。
「大嶽丸様は太刀が無くなったと騒いでおります」
「坂上広野麻呂の太刀が無くなったと騒いでおります」
女童たちはクスクスと笑いながら言う。
おそらく無くなった太刀というのは、昨晩に鈴鹿が篁のもとへと持ってきた鬼切丸のことであろう。鬼切丸は今頃、小野家の家人により坂上家へと届けられているはずである。
「では、立烏帽子はどうしていますか」
「立烏帽子様はじっと池を見ておられます」
「ずっと池を見ておられます」
今度は真顔で女童は言った。
池を見ている。それがどういうことなのか、篁には何となくではあるがわかった気がした。おそらく、見ているのは池ではない。その水面に鈴鹿の見ているものを映し出して、それを見ているのだろう。まさに、いまも篁の横顔をじっと見つめる鈴鹿のように、立烏帽子も篁の顔を見ているに違いなかった。
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